2.3.13

生きている意味

数日前、苺とチェリーを買いに行った折り、マフムートに「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」... と言うと、彼は「なんだい?」と、とても穏やかな笑顔でこちらを見ていた。

「ねぇ、マフムート、アラーがあなたに約束したパラダイスは本当に来るって信じてる?」

突拍子もない質問にもかかわらず、彼は満面の笑顔で答えてくれた。

「もちろんだよ。その希望がなかったら生きている意味がないだろ?」

その言葉を受けて、その通りだと思っているのが彼にわかるように、私は大きく頷いた。そして次に私の口から出た言葉は、「私はもう既に地獄に居るのよ。それにこの先も楽園に入れる見込みはないんだよね、私イスラム教徒じゃないからさ」というものだった。

マフムートは胸を数回軽くたたく仕草をし、「そんなことはない。ここ(心/heart)がきれいな人は皆楽園に行けるに決まってる」と言った。

ほぼ同じ年月を生きて来た者同士の真面目な会話だった。

私は「ありがとう」と笑顔で彼に挨拶して帰る道すがら、(でもね、コーランにはアラーの名を唱える者、アラーに従う者だけが楽園に行けるって書いてあるのよ... だから、私はもう既に地獄に居るって感じてるのに、この上もっとひどい地獄行きが待っているだけだって考えるのが順当だと思うよ)と心の中でつぶやいていた。



キリスト教でもやはり、聖書に書かれていることに従う者にだけ楽園行きが約束されている。
私は聖書を熱心に勉強している人にもこの冒頭の同じ質問をしたことがあるが、答えの根幹をなすものはマフムートと同じであったものの、こちらは、心がきれいでありさえすれば誰でも楽園に行けるというわけではなく、神の御意志を行う者のみが楽園を享受できると、厳格な姿勢を崩さなかった。それ故に、もう一度聖書の勉強に戻るようにと、私を見限る/見捨てることなく、度々手を差し伸べに来てくれているのである。

おそらく、コーランを熱心に勉強した人であれば、やはりアラーの御意志に適う者のみが是認されると言うことだろうし、私が興味を示したならば真摯に諭そうともしてくれることだろうが... 

厳格さが人を癒すかといえば、そうばかりでもないと今は思うようになってきた。どうしようもなく落ち込んでしまった人間には、ゆるい基準というのは一時的にでも救いになるものなのだ。例えそれではダメだろうと頭で理解していてもだ。


とにもかくにも、私はそのどちらの宗教にも属さず、属そうとも思わないから、やはり地獄行きだなと思った次第である。

もし仮に、私達の触れ得る宗教というものが真実に神の意志を伝えているものであったならの話だが...

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