22.9.13

Name in Hebrew

政治的なこと、宗教的なこと等々抜きにして、最も感覚的にギャップ(隔たり)を感じる国から来た友達が私に付けてくれた名前...

その名前をその国の文字のまま透かし彫りにした手鏡を作って、facebookにupした。
おそらく、それを見たイスラム教徒の多くは離れて行くことだろう。



私達は何を基準にして物事の善悪を判断しているのか...

自分の身辺に起こったことが独自の判断基準になっているのならいざ知らず、日常的に目にしたり耳にしたりする極めて"定かでない"情報(真しやかになされる報道)によって、非常に偏った意見を持たされてしまっている危険性が全く否定できない世の中にあって、何を信じろと言うのであろうか。

生きるのに困難な時代になると、宗教というものが勢力を拡大するというのは言わずと知れたことだが、私には宗教というものがどうにも無用な敵対心を煽るものにしか映らず、全ての悪の根源がそこに根ざしているように思えてならないのだ。
かといって、『無宗教』を声高に叫ぶ気にもならないのは、『無宗教』という名を盾に、したい放題を働くことを正当化する輩が鼻についているからなのかも知れない。

昔、聖書を熱心に勉強する人たちと共に居たことがある。
誠実を絵に描いたようなその人たちは、常に穏やかで、戦闘的なところなど一つも無く、お金に対する執着も無く、ありとあらゆる権力に媚びることも無く、すこぶる礼儀正しい集団であったが、私は最終的にバプテスマを受ける気持ちにまで至らず、次第にその集団とは距離を置くようになってしまった。

どの宗教団体にも言えることだが、自分達の神の教え以外は受けつけることは無い。(当たり前のことだが)
その差別化するという行為が、私にはどうにも受け入れられなくなったのは、ここに来て様々な国から来た人たちと暮らすようになってからだ。

聖書を勉強している人たちがあれほど忌み嫌っていた"教会のクリスチャン"の中にも、素晴らしく善良な人が居て、ムスリムの中にも誠実で何の欲にも支配されていない人が確かに存在している。ムスリムとの終わらない争いに嫌悪感を抱き、国を出てきたジューイッシュも居る。

そんな人たちと腹を割って話しをするようになった時、私は何を教わってきたのだろうと思った。

この世に存在する"人が作り上げた"宗教というものは、人を戦闘に向かわせる為に作り上げられたもののように思えてならない。

誰かの悪意によって作り上げられたものに振り回され続けることを阻止できるほどの、偉大なるパワーを持った何ものかが、この先現れると確信できる人は幸せである。しかし、そのパワーが宗教の名の下に発揮されることがないようにと、私は心から願っている。



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