5.1.13

冒涜(ぼうとく)という言葉の意味を知っているか

Albert Camus はそれほど多くの作品を世に出したわけではなく、また、彼のものとされている出版物の中には本人の承諾無しに出版されてしまったものがいくつかある。



この『幸福な死』の『刊行者のことば』を最初に読まなかったら、私は自分の意に反して故人の尊厳を踏みにじり、この本を読んでしまうという罪を犯してしまったに違いない。



ここにその刊行者のことばを書き写しておく。


刊行者のことば
《Cahiers Albert Camus》の刊行は、この作家の家族ならびに刊行者によって決定された。それは数多くの研究者、学生、さらには広く一般に、彼の仕事と思想に関心を寄せるあらゆる人びとの要望に応えるためである。
 この刊行を始めるにあたって躊躇がないわけではない。自らに厳格であったアルベール・カミュは、なにひとつとして軽々しくは出版したことがなかった。それではなぜいまになって、放棄された小説、講演、彼が自分では『時事論集』に収録しなかった論文、記録、さらには反故までを、読者にゆだねようというのだろう?
 理由は簡単だ。一人の作家を愛していれば、あるいはその作家を徹底的に研究しようとすれば、人びとはしばしば彼についてのすべてを知りたがるものだ。カミュの未刊行作品を保持している人びとは、かかる正当な要望に応えなかったり、さらには、たとえば『幸福な死』や『旅行記』を読むことを切望している人びとにそれを許さぬことは、間違ったことであると考えている。
 研究の必要上、ときとしてはカミュの存命中から、まだあまり知られていなかったり発表されていなかった彼の青春時代の書きもの、あるいはより後期のテクストを探索していた研究者たちは、これらの作品を読むことによって、作家のイメージがよりその含蓄を増し、かつ豊かになるばかりであると信じている。
 《Cahiers Albert Camus》の刊行は、ジャン=クロード・ブリスヴィル、ロジェ・グルニエ、ロジェ・キヨ、ポール・ヴィアラネーにゆだねられている。
 《Cahiers》は、現在では知ることが困難な未発表作品やテクストの刊行だけに限られるものではない。それは、アルベール・カミュの業績に新しい光りを投げかけると考えられる諸研究をも収録することになるだろう。


故人の尊厳を傷つけることを正当化したこの見苦しい "言い訳" の中に、カミュへの深い愛情を感じる人がどれほどいるのだろうか?

カミュの厳格さについて知るには、本人と面識がなくとも『ペスト』を読むだけで充分であるし、作品を世に出すまでに至っていないと本人が評価を下した作品を、上記のような "作者以外の者たちの利益" のために利用するなどということが許されていいはずはないじゃないかと、私はこの "言い訳" を読んで非常に腹立たしく思った。

人一人の尊厳が、このようにまことしやかな口実をつけられて踏みにじられるということは、断固としてあってはならないことだ。

異論を唱える者がいたら、自分自身に問いかけてみるといい。
「自分が死んだ後、世に出したくなかった(他人に見られたくはなかった)自分に属するものが、遺族やら研究者やら自分を愛すると宣う者たちに寄って勝手に取り沙汰され、ああでもない、こうでもないと好き勝手に評価されもてあそばれるのを幸せだと思うか?」と。

これはカミュに対する冒涜であって、愛情などでは断じてない。


4.1.13

真夏なのに16℃

昨日の朝は15℃だったオークランド。今日も冬並みの寒さだ。数年前の元旦に雹が降ったのに比べればかなりマシだと言えるが、ようやく真夏(といっても、気温は25〜27℃前後)になったかと思っていたら急に冷え込むというのを繰り返しながら、毎年扇風機を2,3回(2,3日ではない)回す程度で終わってしまうというオークランドの夏...
ここに来てから熱帯夜を経験したのは1回しかなかったように記憶している。大概夜は涼しく、一年中同じ掛け布団で過ごせるのは非常に経済的でもあり、収納場所もいらないというのは嬉しい限りだ。

さて、昨日はブティックの仕事始めだったが、概ね静かな仕事始めだった。午前中勤務のパメラから仕事を引き継ぐ時、昨年暮れに店を物色に来た中国人の女性がまた現れたのを除けば...。

彼女はその近辺で売りに出されている物件を見て回っていると言っていたが、私は働き出したばかりで店のことについては何も知らず、何を聞かれてもお役には立てないと言っておいたが、何しろ英語があまりわからないようで、中国語で書いてくれた方がまだ理解し易いかも知れないと言っても、それさえも通じず...

その女性、パメラには自分は私の友達だと言い、昨日は一緒に来た連れに向かってパメラを友達だと紹介していた。パメラは苦笑いしていた。多分ちょっとした顔見知りに対しても『友達』という英単語しか思い浮かばないのだろう。或は、中国では顔見知りは全て友達と呼ばれているとか?

パメラが私に、「あなた、あの人たちが何を喋っているのかわかる?」と聞いてきたので、私は中国語は全くわからないと言うと、「マンダリンかしらね?」と更に聞かれ、「私にはマンダリンとカントニーズの区別もつかないよ」と笑って答えた。
中国人の友達は何人かいるのに、中国語については何も知らないというのは、その国に対して興味が無いという一語に尽きる。

まだ自分のものではない店に、何を買うわけでもないのに大きな顔をして入って来て、所有者に了解を得たわけではないのにメジャーを使ってサイズを測り始め、勝手に写真を撮りまくり、挙げ句の果てにはお客さんが入っている試着室のカーテンを無造作に開けてしまうというとんでもない行儀の悪さを披露してくれたその人たちに、パメラも私も心底腹を立て、お引き取り願いたいと言っても言葉がわからないのか笑っているだけで、始末に負えなかった。

私はパメラに言った。『世の中は金がものを言うんだ』と信じて疑わないような人は好きになれないと。
パメラは大きく頷いていた。

もちろん、中国に限らず、どこの国にも礼節をわきまえない人もいれば立派な行いをする人もいるのは重々承知しているが、この不景気な時代に他人の弱みを突いてのし上がろうという"元気のいい"国はそう多くはなく、中国がその内の一国である事は間違いのない事実であろうし、世界の市場に参入するのに相応しい知識を身につけている野心家ばかりではないのも事実であるように私は思った。

そのような行儀の悪い輩のおかげで、真っ当な中国人が十把一絡げに非難されるというのもこれまた気の毒なことである。





1.1.13

昔日の光景

年の瀬の風景を思い出していた。

いつでも忙しく動き回っている母が、殊更忙しく動き回る日...

その昔『臼屋』と呼ばれていた我家には、父が作ったそれはそれは形の美しい臼と杵があって、それは年に一度、お正月のお餅を搗く為にだけ出される以外は納屋にしまわれていた。

お正月を目前に控えた日の朝、家の外には簡易かまどが用意され、薪をくべ、母が前日の夜から浸けておいたもち米を蒸籠で蒸し始める。
「餅搗きだぞ〜」と叩き起こされた子供達は、寒いので火の周りに集まり、薪をくべるのを手伝う子あり、その周りで遊び始める子あり...

もち米の入った蒸籠から蒸気が出始め、いい香りがしてくると、まだかまだかという思いで気が急き始める。炊きあがったかどうかをみるのは母の役目だった。

用意された臼の中を水で湿らす。餅が臼にこびりつかないようにする為だ。
そして炊きあがったもち米を一気に臼に投入し、水で湿らせた杵でトントントンと搗き始めるのは父の仕事であった。
米粒が飛び散らないように、静かに搗き始める。そして、ある程度粘りが出てくると、今度は本格的に杵を振り上げ、リズムを取って搗く、ひっくり返すを繰り返す。もちろん、餅になりかけの米の塊をひっくり返すのは母の役目で、脇で見ている私達は、「わざとリズムを狂わせて手を打ったらたまらんだろうね」とかジョークを言い、母は「冗談じゃない!」と言いながら、搗いている父も、また母も大笑いしながらリズムを刻んでいた。

杵はかなりな重さがあり、二臼、三臼ほど搗くと体力を消耗してしまった父は、私の連合いにバトンタッチしたが、母はずっと介添え役に徹していた。
私はというと...、傍でずっと写真を撮っていた記憶しかない。

一臼搗き上がると、熱々の餅を木で作られた大きな薄い箱に伸ばして行く。箱には予め片栗粉を薄くひいてある。(その作業は私と姉の仕事だったような気がする)
そしてまた、次のもち米を蒸かし始める。

何臼か搗く内の一つは鏡餅用として、薄い木の箱の上で3種類ほどの大きさに丸める。できるだけ高くなるように丸めるのだが、熱い餅はすぐにダレてしまって、見る見るうちに平らになってきてしまう。だが、冷めて来た餅はもう一度丸め直すことはできず、買って来た鏡餅のようにこんもり仕上げることはできなかった。

また、搗いた餅の一部はその日の昼に食べる『おはぎ』となった。この搗き立ての餅は格別な美味しさで、丸々半日かかってようやくありつけたご褒美のようなものだった。
ちなみに、おはぎの餡を作るのもまた、母の仕事であった。


月日が経ち、私の連合いが餅を搗く風景はもう見られなくなり、私達はNZに引っ越してしまい、父や母は年老いて、もう餅搗きをするほどの体力は無くなってしまった。

それでも『臼屋』と言われていた私の実家から餅の姿は消える事なく、母は機械を使って今でもお正月のお餅を作っていると言う。

NZで餅つき機を手に入れる事などできない私は、まったく邪道ではあるが、一晩水に浸した韓国産もち米をフードプロセッサーにかけてドロドロにし、それを電子レンジにかけて餅を作るという方法で、やはり今でも元旦に食べるお雑煮を用意している。
味も食感も、杵つき餅に敵うはずもないが、気分だけはお雑煮を食べているという感じになれる。

夏のお正月。セミの声を聞きながら、熱いお雑煮を食べる私達は、やはり日本人だよなと思った。


目の中に焼き付いている昔日の光景は、ツヤのある美しい形の臼と、水を張った大きなブリキのバケツに入った杵、そして白い蒸気を出す蒸籠と釜、笑顔の家族...

もうその時代が戻って来る事はないのを心から寂しく思った、2013年の年明けであった。



「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...