1.1.13

昔日の光景

年の瀬の風景を思い出していた。

いつでも忙しく動き回っている母が、殊更忙しく動き回る日...

その昔『臼屋』と呼ばれていた我家には、父が作ったそれはそれは形の美しい臼と杵があって、それは年に一度、お正月のお餅を搗く為にだけ出される以外は納屋にしまわれていた。

お正月を目前に控えた日の朝、家の外には簡易かまどが用意され、薪をくべ、母が前日の夜から浸けておいたもち米を蒸籠で蒸し始める。
「餅搗きだぞ〜」と叩き起こされた子供達は、寒いので火の周りに集まり、薪をくべるのを手伝う子あり、その周りで遊び始める子あり...

もち米の入った蒸籠から蒸気が出始め、いい香りがしてくると、まだかまだかという思いで気が急き始める。炊きあがったかどうかをみるのは母の役目だった。

用意された臼の中を水で湿らす。餅が臼にこびりつかないようにする為だ。
そして炊きあがったもち米を一気に臼に投入し、水で湿らせた杵でトントントンと搗き始めるのは父の仕事であった。
米粒が飛び散らないように、静かに搗き始める。そして、ある程度粘りが出てくると、今度は本格的に杵を振り上げ、リズムを取って搗く、ひっくり返すを繰り返す。もちろん、餅になりかけの米の塊をひっくり返すのは母の役目で、脇で見ている私達は、「わざとリズムを狂わせて手を打ったらたまらんだろうね」とかジョークを言い、母は「冗談じゃない!」と言いながら、搗いている父も、また母も大笑いしながらリズムを刻んでいた。

杵はかなりな重さがあり、二臼、三臼ほど搗くと体力を消耗してしまった父は、私の連合いにバトンタッチしたが、母はずっと介添え役に徹していた。
私はというと...、傍でずっと写真を撮っていた記憶しかない。

一臼搗き上がると、熱々の餅を木で作られた大きな薄い箱に伸ばして行く。箱には予め片栗粉を薄くひいてある。(その作業は私と姉の仕事だったような気がする)
そしてまた、次のもち米を蒸かし始める。

何臼か搗く内の一つは鏡餅用として、薄い木の箱の上で3種類ほどの大きさに丸める。できるだけ高くなるように丸めるのだが、熱い餅はすぐにダレてしまって、見る見るうちに平らになってきてしまう。だが、冷めて来た餅はもう一度丸め直すことはできず、買って来た鏡餅のようにこんもり仕上げることはできなかった。

また、搗いた餅の一部はその日の昼に食べる『おはぎ』となった。この搗き立ての餅は格別な美味しさで、丸々半日かかってようやくありつけたご褒美のようなものだった。
ちなみに、おはぎの餡を作るのもまた、母の仕事であった。


月日が経ち、私の連合いが餅を搗く風景はもう見られなくなり、私達はNZに引っ越してしまい、父や母は年老いて、もう餅搗きをするほどの体力は無くなってしまった。

それでも『臼屋』と言われていた私の実家から餅の姿は消える事なく、母は機械を使って今でもお正月のお餅を作っていると言う。

NZで餅つき機を手に入れる事などできない私は、まったく邪道ではあるが、一晩水に浸した韓国産もち米をフードプロセッサーにかけてドロドロにし、それを電子レンジにかけて餅を作るという方法で、やはり今でも元旦に食べるお雑煮を用意している。
味も食感も、杵つき餅に敵うはずもないが、気分だけはお雑煮を食べているという感じになれる。

夏のお正月。セミの声を聞きながら、熱いお雑煮を食べる私達は、やはり日本人だよなと思った。


目の中に焼き付いている昔日の光景は、ツヤのある美しい形の臼と、水を張った大きなブリキのバケツに入った杵、そして白い蒸気を出す蒸籠と釜、笑顔の家族...

もうその時代が戻って来る事はないのを心から寂しく思った、2013年の年明けであった。



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