25.9.13

木工にハマるオヤジの気持ちがよくわかる

日毎に口数が減ってきている。

元々オシャベリ好きではなかったが、日中一人で作業している時は一言も言葉を発せず、ほんのわずか、食事の時にだけ同居人と言葉を交わす程度で、食事が終われば自分の部屋で本を読んだりYoutubeで木工の勉強をしたりして一日が終わるという生活...。
おそらく私は寡黙な父に似たのだろう。


さて、日本のステンドグラス・クラフターの方々が簡単に手に入れられる(購入できる)木枠とか、パネル・スタンドとかは、NZではほぼ手に入らない状態なので、かねてから木工もプロ並みにならないとな...と考えていたのであるが、scroll sawを手に入れてからは、キャンドルホルダーの台座作りも難無くこなすことができるようになり、サイズ、形など制限なく作れる上に、既製品にはない装飾まで入れられて嬉しい限り。
また、木枠、box作りなどもプロの技術を家に居ながらにして習得できるのは、Youtubeのおかげである。


ちなみに、私の使っているリョービのテーブルソーは手頃な値段のこじんまりしたもので、ステンドグラスのスタジオからゴロゴロと裏庭に引っぱり出して使うのにちょうどいいサイズなのはいいのだが、テーブル面が狭過ぎて大きな合板などの板をジグを使って切ることができないのが難点。補助テーブルまで作る元気が無いので、仕方なく、大きな板はジグソーで大まかに切って、テーブルソーに乗る程度のサイズにしてから正確な寸法に切り直している。
まぁ、延々とノコギリで切らなければならなかった父の時代のことを思えば、ずいぶんマシである。


テーブルソーに取り付けて使うmiter sled も最近作った。フレーム作りには欠かせないジグ(jig)である。(日本語の『治具』は当て字だったんだ...)
今まではノコギリを使って切っていたため、正確な45°を切り出すのにそれはそれは苦労していたが、これからはこのジグであっという間にプロ並みの美しいフレームが出来上がるのだと、製作を殊の外楽しみにしていたのに、昨日も今日も雨、また雨... よって、庭にテーブルソーを出せなくて作業できず。(狭いスタジオの中では木屑が舞い上がってとんでもない状態になるので、やはり使いたくない)

仕方なく、今日もスクロールソーで鍋敷き作りとなった。


裏庭に植えた安い花は元気に一冬越して満開になっている。
昨年植えたリンゴの木は、ビロードのような芽を出し始めた。
同居人達がはるばるHamiltonまで車を走らせ買って来た梅の木も、すこぶる元気だ。
庭の其所此処に生えてしまったイタリアンパセリ... 抜いても抜いても色んな所から出てきてしまう。
コリアンダーも水菜もよく育った。
育ち過ぎたパイナップルセージはどうしよう... パイナップルセージを使った料理のレシピを探さなくては...


明日は晴れてくれるといいなぁ...





22.9.13

Name in Hebrew

政治的なこと、宗教的なこと等々抜きにして、最も感覚的にギャップ(隔たり)を感じる国から来た友達が私に付けてくれた名前...

その名前をその国の文字のまま透かし彫りにした手鏡を作って、facebookにupした。
おそらく、それを見たイスラム教徒の多くは離れて行くことだろう。



私達は何を基準にして物事の善悪を判断しているのか...

自分の身辺に起こったことが独自の判断基準になっているのならいざ知らず、日常的に目にしたり耳にしたりする極めて"定かでない"情報(真しやかになされる報道)によって、非常に偏った意見を持たされてしまっている危険性が全く否定できない世の中にあって、何を信じろと言うのであろうか。

生きるのに困難な時代になると、宗教というものが勢力を拡大するというのは言わずと知れたことだが、私には宗教というものがどうにも無用な敵対心を煽るものにしか映らず、全ての悪の根源がそこに根ざしているように思えてならないのだ。
かといって、『無宗教』を声高に叫ぶ気にもならないのは、『無宗教』という名を盾に、したい放題を働くことを正当化する輩が鼻についているからなのかも知れない。

昔、聖書を熱心に勉強する人たちと共に居たことがある。
誠実を絵に描いたようなその人たちは、常に穏やかで、戦闘的なところなど一つも無く、お金に対する執着も無く、ありとあらゆる権力に媚びることも無く、すこぶる礼儀正しい集団であったが、私は最終的にバプテスマを受ける気持ちにまで至らず、次第にその集団とは距離を置くようになってしまった。

どの宗教団体にも言えることだが、自分達の神の教え以外は受けつけることは無い。(当たり前のことだが)
その差別化するという行為が、私にはどうにも受け入れられなくなったのは、ここに来て様々な国から来た人たちと暮らすようになってからだ。

聖書を勉強している人たちがあれほど忌み嫌っていた"教会のクリスチャン"の中にも、素晴らしく善良な人が居て、ムスリムの中にも誠実で何の欲にも支配されていない人が確かに存在している。ムスリムとの終わらない争いに嫌悪感を抱き、国を出てきたジューイッシュも居る。

そんな人たちと腹を割って話しをするようになった時、私は何を教わってきたのだろうと思った。

この世に存在する"人が作り上げた"宗教というものは、人を戦闘に向かわせる為に作り上げられたもののように思えてならない。

誰かの悪意によって作り上げられたものに振り回され続けることを阻止できるほどの、偉大なるパワーを持った何ものかが、この先現れると確信できる人は幸せである。しかし、そのパワーが宗教の名の下に発揮されることがないようにと、私は心から願っている。



「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...