24 年前の今日は火曜日。最高気温は 27.7 ℃もあり、晴れだったと、今朝長男から Line に送られて来たのを見て、全く何も覚えていないことに気が付いた。
覚えていないのはそれだけではない。
どんな服装をしていたのか、どんな物を用意して異国の地に向かったのかさえも、全く記憶に無い。
17 歳だった子が 41 歳になり、14 歳だった子が 38 歳になり、8 歳だった子が 32 歳になった今、当時の状況を思い返してみると、ある日突然、一人で全てを背負わなければならなくなった自分が、必死の思いで、ただただ気丈に振舞うよう踏ん張り続けていたのは、『壮絶』の一言に尽きたなと、懐かしく思い出した。
『懐かしい』と書きはしたが、決して楽しい思い出ではなく、できることなら一生経験することなく終わりたかった類の思い出である。
私たちの最大の記念日は、同時に私の母の誕生日でもある。
今年、90 歳の誕生日を迎えた母は、外見はひどく歳を取ってしまったが、ボケることもなく、今でもしっかりしていて、Line で時折連絡を取り合うこともできている。(孫とも Line でやり取りをするようになった。email でのやり取りよりも楽なんだそうだ)
姉が送ってくれた写真には、今でも何も変わらない『日本の団欒』が写し込まれていた。
私たちの生活は、海外ということもあるだろうが、同じようにダイニング テーブルで食事をとる風景でも、雰囲気はまるで違うなと感じる。そこに居る人ではなく、漂う "空気" が違うのだ。
私たちは、違う道/生活を選んだのだと、送られて来た写真を見て痛切に感じた。
日本に帰っても、年々減り続ける日本の年金だけでは暮らしてはいけない事が明白になった今となっては、永久的に日本に帰るという選択肢は完全に無くなった。
この先日本に一時帰国する機会は、ごく限られたものとなるだろうことは容易に想像がつく。
母が 90 歳の誕生日を迎え、外見的な衰えを目の当たりにすると、元気な内に会っていっぱい話をしたいという思いは強くなる。だが、未だ感染の脅威が無くなってはいないだろう飛行機等での移動は、やはり気後れがするのは否めない。その上、航空運賃は目が飛び出るほど高騰してしまっていて、おいそれと旅行を計画することができなくなっているというのも、非常に痛いところである。
コロナが収束して、何も案じることなく日本に一時帰国できる日が早く来てくれることを、ただただ祈り続ける毎日である。