22.3.13

@ my studio

今日、スタジオで仕事をし始めるとすぐに頭がクラクラし、気分が悪くなったので、しばらく休憩室のソファで横になっていた。

開け放した入り口のドアの向こうには、ハーブガーデンの生い茂ってしまったパイナップルセージの赤い花が見え、やせた梅の木が見え、かすかに水色の空が見えていた。

もしかしてこのまま逝ってしまうかもしれない...、そんな思いが頭をよぎった。
そこで、持っていたiPhoneで『最後に私が見ていた風景』になるかもしれない写真を、横になったまま撮っておいた。

撮った写真を確認すると、外が明る過ぎて色がとんでしまっていた。何枚か撮り直してみたものの、何度やっても同じように太陽の光りで屋外が白とびしてしまうばかりで、「今見ている風景」にはならなかった。

しばらくiPhoneと格闘している内に、頭のクラクラは治まり、起きて仕事ができるようになった。

これは、『最後の一枚』になりそびれた写真。



13.3.13

A message from Korea

韓国に居る友達からfacebookにメッセージが届いた。

「友達」と言っても年齢が親子ほども違うのだが、NZに来て初めて入った語学学校でのクラスメイトで、その時彼はソウル大学に在籍する学生だった。

彼はとても気だてがよく、すこぶる行儀のいい青年で、頭脳明晰であるのをひけらかすこともなく、終始笑顔を絶やすことがなかったが、ある日年下の韓国人の男の子が、私に「ハーイ○○!」と呼び捨てで名前を呼び挨拶したことに対して、「無礼なヤツだ」と本気で怒ったことがあった。
韓国は日本以上に年齢差というものを重要視するようで、年上の私に向かって呼び捨てというのは彼にとっては許されざることだったのだろう。とは言っても、ここはNZ。社長に対してだろうが先生に対してだろうが呼び捨てが当たり前の国なのだから、私は呼び捨てでいっこうに構わないし、○○-sang (○○さん)と呼ぶ必要はないよと私は彼の怒りを笑い飛ばした。

同じクラスで丸一日中時間をともにしていても全く親しくならない人というのがいて、顔は思い出せても名前は覚えていないというのはまだマシな方で、顔すら覚えていない人も実際沢山いたのだが、彼は仲の良いクラスメイトの中の一人だったので、語学学校を去った後も折りに触れてemailで連絡を取り合っていた。
近年はfacebookがemailの代わりとなり、相手の投稿を見て近況を知り、そこにコメントを残したりして繋がっているような気になり、そして、ついにはメッセージもemailではなくfacebookを介して伝えられるようになった。

「ハーイ、○○ sang」... (相変わらず行儀がいい)

彼は大学卒業後映画製作会社に就職し、VFX (Visual effects) 製作の仕事をしている。仕事場はシンガポールであったり、オーストラリアであったりと、忙しく飛び回っていて、多国籍なメンバーとともに生き生きと生活しているのがよくわかるが、かなりなハードワークだというのも同時に伝わってくる。
彼の以前関わった仕事に The Forbidden Kingdom という映画があった。就職して最初の大きな仕事だったのだろう、彼は自分の仕上げた作品をemailに添付して送ってくれたので、映画を観てその場面が映るのを今か今かと画面に釘付けになって観たものだ。そして、エンドロールに彼の名前を見つけて、自分の子供のことのように喜んでしまったよとemailを送ると、エンドロールまで見てくれたんだと、かえって恐縮されてしまったこともあった。

そんな息子のような彼からfacebook経由で届いたメッセージには、彼の弟さんがNZで永住権を取り、ご両親を呼び寄せることにしたので、ご両親は今年5月にはこちらに引っ越してくることになることや、自分もできればNZの映画会社で働き、移住してきたいという希望がある事などが書かれていて、またこちらに来ることが決まったら必ず連絡するから、ぜひ会って話をしようねと書き添えられていた。
そして、引き続きfacebookで人生をシェアしたいと書いてくれてあった。「こんなおばさんと?何で?」とかなり疑問ではあるが、短い期間ではあっても一応クラスメイトだったんだもんなと、気を取り直し、放置状態だったfacebookに時々は何かをupしなくちゃなと思った次第である。




ところでダニエル、
facebookにupしたこのレモン バター クリームを挟んだバター クッキーだけどさ、サクサクでイケルじゃん!と思って、続けてもう一つ食べると何か微妙に気持ち悪くなるんだよ(笑)

一言で言うと、「くどいクッキー」ってとこかな。



2.3.13

生きている意味

数日前、苺とチェリーを買いに行った折り、マフムートに「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」... と言うと、彼は「なんだい?」と、とても穏やかな笑顔でこちらを見ていた。

「ねぇ、マフムート、アラーがあなたに約束したパラダイスは本当に来るって信じてる?」

突拍子もない質問にもかかわらず、彼は満面の笑顔で答えてくれた。

「もちろんだよ。その希望がなかったら生きている意味がないだろ?」

その言葉を受けて、その通りだと思っているのが彼にわかるように、私は大きく頷いた。そして次に私の口から出た言葉は、「私はもう既に地獄に居るのよ。それにこの先も楽園に入れる見込みはないんだよね、私イスラム教徒じゃないからさ」というものだった。

マフムートは胸を数回軽くたたく仕草をし、「そんなことはない。ここ(心/heart)がきれいな人は皆楽園に行けるに決まってる」と言った。

ほぼ同じ年月を生きて来た者同士の真面目な会話だった。

私は「ありがとう」と笑顔で彼に挨拶して帰る道すがら、(でもね、コーランにはアラーの名を唱える者、アラーに従う者だけが楽園に行けるって書いてあるのよ... だから、私はもう既に地獄に居るって感じてるのに、この上もっとひどい地獄行きが待っているだけだって考えるのが順当だと思うよ)と心の中でつぶやいていた。



キリスト教でもやはり、聖書に書かれていることに従う者にだけ楽園行きが約束されている。
私は聖書を熱心に勉強している人にもこの冒頭の同じ質問をしたことがあるが、答えの根幹をなすものはマフムートと同じであったものの、こちらは、心がきれいでありさえすれば誰でも楽園に行けるというわけではなく、神の御意志を行う者のみが楽園を享受できると、厳格な姿勢を崩さなかった。それ故に、もう一度聖書の勉強に戻るようにと、私を見限る/見捨てることなく、度々手を差し伸べに来てくれているのである。

おそらく、コーランを熱心に勉強した人であれば、やはりアラーの御意志に適う者のみが是認されると言うことだろうし、私が興味を示したならば真摯に諭そうともしてくれることだろうが... 

厳格さが人を癒すかといえば、そうばかりでもないと今は思うようになってきた。どうしようもなく落ち込んでしまった人間には、ゆるい基準というのは一時的にでも救いになるものなのだ。例えそれではダメだろうと頭で理解していてもだ。


とにもかくにも、私はそのどちらの宗教にも属さず、属そうとも思わないから、やはり地獄行きだなと思った次第である。

もし仮に、私達の触れ得る宗教というものが真実に神の意志を伝えているものであったならの話だが...

「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...