24.4.14

義援金 & 寄付金

総額幾らの義援金/寄付金が、誰それの元に届けられたという記事は珍しくはないが、その『総額幾ら』かを数える人は何を思いながら数えているのだろうと、ふと思った。

果たして数える必要があるのだろうか? 数えて『義援金が足りない』と更に募金活動に専心するための資料とするのか? 反対に『多過ぎた』と感じる場合は無いのだろうか?

そもそも寄付というものは見返りを期待しない善意でなされるはずのものであるのに、善意でなされたものについてわざわざ集計を取り、「幾ら幾らのお金が集まりました」と世間に公表することに、何ら違和感を感じないものなのだろうか?

以前勉強していた聖書にはこうあった。

人に注目されようとして自分の義を人の前で行うことがないようによく注意しなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに、憐れみの施しをするときには、偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように、自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなた方に真実に言いますが、彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかしあなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかに[なされる]ためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイによる書 6:1-4 )

自分の前にラッパを吹く人(或は団体)を、日常生活であまりにも多く目にし過ぎているせいで、それを『偽善』と呼ぶ方がかえって悪人扱いをされそうな気がするが、少し前、こんなにも沢山のお金が集まったと得意げに公表し、笑顔で会見している(或は写真に納まっている)人々をインターネットを介して観た時、私にはどうしてもその人たちが常日頃素晴らしく善良である人のようには見えず、ただ『お祭り騒ぎが好きというだけの人』にしか見えなかったのである。

その人たちは誰に対しても優しい態度を取ることができるのか… おそらくできないであろう。誰にも知られないように善意を行うことができない、或はそうしようとしない人の本性がそこにはっきりと現れているように思えてならないのだ。
そのような人たちの多くは、おそらく一人では何も行動できないに違いない。

世の中は、自分の前にラッパを吹くことをしない人々をあまりにも安易に冷酷な人だと決めつけるきらいがある。そして、羊の皮を被った得体の知れないものが大腕を振って闊歩し、真の羊はひっそりと隠れるように暮らすしか術が無くなっているのではないか...

あぁ、嘆かわしいことよ…

"人に注目されようとして自分の義を人の前で行う"人々よ、どうか、そのようにしない人々を非難だけはしてくれるな。



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