9.4.13

「日本人とは?---宛名のない手紙 --- 岸田 国士著」より抜粋

家のものが小豆をすこしほしいと言って近所の農家へ相談に行く。一升ぐらいならというので、それではと値段をたづねると、いくらでもいいと言う。しかし、いくらでもいい筈はないので、強いて言わせようとすると、ほかではどのくらいだろうかと逆に問うてくる。それから、先日町から来た衆が何十円とかならいくらでも買うと言ったが、そんなに高くとる気はないと言う。どうしても、これくらいとは言わぬので、その町から来た衆のつけた値を払う。けっきょく、いらぬというものを無理に受けとらされたかっこうがしたいのである。
「頭かくして尻かくさず」のこれほどぴったりした例はないのであるが、これもまた、われわれ日本人の痛ましいすがたである。


つくづく思うことは、われわれ日本人は、決して人並みの「人間らしさ」を持っていないわけではない。ただ、それがそのままのかたちで現れていないのである。それがそのままのかたちで現れることを阻む「何か」があるのである。その「何か」とはなんであろうか?
 前回の手紙で述べた「悲しき習性」ということにも関係がある。つまり、「自己中心」の物の考え方である。同情とかいうようなものさえ、自分本位の感情を出ないからである。従ってそういう感情のおおやけの表示が、どんな反響を呼ぶかということ、自分がその結果どんな立場に立つかということしか考えないのである。一対一の対決を余儀なくされた場合の利不利を直感するからである。結局、事面倒になるおそれのあることは差控えるくせがついてしまっているのである。「さわらぬ神に祟りなし」である。


ところで、これは、煎じつめれば、必ずしも個人の罪ではなく、お互がそういう習性を身につけるに至った原因が、やはり、そういう性格の「周囲」にあるのであって、よほど運がよくなければ、個人の正しい考えや行動が、「周囲」の支持を公然受けることはむづかしいという実情をわれわれは身に沁みて知っている。いつかそれが自然の身構えになっていることは、誰よりもわれわれ自身がよく心得ているのである。

言わば、直接個人の利害に係ること以外、まったく無関心とも見える周囲の眼を感じながら、われわれは自分の行動を律しなければならぬ時がある。それと同時に、人々の注意をひくということの意味が、われわれの間では、不自然に誇張されている。つまらぬことで人の眼をみはらせようとするものがあるかと思えば、別に恥ずべきいわれもないのに、むやみに人の間で目立つことをおそれるものもいるのである。そして、いづれもその極端なものは、人間の「人間らしい」すがたを失っているのである。


・・・・不幸にして、われわれの祖先は、道徳的にも驚くべき形式主義者であった。秩序を保つための形式が、成長を遂げるべき本来の精神を扼殺(やくさつ)したのである。


要するに、われわれの周囲を取り巻くものは、それぞれに「一個の人間」であるのに、われわれには、その「人間」という実体がぴんと来ず、それらは、なるほど「人間」の仲間かも知れぬが、むしろそんなことよりも、肩書であり、商売であり、旧知であり、未知で有り、時には好感がもてるもてないであり、更に肉身であり、恩人であり、仇敵であり、競争相手であり、泥棒であり、馬の骨であり、女ならば、人妻か処女か、素人かくろうとか、(この言葉に注意せよ)それが一切である。

かかる対人意識は、表面的には、それで別に差支えないと思われるかも知れぬが、人間同士の接触がこれですべてをすましているという現象は、決して他の国にはみられぬものだと私はひそかに考える。
この由々しいことが、どうして今日まで問題として取り上げられなかったであろう? それが封建的、非民主的な所以だと言ってしまえばそれまでであるが、決してそれだけでは問題の核心にふれてはいない。なぜなら、封建制を批判し、民主主義を唱えた多くの日本人が、やはり、かかる対人関係をもち、自ら省みるところがまだまだ足りなかったように思われるからである。
日本人の不幸の多くと、日本の社会の病弊のほとんどすべては、この、われわれの対人間意識の「不健全」に基くと言い切ることはできないであろうか? 私は、そのことをますます強く信じるようになった。


・・・それはわが戦国時代の歴史に材をとったある注目すべき映画の一場面である。
主人公である一武士が敵手に捕えられ、取調のため縄付きのまま白洲に引き立てられて来たところである。彼は、まず水を飲ませてくれと申出る。許されて、番卒が柄杓で差出す水に口を当てて飲む。いく口か飲んで、ほっとする途端、番卒は、柄杓に残った水を、この捕虜たる武士の面上にぴしゃりとひっかけるのである。まことに無造作なひとつの科である。ああ、なんという描写! なんという写実主義!
 私はこの場面だけで、この映画を再び見る気はしないのである。
 なぜなら、それがなんということなしに、その番卒の特別な役柄という風にはとれないからである。つまり、劇中の一人物の効果的な所作という解釈はできず、日本の下級武士は、抵抗力を失った故に対し、日常茶飯事の如くこういう取扱いをしていたのだ、という印象しか与えぬからである。が、それだけならまだいい。私がその時感じた不快感を率直に述べるなら、今の時代にもわれわれの同胞のなかに、この類いの人間はざらにいるのだ、という証拠を見せつけられるようであった。しかも、何よりも心淋しく思うのは、作家も俳優も、そこまでのことは気がついていないらしいということである。
 私は断言するーーこの映画を一外国人に見せたとする。この場面が必ず与える衝撃は、彼にとってどんな残忍な描写にも劣らず「胸糞のわるい」ものに違いない。しかも、これが日本人だという事情を決して見逃さぬであろう。それは、悪魔の行状ではもとよりない。最も卑小な人間の最もけちくさい快楽の表現である。半身は機械、半身は獣とみられるかの奴隷の舌なめずりである。
 これは、拷問や虐殺の非人間的なるより以上に、救いようもなく非人間的である。


この映画は、たまたま私の記憶に深くとどめられたものであるが、日本の数多くの映画や芝居や、その他の演芸、読物などについて注意するがよい。作者がことさら悪玉乃至は冷ややかな世間の代表として描きだしている人物にしても、その悪玉ぶり、世間の代表ぶりが、実に日本独特のものであり、一方の善玉の美挙快挙にもかかわらず、これを善玉たらしめるわれわれの社会の底知れぬ「いやらしさ」「日本人の軽薄な非人間的一面」を、作者の意図とは関係なく、おのづから告白するために登場したかたちになっていること、常にまったく型の如くである。時に善玉といえども、油断がならぬ。


日本人は「話せばわかる相手」だと、日本人自身は考えているらしい。それは同胞意識が強いためか、人間として「ものわかりがいい」という自慢なのか、私には、どうもよくその意味がわからないのである。おそらく、それは、「泣き落しが利く」というような場合が多いこと、「わかってもわからなくても、ともかく一応わかったことにしておく」という礼節がひろく行われていることを、自分本位に都合よく言いかえた言葉ではないかと思う。
「話せばわかる」ということは、なるほど、「話してもわからない」よりは有り難いに違いないが、私の観察によると、「話せばわかる」という意味の裏に、「話さないとわからない」絶望感のようなものが含まれていそうに思われてしかたがない。


「こういうつもりだった」ーー「いやそういうつもりではなかった」というような言葉のやりとりは、われわれの耳には、もう馴れっこになっている。これほど、相手を、そして同時に、自分を馬鹿にした話はない。
 契約は双方の利益と立場とを、双方がはっきり認め合い、完全な合意の上で、第三者にも対抗し得る共同の権利と義務とをひと通り成文化したものでなければならない。
 ところが、この契約の精神がいまだに理解されず、或は、故ら理解しようとせず、うやむやにしておく方がなにか相手を信用したことになりそうな気がし、ことに一方は、契約によって拘束を受けることのみをおそれ、他方は、強いて恬淡(てんたん)を装うことをもって得策と考え、えてして契約書というものは無用視されている現状である。
 しかも、たまたま契約書を取り交わす段になり、多くは企業者側で用意している印刷の契約書なるものを見ると、まづ型の如き法律的用語をもって双方の権利と義務とを箇条書にしてあるのはよいとして、その全文にわたり、注意して読めば読むほど、企業者としては当然の義務を掲げているに過ぎないのに、協力者側に対しては、著しい権利の譲渡を迫っているものが少なくない。もちろん、草案であるから、企業者側の希望的条件とみなければならぬが、それにしても、そんな虫のいい条件を協力者に黙って承諾させようと思っている腹が私には呑み込めないのである。
 そこには、なにか、企業者というものの、ややもすれば横暴な性格が顔を出し、若干の例外を除いての協力者の弱点につけ入る非人間的態度を見逃し得ない。・・・


 すべて契約を盾にとるのはよろしい。契約とはそうあるべきものだからである。しかし、契約がないのを楯にとって自己の立場を不当に有利ならしめようとはかるのは、人間のさもしさである。契約がないということは、特別な契約以上に、「人間」の本性と社会の常識とに従って事を運ぶ暗黙の理解があったとみなければならぬからである。
 契約が無いことを楯にとって恬然としているくらい、「人間」のずるさをむきだしにしたものはない、と私は思う。
 それは、法律を防御的にでなく、攻撃の武器として使う高利貸や悪質官吏に似ている。こういう人物が横行する社会を「不気味な社会」というのである。


 歪められた「対人意識」が瞬間俟々々に顔をのぞかせるわれわれ日本人の社会生活を、なににたとえたらいいか? 重ねて言うけれども、ただその部分だけをじっと見つめていると、私は、自分もそこに生い育ったのだという事実をはっきり感じながら、なんとしても「お化けの国」に住んでいるような心細い幻覚にとらわれるのである。


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