15.6.14

何で?

人の一生でただ一つ確かなことは、皆いつかは死ぬということだけだ。

この世を去る時までにどんな事が起こり、どんな目に遭い、どんなことで喜び、どんなことで悲嘆し、誰を喜ばせ、誰を悲しませるようになるか、自分の人生なのに、誰も何もわからない。

今年4月、とても親しかった人のご主人が突然亡くなった。彼はとても穏やかな人で、家族を愛し、家族の為に家庭でも職場でもよく働いていた。週末になるとサイクリングに出掛け、facebookに彼のサイクリングコースの風景をよくupしていた。
亡くなる2日前にもfacebookに投稿し、何も変わったところなどなかったので、友達から送られてきた訃報を見た時には咄嗟に理解できず、「えっ?何で?」と、現実に起こっていることだという感覚がまるで無かった。
彼女も気が動転していて、何が起こったの?と私が送ったメッセージには、「あまりに突然で、何をどう話していいかわからない」という返事が来ただけで、いまだに何が原因で命を落としたのか私にはわからないままなのだ。
確かなことは、彼がもうこの世にはいないということだけ。facebookには彼の遺影と共に、友達からの嘆き悲しむ声がしばらくの間寄せられていたが、しばらくするとそれも途絶え、私達はまたいつものように生活を続けている。


先週、私はしばらく振りに友達に会いに行った。
友達の働いている店に行けばいつでも会えると信じて疑わなかった私は、その店に入り、オーナーから話を聞くまで、彼女がたまたま休みを取っているか、店の奥に居るのだろうと思って疑わなかった。
店のオーナーが沈んだ声で言った。彼女は今年3月末に癌が見つかり、化学療法を受けながら、摘出手術の日を待っているところだと。
私はまたもや、「何で?」と心の中で繰り返していた。
何でそんなにも急に彼女の人生が変わってしまうのだと、悲しいというよりも悔しい気持ちでいっぱいになってしまった。


明日自分や自分の身内、或はよく知る人がどうなるかなんて、誰にもわからない。
それなのに、生きて行く為に職を探し、お金を稼ぎ、蓄え、将来に備えていなければならないという強迫観念に晒されながら、ほとんどが好きでもない仕事をし続けている。

私達は一体何の為に生まれてきたんだ?

汗水垂らして働き続け、毎月政府に多額の税金をふんだくられ、困窮しても充分な保障など得られず、自分が亡くなったら家族はまるでハイエナのような政府から「相続税を支払え」と脅迫される。それまで散々人の稼ぎをふんだくっておきながら、悲しみのどん底にある人々によくもそんなひどい仕打ちができるものだと呆れるばかりである。

こんな世の中に、もうとっくに愛想を尽かしている私の身に、なぜまだ最後の日が来ないんだ…





6.6.14

料理屋と電子レンジ

ある寿司がメインの料理店の厨房を覗いてみる機会があった。

朝一番で残り物の酢飯(硬くなるという理由で冷蔵庫には入れず、室温に置いたままだったもの)を電子レンジで温め直し(火傷するほど高温になる)、硬くなった部分を捨てながら寿司を巻く。酢は飛んでしまっているが、酢を足すということはしなかった。
残り物の酢飯を温め直す作業は正午過ぎまで続き、午後になって当日炊いたご飯に合わせ酢を混ぜ、そのまま長いこと放置… 当然酢飯は硬くなっているが、シェフ曰く、硬くない酢飯は酢飯ではないと… 私には硬過ぎた。


私が生まれ育った県には大きな漁港が2つもある為、そこで不味い寿司にお目にかかることはまず無かった。

以前東京で働いていた伯母が実家に帰った際、駅ビルに入っていたチェーン店の寿司(近海握り)を食べ、「こんなに美味しいお寿司をこんな所(高級料亭ではなく駅ビルの中)で食べられるなんて! しかもこんな良心的な値段で!!」とえらく驚いていたのを今でも思い出す。
伯母は長く住んでいる東京或は千葉近郊では『超高級寿司屋』にしか行かない人で、安い寿司が美味しいわけは無いとその時まで信じていたのだが、伯母の実家(=私の生まれ故郷)の辺りでは、都会の超高級寿司屋に遥かに勝る素晴らしく美味しい寿司が、普通にスーパーマーケットのお惣菜売り場でも手に入るのである。

残念ながら、私はNZで寿司を食べて美味しいと思ったことは今日まで一度もない。
どんな料亭で出されるものも、取り立てて評価する気にもなれないものばかりで、刺身も(サーモンだけは美味しいのだが)マグロに至っては色でマグロかな?と想像がつくものの、味は無いに等しく、ただの水を含んだ赤っぽいスポンジのような感じで、恐ろしく不味い。

前述の寿司がメインの料理店のシェフは年期の入った日本人という風貌はしているが、実際に料理の工程を見ていると、電子レンジ無しでは営業できないだろうと思えるほど、ピーピー、ピーピー一日中電子レンジ音が厨房に鳴り響いていて、それだけで何だかゲンナリしてしまい、シェフがどんなに御託を並べても、ちっとも凄いなとは思わなかった。

前日作り置きしておいたものを翌日電子レンジで温め直して出すという方法でなければ数をさばくことはできず、収益に影響が出るというのは、まぁビジネス畑にいる人には当然のことなのだろうが、せめて、料理の蘊蓄を述べたいのであれば、電子レンジを多用するのだけは止めていただきたいと強く思った次第である。

そこの寿司は、私にとってはどれもお金を出して買うほどの味ではなく、更に、頂いた寿司の揚げ物(巻き寿司に天ぷら粉をつけて揚げたもの)は、表現するとしたら、『油の味しかしないのり巻き』で、周囲はカチコチに硬く、これまでの人生で食べた最も不味い寿司であった。

まぁ、あれを『寿司』と呼ぶのであればの話だが。


おっと、書き忘れてしまった。
自分を超一流の板前だと自負して止まないシェフの働く店のメニューには『インスタントラーメン』というのがあって、それが一番収益率が高いと笑っていた。

インスタントラーメンだよ… しかも、スーパーマーケットで買える一番安いのだ。



何にでもケチを付けないと気が済まない人

久しぶりに遭遇した一昔前の典型的な日本人ボス(今もそういう人が多いのかもしれないが、10年以上前に日本を離れているので、現状が如何なものかわからない)は、目下の者がすること成すことにケチを付け、それが教育だと思い込んでいるフシがあって、あぁ、これでは誰もそこで長く仕事を続けようとは思わないだろうなと、彼が頻繁に求人広告を打たなくてはならない理由がよくわかった。

スタッフが頻繁に変わっている職場というのは、多くの場合、上に立つ者の技量の無さが原因であると断言できる。
各従業員の長所を最大限に引き出し、更に向上させるような環境を作るどころか、欠点を殊更強調し、気力を萎えさせ、終いには反発を覚えさせるほどに他人を扱き下ろすことを喜びとしている上司に、誰が好感を持ち、時給以上の働きをして喜ばせようと思うだろうか。そんな奇特な人は滅多に居ない。お金のためと割り切ってしばらく働いたとしても、バカにされ続けながら働き続ける忍耐力のある人はそうは居ないと、誰でも想像がつくだろう。

日本は『けなして教え込む』文化であるのに対し、西洋諸国の多くが『褒めて教える』文化であると聞いたことがある。なるほど、NZでは些細な事柄でもまず褒め、努力を要する場合には、「こうすれば更に良くなる」と付け加え、その人のやる気を引き出すという教育の仕方をよく目にする。
これは教育されている当人のみならず、周囲に居合わせる者たちにとっても気分の悪くならない方法で、無用な争い事を作らないという点でも優れているように私は思うのだが、どうもそのやり方は、権力を笠に着た日本人には好まれないらしい。
一旦権力を握ったボスが、愚かにも『威張り散らすのが権力者たる証』と、他の人の気持ちを微塵も推し量ることなく、言いたい放題、したい放題を働き、犠牲者をどんどん増やし続けているのである。
何と愚かなことよ…

同居人たちがそのような技量の狭い上司の下で働かないでいられることを、改めて心から嬉しいと思った一日であった。





「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...