30.10.14

CANAAN

何故なのか理解に苦しむのだが、facebook に投稿した CANAAN の製作過程を信じられないほど多くの人が読んでくれている。CANAAN の単語の意味を知っている人ばかりではないと思うのだが、何が興味をそそっているのか…

私は、ただ一人がそれを見て何かを感じてくれたら満足だった。そして、確かにその人は私の投稿を見てくれて、私が伝えたかったことを理解してくれたということがわかった。私は売る為にそれを作ったのではなく、ただ一つの事を伝えたくて作ったのだ。ただ一つのこと… お互いがこの世から居なくなる時に思い出せますように...


私の作る物は大量生産品ではないから、万人受けしなくてもいい。たった一人の人の心に残るものであればいい。けれども、いつ現れるかもわからないたった一人の人に巡り会うのを待ち続けるこの生活が、いつまで続くかわからないという恐怖に時折襲われながら、踏ん張り続けることが果たしていつまでできるだろうか。

『世に流されない』生活なんて、所詮夢物語でしかなかったと、最期に神に愛想を尽かせたら、CANAAN は永久に私には無縁のものとなる。




27.10.14

これ、誰が買うのだろうか? 第二弾


 文字を切り出し、サンドペーパーで一度目のサンディングを施した後、下地としてクリアーシェラックを二度塗り。その後#250のサンドペーパーで表面を均す程度にサンディング。そして更にクリアーシェラックを重ね塗り。それが乾いたところでもう一度シェラックを重ね塗り。そして、シェラックが完全に乾くまで待ち、その後#0000のスチールウールで丁寧に磨く。余分な粉を取り払い、スチールウールにビーズワックスを含ませた物で更に磨く。
最後に、清潔な木綿のボロ切れでワックスを拭き取ると、シルキースムースな輝く仕上がりの作品が出来上がる。




仕上がりまでに最低3日を要するなんてことを、通常消費者は考えたりしない。


26.10.14

ALEGRIA (CEBU)


モノクロ写真ではないのがわかるだろうか…

木工を本職としている人からは、もしかしたら邪道だと言われるかも知れないが、私は濃いガーネット色のシェラックを下塗りした上に黒のペイントをむらに重ね塗りして、独自の色を作った。


仕事用にスタジオのお気に入りの撮影場所で逆光で写真を撮ったら、一瞬モノクロかと感じる写真になったが、私はモノクロ写真よりもこの少し茶色がかったカラー写真の方が好みである。


明日 CEBU という文字を切り出そうかと思っている。


16.10.14

癒える悲しみ、癒せない悲しみ

昨日、facebook上の友達を一人削除した。そしてその旨を相手にメッセージで伝えた。
その人はとても良い人だった。とても良い人だったので、私は友達でいない方がいいと思ったのだ。友達でいたら、この先もその人が善意でしていることにケチを付けてまわることになりかねなかった。

私は、聖書の伝道の書7章16節に『義に過ぎる者となってはならない』と書かれていることを知っていながら、言わないではいられないことが幾つかあった。その人を非難する為ではなく、その人が世に流されないようにとの思いでしたことであったが、その人を気落ちさせるのには充分な引き金となったに違いない。
そうこうしている内に、次第にその人がのびのびと自由に発言することを控えるようになり、善良さがくすんで行くように感じるようになってしまった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの — 肉の欲望と目の欲望、そして自分の資力を見せびらかすこと — は父から出るのではなく、世から出るからです。さらに、世は過ぎ去りつつあり、その欲望も同じです。しかし、神のご意志を行う者は永久にとどまります。 (ヨハネ第一2:15-17)

この世に生きながら、この世のものに染まるなというこの聖句に完全に自分を当てはめられる人は、おそろしく強靭な精神力を持った人だ。あのモーセでさえ完璧ではなかったのに、どうして一庶民がそのようにできようか… しかし、そう思いつつも、私はその人にそうあるべきではないかと暗に伝え続けていたのだ。もし仮にその人が敬虔なクリスチャンだと知らなかったなら、おそらく(他の人と同じ程度に希薄な)友達関係は続いていただろうが、その人とはどうでもいい希薄な友人関係を保つ気は無かった。


私は一体何をしているんだ…

本当はとても大切な人だったかも知れないのに、自分から退けてしまった。
いや、大切な人だと思ったから退けたんじゃないのか…  私はその人に取っては羊の皮を被ったオオカミでしかないのじゃなかろうかと、そんなことが頭の片隅にいつもちらついていて、それでも尚、羊の皮を被り続けることに良心の呵責を覚えたから身を引いたんじゃなかったのか…

その人はこんなことになって悲しいけれども、私の希望通りにするとメッセージを送ってよこした。
私自身、悲しくないなんて口が裂けても言えない。でも、この悲しみはおそらく一時のもので、お互いにとって一生尾を引く悲しみではないとはっきりわかる。
これは死ぬまで癒えない悲しみではない。

死ぬまで癒えない悲しみというものは、誰に何を諭されようとも、更には神がどんな慰めを与えてくれていようとも、何の助けにもならないほど深く心に刻み込まれてしまっていて、正にキルケゴールの言うところの『死に至る病』に他ならないのだ。






14.10.14

これ、誰が買うのだろうか...


今朝、「これ、誰か買う人居るのかな?」と首を傾げたくなるほどレアなワードアートを切り出した。:) 作りながら、大量生産品にはおそらくならないと思われる希少価値のあるワードアートを作って売るのも面白いかもなと、そんなことも考えた。

私の頭の中で ALEGRIA / ALGERIA がず〜〜っとず〜〜っと燻っていて、まぁこれは売れなくても自分のアトリエに飾っておけばいいからと、クラフトマーケットを直後に控えているのにも関わらず、マーケットそっちのけで自分の世界に入り込んでしまっていたが、この写真を撮ってfacebookにアップするとすぐにLikeしてくれた人もいて、こんなマイナーなものでも良いと思ってくれる人がいるんだと改めて思った次第である。

ちなみに、ALEGRIA(アレグリア)はポルトガル語で、歓喜とか幸福とかいうとてもポジティブな意味を持つ単語なので、JOY とか HAPPINESS とかいう平凡なワードアートを部屋に飾る気持ちの無い(私のようにちょっとひねくれた)人には、もしかしたらウケるかも知れない。

これを切り出した後、サンドペーパーで角を取り、ざらついた切り口を均し、シェラックを二度塗りして自然乾燥… 明日また表面を目の細かいサンドペーパーで丁寧に磨き、明日の気分でシェラックを更に重ね塗りするか、はたまた黒のペイントを上に塗るか… 出来上がりがイメージしているものと違わないといいなと、ペイントで度々失敗している私はちょっと心配になっている。






7.10.14

嫌悪

私はこの世にある"宗教団体"というものにつくづく愛想が尽きた。

ある知人は寡婦で、聖書を一度も読んだことがないのに、キリスト教会に属していれば皆が無償で助けてくれ、おかげでビジネスがトントン拍子に上手くいっていることをとても有り難いと言い、生活に困窮しつつある私も助けを得られるよう、教会の信者になるようにと強く勧めてくれた。
私は断った。そんなふうに善意(憐れみ)を"利用"して楽をするくらいなら、のたれ死んだ方がマシだ。

あるキリスト教会の牧師たちは、信者を増やす為に、教会の施設を使って一般向けにステンドグラス講座を開催しようと試みた。
私に講師を引き受けることができるかと話があったので、内容を聞きに行くと、教会としては講師料は払うつもりはないが、生徒が支払う受講料の一部からほんの少し謝礼(ガソリン代の足しにもならない程度)は出せるかも知れないとのこと。私が、教室で教えるとなるとある程度の工具やら研磨機を用意しないとならず、元手がかかり過ぎると伝えると、その掛かった費用は生徒に負担させればいいと平然と言うので、生徒が受講料(教会の収入であって、私の収入にはならない)を支払った上に、工具やら器具の金額を上乗せされた高額な材料費を支払わされるのは誠に気の毒であるし、私はそのようなことを平然と行うことができないと、その話は断った。
教会側はびた一文損をすることなく、他人には薄給を強いて、万事上手くいくと信じて疑わない傲慢さに吐き気のする思いであった。

私が知る仏教の僧侶は、信者からのお布施をあてにして生活している。生活の全てがお布施/寄付金で賄われるのを当然のこととして、何処に行っても無料で宿泊し、無料で食事を与えられ、欲しい物は全て無料で手に入れる。
私のところに仏像の後ろに掲げる蓮の花のステンドグラスのパネルの依頼が来た時には、ある信者が全額負担するというので、「金額は気にせず、できるだけ大きな立派なものを作ってください」と僧侶から私に直接希望が入り、本当にそれでいいのかと信者に確認をとると、「そんなにはお金は出せない」と青くなっていた。

高校時代、同級生に寺の住職の息子がいた。
時々その子のお兄さんが学校に迎えに来ていたが、お兄さんは既に僧侶になっていて、私用で出掛ける時にはカツラを被って出掛けるとのことだった。お布施はカツラの費用を賄ってもいるなんてことを、考える人がいるだろうか?(笑)
何の為にお布施をしているのか、よくよく考えた方がいい。

ここオークランドの或る地域では、宗派の違うイスラム教徒同士の小競り合いが絶えないらしく、暴力沙汰にまでなってしまっていると報道されたことがあった。

キリスト教会の牧師が戦闘機に乗り込む兵士に祈りを捧げている戦争時代の写真を見たことがある。一体何を祈っていたんだ。人を殺しに行くなと止めるのが本来の仕事じゃなかったのか?


なぜ私がこんなことを書いているかと言えば、世の中にはまだ誠実で善良な人々が少なからずいるのに、その善意に満ちた人たちを欺いて、真実を闇の中に葬っているとしか思えないような、偽りの教理を真しやかに教えている宗教団体が溢れかえっているからだ。

無性に腹立たしくてならない。





「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...