16.10.14

癒える悲しみ、癒せない悲しみ

昨日、facebook上の友達を一人削除した。そしてその旨を相手にメッセージで伝えた。
その人はとても良い人だった。とても良い人だったので、私は友達でいない方がいいと思ったのだ。友達でいたら、この先もその人が善意でしていることにケチを付けてまわることになりかねなかった。

私は、聖書の伝道の書7章16節に『義に過ぎる者となってはならない』と書かれていることを知っていながら、言わないではいられないことが幾つかあった。その人を非難する為ではなく、その人が世に流されないようにとの思いでしたことであったが、その人を気落ちさせるのには充分な引き金となったに違いない。
そうこうしている内に、次第にその人がのびのびと自由に発言することを控えるようになり、善良さがくすんで行くように感じるようになってしまった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの — 肉の欲望と目の欲望、そして自分の資力を見せびらかすこと — は父から出るのではなく、世から出るからです。さらに、世は過ぎ去りつつあり、その欲望も同じです。しかし、神のご意志を行う者は永久にとどまります。 (ヨハネ第一2:15-17)

この世に生きながら、この世のものに染まるなというこの聖句に完全に自分を当てはめられる人は、おそろしく強靭な精神力を持った人だ。あのモーセでさえ完璧ではなかったのに、どうして一庶民がそのようにできようか… しかし、そう思いつつも、私はその人にそうあるべきではないかと暗に伝え続けていたのだ。もし仮にその人が敬虔なクリスチャンだと知らなかったなら、おそらく(他の人と同じ程度に希薄な)友達関係は続いていただろうが、その人とはどうでもいい希薄な友人関係を保つ気は無かった。


私は一体何をしているんだ…

本当はとても大切な人だったかも知れないのに、自分から退けてしまった。
いや、大切な人だと思ったから退けたんじゃないのか…  私はその人に取っては羊の皮を被ったオオカミでしかないのじゃなかろうかと、そんなことが頭の片隅にいつもちらついていて、それでも尚、羊の皮を被り続けることに良心の呵責を覚えたから身を引いたんじゃなかったのか…

その人はこんなことになって悲しいけれども、私の希望通りにするとメッセージを送ってよこした。
私自身、悲しくないなんて口が裂けても言えない。でも、この悲しみはおそらく一時のもので、お互いにとって一生尾を引く悲しみではないとはっきりわかる。
これは死ぬまで癒えない悲しみではない。

死ぬまで癒えない悲しみというものは、誰に何を諭されようとも、更には神がどんな慰めを与えてくれていようとも、何の助けにもならないほど深く心に刻み込まれてしまっていて、正にキルケゴールの言うところの『死に至る病』に他ならないのだ。






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