7.10.14

嫌悪

私はこの世にある"宗教団体"というものにつくづく愛想が尽きた。

ある知人は寡婦で、聖書を一度も読んだことがないのに、キリスト教会に属していれば皆が無償で助けてくれ、おかげでビジネスがトントン拍子に上手くいっていることをとても有り難いと言い、生活に困窮しつつある私も助けを得られるよう、教会の信者になるようにと強く勧めてくれた。
私は断った。そんなふうに善意(憐れみ)を"利用"して楽をするくらいなら、のたれ死んだ方がマシだ。

あるキリスト教会の牧師たちは、信者を増やす為に、教会の施設を使って一般向けにステンドグラス講座を開催しようと試みた。
私に講師を引き受けることができるかと話があったので、内容を聞きに行くと、教会としては講師料は払うつもりはないが、生徒が支払う受講料の一部からほんの少し謝礼(ガソリン代の足しにもならない程度)は出せるかも知れないとのこと。私が、教室で教えるとなるとある程度の工具やら研磨機を用意しないとならず、元手がかかり過ぎると伝えると、その掛かった費用は生徒に負担させればいいと平然と言うので、生徒が受講料(教会の収入であって、私の収入にはならない)を支払った上に、工具やら器具の金額を上乗せされた高額な材料費を支払わされるのは誠に気の毒であるし、私はそのようなことを平然と行うことができないと、その話は断った。
教会側はびた一文損をすることなく、他人には薄給を強いて、万事上手くいくと信じて疑わない傲慢さに吐き気のする思いであった。

私が知る仏教の僧侶は、信者からのお布施をあてにして生活している。生活の全てがお布施/寄付金で賄われるのを当然のこととして、何処に行っても無料で宿泊し、無料で食事を与えられ、欲しい物は全て無料で手に入れる。
私のところに仏像の後ろに掲げる蓮の花のステンドグラスのパネルの依頼が来た時には、ある信者が全額負担するというので、「金額は気にせず、できるだけ大きな立派なものを作ってください」と僧侶から私に直接希望が入り、本当にそれでいいのかと信者に確認をとると、「そんなにはお金は出せない」と青くなっていた。

高校時代、同級生に寺の住職の息子がいた。
時々その子のお兄さんが学校に迎えに来ていたが、お兄さんは既に僧侶になっていて、私用で出掛ける時にはカツラを被って出掛けるとのことだった。お布施はカツラの費用を賄ってもいるなんてことを、考える人がいるだろうか?(笑)
何の為にお布施をしているのか、よくよく考えた方がいい。

ここオークランドの或る地域では、宗派の違うイスラム教徒同士の小競り合いが絶えないらしく、暴力沙汰にまでなってしまっていると報道されたことがあった。

キリスト教会の牧師が戦闘機に乗り込む兵士に祈りを捧げている戦争時代の写真を見たことがある。一体何を祈っていたんだ。人を殺しに行くなと止めるのが本来の仕事じゃなかったのか?


なぜ私がこんなことを書いているかと言えば、世の中にはまだ誠実で善良な人々が少なからずいるのに、その善意に満ちた人たちを欺いて、真実を闇の中に葬っているとしか思えないような、偽りの教理を真しやかに教えている宗教団体が溢れかえっているからだ。

無性に腹立たしくてならない。





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