25.9.17

手打ちうどん 第二弾

今日は、風邪で高熱を出し会社を休んでいる同居人Tのために、(フードプロセッサーを使わずに)本格手打ちうどんを作った。

中力粉は無いので、薄力粉+強力粉 を合せて 500g、食塩 20g、水 200cc強を合わせて20分ほど手で捏ね、一まとまりになったらジップロックに入れて30分ほど生地をねかせた。

その後、洗い立ての厚手の布を上下に敷き(ジップロックが破れた場合に生地が床やら足に付いて台無しになるのを防ぐため)、ジップロックに入った生地を足踏みすること約100回。
ジップロックの中でぺしゃんこになった生地を大まかに丸めて、更に100回ほど踏み、それを3回繰り返した後もう一度ボール状に丸め、2時間程度生地を休ませた。


水分が少なく、やっとまとまっているという感じの生地なため、麺棒で伸ばすのに一苦労したが、伸ばした生地を切るのは楽で、切った後、麺をバラバラにほぐすべく10本程度取ってはまな板に叩き付け、生地がまな板にくっつかないように振っておいた余分な粉(片栗粉を使用)を落としつつ更に伸ばしても、前回のようにプチプチ切れる事は無く、非常に腰の強い立派なうどんが出来上がった。


一昨日の夜からずっと食欲の無かったTは、出来立てのうどんを「美味しい」と言って汗をかきながら食べていた。

『病気の時はうどん』
我家では、病気になるとお粥ではなくうどんを食べるのが習慣になっている。


大掃除してプラントを移動したり、売らなかったステンドグラスの作品を飾ったりしつつ、家具の配置換えをする合間に、縫い物をしたり、料理をしたり...

一日があっという間に終わってしまう。



17.9.17

季節外れの大掃除

非常に中途半端な時期だが、訳あって家中で大掃除をしている真っ最中。

各自、持ち物の整理はもちろんのこと、家中の壁、天井、床を丹念に拭いて回っているため、恐ろしく時間がかかり、既に全員ヘトヘトになっている。

私の部屋から出る大量のゴミは、領収書だの銀行の statement(入出金明細書)だのといった紙類が主で、数年前のものは全てシュレッダーにかけて捨てるようにしたのだが、シュレッダーの容量が少なく、すぐにケースがいっぱいになってしまうのに加え、オーバーヒートで数十分使えなくなってしまい、面倒なことこの上ない。
ここ数年は銀行の statement はPDFで保存するだけになっているので、パソコンの容量は減っても目に見えるゴミとはならず、文明の利器に助けられていると言わざるを得ないなと、ついつい思ってしまった。

そういえば、日本の銀行には『通帳』というものが存在していたが、今でも変わっていないのだろうか? この国にはそのようなものはなく、ハワイの銀行にも無かった。あれは日本独自のものなのだろうか?
よくよく考えてみれば、毎月 statement を送って来るよりも、その場で通帳に記載するだけのシステムの方が遥かに合理的で、銀行側には大きな経費(statement +封書の紙代、印刷代及び送料)の節約となり、顧客側には大量の紙類を保管しておく必要が無いというメリットがある。

*日本の銀行はそのようにして必要最低限な経費しかかけていないのにも関わらず、預金しても雀の涙ほどの利息しか付けず、更には営業時間外(土日祝日含む)にATMで "自分の口座" に預金する際にも手数料を搾取するという、とんでもなく強欲な面を恥ずかし気も無く晒している。それら手数料の総額は利息を遥かに上回っているはずだ。海外ではそのような悪徳商売をしたらすぐに利用者が居なくなり、潰れるに違いない。

十数年前には使っていた辞書(本)だの、電子辞書だのというものは、携帯電話に翻訳ソフトを入れてから全く出番はない。また、その翻訳ソフトも最近ではほとんど使わなくなっている。

数年前までは使っていた小型のデジカメ... 捨てるのは惜しい気がしないでもないが、保管しておいてもおそらく二度と使わないだろうし、捨てるしか無いんだろうな...  と、片付けながらため息が出てしまう。

辞書以外にも本がワンサカある。それらも場所を取っている物の内の一つだ。
背の高い本棚の約 1/3 を占領している料理本のほとんどは日本から持って来たものだが、中東料理からメキシカン、パン作り、お菓子作りの本等々、バラエティに富んでいて、それら全てを作るわけではないのに、どうしたものか捨てられない。
また、仕事柄アート/デザイン関係の書籍も多く、それらもまた捨てられずに手元に残っている上に、木工関係の本も増え続けているという始末。

部屋には洋裁の職業用ミシン、ロックミシンに加え、彼の人が25年ほど前に買ってくれた(当時40万円もした)刺繍機能付きのミシンがあるのだが、それはコンピュータが逝かれてしまっているようで、今は動いていない。(使えなくても捨てることができないし、今のところ使うアテが無いので修理に出す気にもならないでいる)
布は衣装ケース3杯分ほどあり、皮革は衣装ケース1杯分ある。これらも明らかに部屋を狭くしていると言わざるを得ない。

洋裁、ガラス工芸、木工、そして料理... 出来ることが多くなるのは良い事だが、多くの人が必要としない数々の物に囲まれて生活しなければならなくなるというマイナス面を、掃除をする度に痛感することになるのだ。

はぁ... 溜息が出る...

あともう少し...
そう自分に言い聞かせ、鞭打つ毎日...


12.9.17

見知らぬ人がやって来る

ピンポーンと玄関のベルが鳴り、出てみると、クーリエではなく見知らぬ人が立っている。
寄付金集めの人でも、商業目的で来た人でも、キリスト教の伝道者でもなく、すこぶる愛想の良い中年の男性...

「ハーイ」と挨拶すると、「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、そこにある車はあなたのですか?」というフレーズから話が始まり、すぐにその人の用件がわかる。


道路に面した駐車場にしばらく置いたままの同居人の愛車エスコート(故障中)を見て通る人の中には、どうしてもその車を手に入れたくなってしまう人がいるようで、「売る気があったらぜひ私に譲って欲しい」と、自分の連絡先を書いた紙を持って家まで言いに来ることがあるのだ。

「車 売ります」という紙を貼ってなくても、「売る気があるかな?」と想像して見ず知らずの家を訪問するというのは、日本では一度も経験したことも聞いたことも無かったが、日本でも有ることなのだろうか?
以前、犬を連れて散歩をしている際に、「良い犬だね、売る気は無い?」と声を掛けられたというスペイン在住の人の話を聞いて、「日本じゃそんなことは絶対に無いな」と思ったものだが、他人の車を見て「売る気無い?」とわざわざ家まで聞きに来るというのも、それとそう大差は無いように思える。
欲しいものをどうやって盗もうかと企む輩に比べたら遥かにマシには違いないが、物欲というものは凄まじいよなと、私はつくづく思ってしまった。

先月も今月も、エスコートを欲しいと言う人が来た。

我家の近くに住んでいる "クラシック カー愛好家" は、売る気は無いよと言っているのにもかかわらず、この2年近くの間にもう何度も家に顔を見せに来ている。
ある時はハンドルロックをプレゼントしに(同居人Hは、アラームを付けたから要らないよと言って丁寧に受け取りを辞退した)、またある時は、私が木工を楽しんでいると知って、彼の家にあったマホガニーの美しい板の写真を見せてくれ、使うようだったら持って来るよと言っていたが、私はまだこんなに立派な板を使うほどの技術がないからと言って断った。特に用事は無くてもふらっと立ち寄って話をして行くことも度々あり、先日は「車の錆び取りにすごく効果があるよ」とポリッシング ペーストを持って来てくれたりもした(断るのも気が引けて有り難く受け取ったが、同居人Tは、それウチにもあるし...と言っていた)。

良い人なんだろうと思いながらも、特別友達付き合いをする気のない私たち(特に私)には少々気が重く、家がすぐ近くだから時々は行き来しようよと誘ってくれても、家でしたい事やら、しなくてはならない事(そちらの方が多い)が山ほどある私たちは "社交" に興じる余裕も無く、また社交に費やす時間も非常にもったいなく感じてしまうのだ。

家でしなければならない事がほとんど無いという人が羨ましい。(とは言っても、羨ましいと感じるのは、特別好きではない掃除とか料理とかをしなければならない時くらいで、TVを観たりしてくつろいでいるのを見ても全然羨ましくはなく、暇を持て余してカフェで友達と屯っているのを見ても全く羨ましくはないのだが... )

私はこれまでの人生で、外に働きに出ていた期間よりも、家で(敷地内で)仕事をしていた期間の方が遥かに長く、家と職場の区別がほとんど無いという生活を送って来たためか、はたまた、小さい頃から手仕事が好きだったためか、「家で何もする事がない」という状況になった事がない。いつでも何かしらしている。

TVは無い。
電話もしない。
Facebook のアカウントを削除して久しいので、突然メッセージが送られて来て驚く事も無くなった。
一人でカフェに行く事も、食事に行く事も無く、銀行振込はオンラインで行い、作業に必要なツール或は材料のほとんどはインターネット オークションで落札/購入するか、オンラインで注文し送られて来るのを家で待っているだけなので、他人との関わりはごく短いemailのやり取りのみ。

「この歳になったら、もう我慢しなくてもいいんだよ」
姉の言葉が心の中に留まっている。


私は、晩年はほとんど外に出かけなかった父に増々似て来た。


5.9.17

使うべきか、使わざるべきか... Micro-bevel / Secondary-bevel


secondary bevel 又は micro bevel と呼ばれる、刃先のほんの少しを角度を変えて研ぐ方法を、雲の上のお師匠さんは推奨していない。

私もこれまでは雲の上のお師匠さんのやり方で満足していたのだが、hardwood を扱うようになってから、シャープに研いだばかりの刃を使っても逆目で鉋をかけたような部分を作ってしまい、キャビネット スクレイパーのようなものを使わない限りは綺麗にならないのか?と、最近 hardwood の鉋がけがけっこう大きなストレスになっていたのだ。

いよいよ思い余って、逆目対策の一つとしてあげられていた Micro-bevel / Secondary bevel (小刃どめ)を Stanley の鉋刃で試してみることにしたのだが(さすがに父の使っていた日本の鉋では試したくなかったため)、この The ruler Trick と呼ばれている方法で鉋刃を研ぎ、purpleheart などの hardwood を削ってみると、これまで逆目で鉋をかけてしまったかのようにざらついてしまっていた面も全く問題無く鉋がけできるようになって、こんなにも違いがあったのかと、正直驚いた。

この 鉋刃の裏に micro-bevel を施すことを、邪道だ、そんなことはすべきではないと真っ向から反対する人々も多いようだが、実際に試した私は、何故そんなに反対の声が大きいのか更にわからなくなって来た。

西洋鉋の micro-bevel についての色々な意見を読み漁った後に、日本の鉋についてはどうだろうと調べてみると、小刃どめ及び糸裏についての記述が幾つかあった。
小刃どめについては、実は父の使っていた鉋刃にもそれらしい形跡のあるものが幾つかあったので、小刃をつけることに私は抵抗はないが、父の研いだ刃物のほとんどは、bevel 側が真っ平らではなく、若干ふくらみをもたせた刃であったので、父はおそらく『蛤刃』と呼ばれている形に近い研ぎ方をしていたのだろうと、今更になって思った。

ブレードの裏を極少量、ほんのわずかに削り落とすというのが、日本の『糸裏』と全く同じ考えの元になされているのかどうか定かではないが、状態は同じようなもののように思えなくもない。

それらの情報のおかげで、私は漠然と抱いていた罪悪感のようなものが無くなってきたわけだが、そこまで調べると、今度は「何故雲の上のお師匠さんは micro-bevel をあれほど否定していたのだろう」と、そちらの方が気になり出し始めた。

とは言え、雲の上のお師匠さんも、刃を付ける際に若干ふくらみを保たせることは否定しておらず、真っ平らに研ぐよりもかえって好ましいという発言をしていたことがあるのを私は記憶しているので、これからは意識してそのように研ぐよう心掛けることにしようと思った次第である。


「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...