12.9.17

見知らぬ人がやって来る

ピンポーンと玄関のベルが鳴り、出てみると、クーリエではなく見知らぬ人が立っている。
寄付金集めの人でも、商業目的で来た人でも、キリスト教の伝道者でもなく、すこぶる愛想の良い中年の男性...

「ハーイ」と挨拶すると、「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、そこにある車はあなたのですか?」というフレーズから話が始まり、すぐにその人の用件がわかる。


道路に面した駐車場にしばらく置いたままの同居人の愛車エスコート(故障中)を見て通る人の中には、どうしてもその車を手に入れたくなってしまう人がいるようで、「売る気があったらぜひ私に譲って欲しい」と、自分の連絡先を書いた紙を持って家まで言いに来ることがあるのだ。

「車 売ります」という紙を貼ってなくても、「売る気があるかな?」と想像して見ず知らずの家を訪問するというのは、日本では一度も経験したことも聞いたことも無かったが、日本でも有ることなのだろうか?
以前、犬を連れて散歩をしている際に、「良い犬だね、売る気は無い?」と声を掛けられたというスペイン在住の人の話を聞いて、「日本じゃそんなことは絶対に無いな」と思ったものだが、他人の車を見て「売る気無い?」とわざわざ家まで聞きに来るというのも、それとそう大差は無いように思える。
欲しいものをどうやって盗もうかと企む輩に比べたら遥かにマシには違いないが、物欲というものは凄まじいよなと、私はつくづく思ってしまった。

先月も今月も、エスコートを欲しいと言う人が来た。

我家の近くに住んでいる "クラシック カー愛好家" は、売る気は無いよと言っているのにもかかわらず、この2年近くの間にもう何度も家に顔を見せに来ている。
ある時はハンドルロックをプレゼントしに(同居人Hは、アラームを付けたから要らないよと言って丁寧に受け取りを辞退した)、またある時は、私が木工を楽しんでいると知って、彼の家にあったマホガニーの美しい板の写真を見せてくれ、使うようだったら持って来るよと言っていたが、私はまだこんなに立派な板を使うほどの技術がないからと言って断った。特に用事は無くてもふらっと立ち寄って話をして行くことも度々あり、先日は「車の錆び取りにすごく効果があるよ」とポリッシング ペーストを持って来てくれたりもした(断るのも気が引けて有り難く受け取ったが、同居人Tは、それウチにもあるし...と言っていた)。

良い人なんだろうと思いながらも、特別友達付き合いをする気のない私たち(特に私)には少々気が重く、家がすぐ近くだから時々は行き来しようよと誘ってくれても、家でしたい事やら、しなくてはならない事(そちらの方が多い)が山ほどある私たちは "社交" に興じる余裕も無く、また社交に費やす時間も非常にもったいなく感じてしまうのだ。

家でしなければならない事がほとんど無いという人が羨ましい。(とは言っても、羨ましいと感じるのは、特別好きではない掃除とか料理とかをしなければならない時くらいで、TVを観たりしてくつろいでいるのを見ても全然羨ましくはなく、暇を持て余してカフェで友達と屯っているのを見ても全く羨ましくはないのだが... )

私はこれまでの人生で、外に働きに出ていた期間よりも、家で(敷地内で)仕事をしていた期間の方が遥かに長く、家と職場の区別がほとんど無いという生活を送って来たためか、はたまた、小さい頃から手仕事が好きだったためか、「家で何もする事がない」という状況になった事がない。いつでも何かしらしている。

TVは無い。
電話もしない。
Facebook のアカウントを削除して久しいので、突然メッセージが送られて来て驚く事も無くなった。
一人でカフェに行く事も、食事に行く事も無く、銀行振込はオンラインで行い、作業に必要なツール或は材料のほとんどはインターネット オークションで落札/購入するか、オンラインで注文し送られて来るのを家で待っているだけなので、他人との関わりはごく短いemailのやり取りのみ。

「この歳になったら、もう我慢しなくてもいいんだよ」
姉の言葉が心の中に留まっている。


私は、晩年はほとんど外に出かけなかった父に増々似て来た。


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