26.6.21

叔母の急逝 - 生きた証



 89歳で独り暮らしだった叔母が亡くなっていたと、昨夕、実家の姉から連絡が入った。

千葉に住む叔母と九州で暮らす叔父は、お互いを思いやることのできる非常に仲の良い姉弟で、これまでずっと、頻繁に電話で連絡を取り合っていたようだが、今月 19日に電話で話をした以降は、電話を何度かけても繋がらなかったとのことで、叔父は叔母の身を案じて、急遽九州から千葉まで足を運んだということだった。

叔母の家に着くと、20日付けの新聞が郵便受けに残されたままで、家に入ると、叔母は一階のソファに横になって既に死亡していたと、叔父は私の姉に連絡を入れ、そして、その知らせは私の元に届いた。


叔母の家の電気は点いたまま...
一体叔母に何が起こったのか、誰も知る由が無い。


父方の家系内でも際立って頭脳明晰だった叔母は、若い頃、貧困故に学問を続けられなかったことが唯一の心残りだったが、それも定年退職後に並々ならぬ努力で実現させるほど、ガッツのある人だった。
年老いてから中学校に入り直し(当時尋常小学校は就学期間 8 年だったため、中学校は 3 年生の授業を履修するのみで中学卒業とみなされるとのことだったが、叔母は現代の中学 1,2 年で習うべきことが身についていないかも知れないと、あえて中学 1 年からやり直した)、高校、大学と実力で進み、誠に立派な成績で大学を卒業したのは、80 歳を目前にした歳だった。

大学で経済学の学位を取った後は、自叙伝を執筆。

叔母からの email にはこう書かれていた。

『子どもを持たない私は、生きたあかしをどう残すか。
それは「日ソ経済委員会」設立を民間主導で成功したことを公にするために、
自分史ながら国立国会図書館に納本して、永久保存されたかったのです。
(2013年)10月6日目的は果たせました。』

そしてその文の後に、

『これで私の仕事は終わったという思いで身辺整理していた...』

と続けられていたのを読んだとき、叔母は一生涯での目標を達成したのだなと、私は心の中で大きな拍手を送ったのを今でもはっきりと覚えている。

貧乏な家に生まれなかったら、もっともっと活躍できたであろうに...

私にはそう思えて仕方がなかったが、『貧乏からの脱出』という原動力が生涯に渡って叔母を掻き立て続け、更に上を目指し続けることにつながっていたのかも知れないと、自叙伝を読み終えてから、私は考えを改めた。

幾つになっても、向上心の塊と言える人だったが、大学卒業後庭仕事に励み、腰を痛めた上に尻餅をつき、腰椎及び胸椎を圧迫骨折して背中を痛めてしまったとのことで、以来、ずっとひどい腰痛に悩まされ続けたまま生涯を終えてしまった。


叔母の検死結果が出るのは来週始めとなるようで、その後遺体は荼毘に伏され、このご時世なのでおそらく葬式も行わず埋葬することになるだろうとのこと。叔父と私の姉とでその後の全ての手続きを行うことになるだろう。

親類縁者の中で最も親しかった叔母の死を、このような形で知らされるとは夢にも思っておらず、私は昨夜ショックでなかなか眠ることができなかった。

叔母を忍び、叔母との email のやり取りを読み返したり、叔母の自叙伝を再度読み直したりしながら、最期の瞬間はどんなだったのだろうと考えると、胸が詰まって涙が溢れた。


最期を看取ることもできず、また一人、大切な人を失ってしまった。




0 件のコメント:

コメントを投稿

「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...