15.1.24

久々の洋裁

 自分で縫った服を着るようになったのは、確か小学校  5 年の頃からである。

2 才年上の姉がリカちゃん人形の服を作り始め、私も見様見真似で幾つか作った記憶がある。

姉が原型からパターンを起こし、本格的な洋裁を始めると直ぐに、私も(姉に教わりながら)洋服を作り始めたのだが、そのほとんどは従姉妹からのお下がりの服をくずした布で作るもので、好きな布地を買って来て作っていたわけではない。

家には洋裁関係の月刊誌と思われる物が何冊かあって、原型を使っての製図の仕方を覚えてしまえば、自分の体型におおよそ合った服を作ることができ、おそらく、当時の最先端を行っていたであろうデザインの服を、裕福ではない家に住んでいたとしても、身に付けることができていたのである。

小学校に自分で作ったキュロットスカートを履いて行った際には、同級生は見たこともないズボンのようなスカートのようなヘンテコなものを訝しげに見、機能性はさておいて、早速いじめの材料にするという、愚かな行動に出た。

いじめられてはいたものの、キュロットスカートは非常に便利で、私は特に気に入っていた。

中学校時代には、夏の工作として、前中央にハトメ穴を並べて開け、そこに通した紐が特徴のジャンパースカートを提出し、姉の出品作とともに賞をもらったことを覚えている。
もちろん、ずば抜けて器用な姉が金賞、私が銀賞であったのは言うまでも無いが、姉が何を作って出したのか、全く覚えていない。

中学校時代、夏の制服(セーラー服)も作った。
何故作ったかといえば、体育の授業の前後に、着脱のし難い被り式のセーラー服にほとほと嫌気がさしていたからだ。じっとしていても汗が吹き出す日本の夏に、体に張り付く伸縮性ゼロの被り服など、想像しただけで悍ましい。製造業者は着る側の利便性をこれっぽっちも考えていなかったのは明白だ。

私が作ったのは、前がコンシールジッパーで全開できるもの。ジッパーの存在は縫い目にしか見えないため、傍目からは皆と同じ制服にしか見えず、先生からのお咎めなど一切無し。
それからは着脱の度に余計に汗だくになってイライラすることもなくなり、非常に快適に過ごせるようになったことは、今でもよく覚えている。

高校時代の制服は前あきのシャツブラウスに、秋はベスト、冬はブレザーを羽織る学校だったため、脱ぎ着のストレスは無くなったものの、スカートは、ヒダが取れてしまうのを防ぐため、『寝押し』をするかアイロンをかけるかのどちらかをしなければならなかった。
面倒なので、ヒダの内側部分に隠しステッチをして、ヒダが取れないようにしたスカートを作ったら、クラスメイトから同じようにして欲しいと頼まれ、やってあげたことがあった。

また、高校では、家庭科の先生から、家庭科室のウインドウ ディスプレイとして飾る服を縫ってくれないかと頼まれ、夏休みにささっと仕上げて持って行くと、先生は報酬だと言って 3,000円の図書券をくれたことがあった。布地とデザインは先生が決めたもので、確か、襟付きカフス付きのシャツブラウスだった。布地は全く伸縮性の無い木綿で、デザインは何十年も前の家庭科の教科書に載っていたような、袖ぐりのカーブがかなり大きなものだったため、袖ぐりのいせこみに難儀をしたのが鮮明に記憶に残っているが、その図書券で何の本を買ったのかは、まるで覚えていない。ちなみに、そのディスプレイには製作者の名前は書かれておらず、誰が作ったものかおそらく誰も知らなかったに違いない。


時が流れ、結婚してからは、連れ合いの服を直したり、自分の服を作ったりしていたが、アルバイトで高級百貨店専属の超高級洋裁店に一時縫い子として雇われたこともあった。

そこのチーフは元大手洋裁学校の経営者兼校長を何年も務めた人で、採用のための面接に行った折、洋裁学校も出ておらず、自分で縫ったものも持参していなかった私に、「手を見せて」と言い、私の手を見ただけで即採用を決めてくれたのだった。
チーフ曰く、『洋裁学校を出たからといって、全ての卒業生が綺麗な仕事をするわけではないし、この布地だけで一着何万円もするオーダーメイド服の制作を任せられるわけではない。手を見れば、その人が器用かどうかわかるのよ。』と穏やかながらも凜とした、そして優しい笑顔で、私に話してくれたのは、とても印象的だった。
実を言うと、私は洋裁学校も出ていないし、自己流で縫い物をしてきただけなので、本当に私に務まるのだろうかと、かなり不安だったのだが、チーフはそんな私の背中を押し、「大丈夫、あなたならできる」と、まずは簡単な 8 枚はぎのスカートを縫うように言われた。
採寸、パターン起こし、仮縫いまで終わっていたそのスカートには、修正箇所が明記されており、その修正通りに裁断し直し縫えばいいだけだったが、縫い上がったものを確認してもらうと、綺麗に出来ていると褒められ、驚くほど多くの報酬をもらった記憶がある。

残念ながら、それから間も無くして妊娠直後に切迫流産と診断され、数ヶ月寝たきり状態... しかも妊娠後期には切迫早産となってしまい、洋裁店を辞めざるを得なくなってしまった。

その後は、専業主婦をしながら、子供たちが小さい頃は子供たちの服を作ったり、布おもちゃを作ったりし、またエプロンを作って売ったりもしていた。

自宅から車で 10分ほど離れた場所にあった、言わば ”隣町” にあった小さな布地屋に行くと、店主は私のことを噂で聞いたとかで知っていて、人と連まない私は、一体誰がどのように私のことを話していたのだろうと、「この界隈で最も器用な人だと言われている」と褒められながらも、複雑な気持ちになった。

本人が居ない所で話されることには、ほとんどの場合尾鰭が付き、正しく無い情報が混じっている場合の方が多いと思っている私には、噂話に上ることは決して嬉しいことではなく、「もっともっと器用な人は数え切れないほどいると思うよ。実際、私の姉は比較にならないほど器用だしね。」と、笑って済ませたことを覚えている。


... と、そんな私であるが、先日久しぶりに超簡単なブラウスを、テキトウと表現するのがピッタリな工程を経て作り、出来上がったものを着て鏡を見て驚いた。



全然似合わない...

同居人 T に「せっかく作ったのに、超似合わない」と笑って見せると、T は、「自分で作ったのに、似合わないものを作る人なんているか?」と大笑いしていた。

遥か昔に買った布は、昔は似合ったかもしれないが、グレイヘアにはまるで似合わない色となっていることに、着てみてようやく気付いたというわけだ。

まぁ、家着としてなら何でもいいいや...



ある有名家具職人のお母さんは洋裁の仕事をしていたと聞いたことがある。
私は洋裁、木工のどちらも嗜むが、洋裁で印付けをする際にチャコやら水で消えるマーカーを使っているところからして、『誤差』というものに対してさほど神経質になっているとは言えず、1mm、2mm の違いは許容範囲なのだとよくわかる。
方や、木工においては、0.5mm の誤差は非常に大きく、指の腹で触ってはっきりと確認できる違いなのである。しかし、どんなに正確に作ったつもりでも、木というのは気温やら湿度の変化によって伸び縮みするのを免れられなく、経年変化と言おうか、経年劣化と言おうか、作った時点の状態をほぼ維持できないときているのだ。

神経を擦り減らして作業をしても、自分が満足する状態をどう足掻こうが保てないというのは、私にはやはりストレスである。

そういう面では、着て ”動いていればわからない” 作りとなる洋裁は気が楽である。
まぁ、達成感は木工の比ではないが...





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