15.2.18

旅支度 with still low-quality Chinese products

ようやく涼しさを取り戻したNZ。急に気温が下がったので、涼しいというよりも寒いと表現した方が的を得ているように思ってしまう。

30℃を越えるとニュースになるこの国では、例年は一夏に2、3度扇風機をつけるだけで、熱帯夜はこの15年ほどの間に2日くらいあったかもしれないという程度だったのだが、この夏は信じられないほど何度も扇風機のお世話になり、扇風機無しでは過ごせない夜も何日も続いて、私は完全に夏バテ状態だった。
最大手の乳製品総合商社に勤める同居人Tの友達が、「アイスクリームの生産が追いついていない状態だ」と驚いていたようだが、そんな猛暑だったこの夏のオークランドの最高気温は、これまでのところ29℃?

「朝8時半には35℃... じっとしていても汗が噴き出すよ!」と例年電話口で嘆く実家(日本)の母や、最近メルボルン(オーストラリア)に引っ越し、「外気温40℃越え!」と言っていたTの友達のことを思えば、天国とも言えるようなNZの気候だが、慣れというのは恐ろしいもので、29℃でもここでは "猛暑" なのである。


さて、4月の日本帰省に向けて用意をし始めてはいるが、スーツケースは日本で購入することにしたため、20年ものの古くて重たい日本製スーツケースはいまだ現役でいる。シルバーだった色は薄汚いシャンパンゴールドのようになってはいるが、まぁ、実家と息子の所に行くだけだから、見かけはどうでもいい。だが、ケースだけで7キロもあるのは困りものだ。


左はオイル塗布後、右はコーティング前の状態

知人へのお土産にする『なんちゃって組子』の鍋敷きは既に出来上がっていて、3度のオイルコーティングをしっかり乾かすべくアトリエに吊り下げてある。
そのうちオイルの臭いも消えるだろう。

旅行時の靴は長時間歩いても靴擦れのできない革のスリップ - オンがあるので、それで良しとし、万が一足がパンパンにむくんでしまった時のためにサンダルも用意した。
飛行機内でお腹を締めつけないズボンは先日買い、丈をつめた。左右の丈は同じだったが、仕上がったものを履いてみると何だか左右がアンバランスに見えて、裾幅を測り直してみると3cm近く違っていてビックリ。せっかく仕上げた裾上げをまた解き、幅を調節しながら、「こんなものばかり製造している業者とそこで働く人々には、『向上心』というものはおそらく育ち難いだろうな...」と思ってしまった。
まぁ、自分で作ろうと思ったら布代にもならないような価格で買えたのだから、品質どうこうを論じる対象ではないだろうが...
あまりに安かったので、使用されている布と糸の耐久性が少々心配である。履いている途中で破れたり、縫い目が裂けて来たらどうしよう...


普段あまり外に出ることもなく、大きめのサイズのワークシャツがあれば間に合うような生活を送って来たため、私は何年も前に買った服しか持っていなかったが、いざ旅行に出かけるとなると「これではな...」と思ってしまうのは、まだ浮世離れし過ぎていないからだろうか? それとも、"美意識" というものが消え去っていないからだろうか?
加齢とともに(恐ろしく)変化した体形に合った服を買う必要が出てきた。

同居人HがオンラインでUKやらAUやらから買った "今どきの服" を「買ったけど大き過ぎた」と時折プレゼントしてくれるため、年寄り臭くない新品が幾つかあるが、薄着になりつつある4月の日本で着れそうな物ばかりではなく、仕方なく、私も何か買わなくてはとオンライン ショッピングを始めると、届いたものは(決して安くはないのに)品質に問題がある(甲の布幅が左右で1cmも違う)サンダルやら飾りフラップの付け位置を間違えた洋服やら、やけに袖丈が長いブラウスやら、ボタンがいつ取れてもおかしくないほど、ボタンホールから糸が長く出てしまっているシャツやら何やらで、ほとんどの商品を返品しなければならず(もちろん単なる糸のほつれはだけでは返品しないが)、家に居てオンラインで買い物する事さえももう面倒になってしまった。(確かに返送料無料というのは有り難いが、マトモに出来上がっていない商品がこれほど多く出回っているというのは、まったくもっていただけないことである)

飾りのフラップの高さが左右違って見えるのは、目の錯覚ではなかった。
また、フラップが中央に寄り過ぎで、試着すると非常に滑稽に見えた。
ちなみに、価格は日本円にして¥5,000弱... 大きく出たな...





巷には低クオリティの物が溢れかえっている現代。
一昔前もこんなに品質が悪かったかな?と、ズボンの直しをしながら昔を思い出していた。
辛辣な苦情を呈する人が少なくなったのだろうか?それとも、多くの人は『使い捨て感覚』で物を購入し、耐久性とか質の良し悪しは取るに足りないことになってしまっているということなのか?

何年か前に知り合いの伝(つて)で洋服の直しをする店に面接に行ったことがあったが、そこで求められていたのは洋裁学校で教えられる技術ではなく、"工場" での技術だった。
要するに、大量生産向けの縫製の仕方(手縫いなどせず、全ての工程を各種機械で仕上げる方法)を熟知していないと、"大量生産品と同じ程度" に仕上げられないというので、そのような機械など使った事のない私は完全にお手上げだった。今どきの 『お直しの店の基準』はあくまでも大量生産の品質を維持することにあるのだということがよくわかった。
だが、たとえそれらの各種機械を使いこなせたとしても、上記のように左右がアンバランスであることにも、ズボンの丈や幅が間違っている事にも気付かず、ボタン付けの位置が微妙にズレていることにも無頓着で、縫い目もうねっていて、縫い代がほとんど無い部分があるような服を平気で世に送り出している縫子が数多く居るのだという事実を忘れてはならない。

「あなたのように馬鹿丁寧に仕事をしていたらお金にならない」と店の経営者は言い、私をそこに紹介してくれた人や、他の店に補正を依頼している知り合い達は、「あなたのように綺麗に仕上げる人は滅多に居ない」と言う。
そう、消費者は当然のことながら高品質を求めているのだが、技術を提供する側はいかに儲けを出すかを一番に考え、品質は二の次なのだ。
自分で作れない或は直せない人は、『品質は二の次』と考える人々が提供するサービスを高いお金を出して受け入れるしか無く、提供する側の思う壷となってしまっていることにおそらく気付いていない。
これから先はもっとひどくなって行くとしか思えないなと、嘆かわしい縫製を見ながらため息が出た。

では、そんなに既製品の質を気にするのなら、自分で作ればいいではないかと思う人が出て来るかも知れないが、布、糸、及び各種付属品代は昔のように安くはない上に低品質なのである。
制作費がたとえタダだとしても、特に普段着程度のものを作るとなると、材料費だけで既製品代を上回るのでは作る意味が無いように私は思ってしまう。

私の若かりし頃は、大量生産品といっても今ほど大量ではなく、出回っている既製品は現代よりも遥かに高かったので、安い生地を買って来てよく服を作ったものだ。その当時、布地は安価で、品質も良かった。
日本に住んでいたからかも知れないが、糸やらボタンやら、ファスナーやらといった物の品質を疑ってみることもなく、また、それらがすぐに壊れることもなかった。
昔と今とでは状況が大きく違っているのだ。

昔と違って、今は身につける物は伸縮生地であることが多くなった。
伸縮素材を扱う場合は、使用する地縫い糸やロックミシン糸も伸縮性のあるものを使用し、縫い方も変える必要がある場合があり、機械もそれらの糸/縫い方に対応したものでなければならない。そららの糸も、機械も高額であり、商売するわけではないのに買い揃える価値があるだろうかと、私はやはり考えてしまうのである。

そうして、どんどん、どんどん、粗悪な大量生産品が世界中に蔓延ることになる。
各分野で技術は進歩しているはずなのに、どうして商品の質が良くなって来ないのか?
それは、商売人が更に狡賢く、無責任になって来ているからに他ならないと断言できるだろう。
その狡賢い商売の仕方に慣らされた消費者は、それを当然のこととして考えるようになり、私たちのような『健全な商売人が居た時代』を経験した世代が過ぎ去ってしまったら、先人が残した勤勉さや責任感などといった、人に備わっていて然るべきものさえ消え失せてしまうように思えて仕方がない。



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