20.10.18

注文製作に終止符を打つ時

つい先頃、オークションに出品している鍋敷を見て、こういうので Vent Cover を作ってもらえるかという質問が来た。

注文製作を引き受けると、どんなデザインで、サイズはどれくらいでと、何度もオークション サイトの Q&A でやり取りをしなければならず、結構面倒なのだが、他の通信手段を厳しく禁じられているため、その方法で注文を受けるしか方法は無い。

とりあえず幾つかのパターンを描き、それを掲載した後に、相手が制作を依頼するかどうかを決める。

パターン製作にかかる時間は、実際に注文に至らなかった場合は請求の対象にはならず、時間をかけてデザインしても無駄になる場合がままあり、決して『良い仕事』とは言えないのだが、それでも自分の手で作ったものが見ず知らずの誰かの家で使われているというのは嬉しいことで、もし自分がこの世から居なくなっても、自分の作った物が何処かで使われているとしたら、製作した意味はあると言えるかもな... などと、すこぶる嬉しいフィードバックを受けたときなどは特に感慨深く思うものの、中には他人の労苦を慮る習慣が全く身に付いていない輩が少なからず居るのも確かで、何度も何度も熱心にやり取りをした挙句に、デザインが出来上がるとプッツリと音沙汰が無くなり、「あれは何だったの?」という状態になる。そんな輩に遭遇すると、もう注文製作は受けないことにしようとやはり考えてしまう。

歳を取った私は、もう面倒なことに関わりたくないという思いが更に強くなった。
正直なところ、人の誠意の無さというものに心底ウンザリしてしまったのだ。

いよいよ注文製作をやめる時が来たかな...
今回は真剣にそう思った。


私が先月買った畔引き鋸を作った職人もまた、手間暇かけて作った鋸を信じられないほど安い価格で販売していて、側から見ても「これじゃやっていけないだろう」と思ってしまうのだが、それでも、沢山注文が入れば食べていけるだけの収入にはなると、骨身を惜しまず働き続けているのである。
そして、良心から代金後払いで商品を送ってあげると、此れ幸いと支払いを踏み倒す不届き者が出てくる... なんと嘆かわしい世の中であることよ。

また、その手引き鋸を買って販売している業者は倍近い(或いはそれ以上の)価格を付けて販売していたりもする。
『物を右から左に流すだけの人』が楽をして収入を得、私腹を肥やしているのを見ると、私は非常に憤りを感じてしまい、自分の作ったものを販売店に託す気が更に失せる。

農家も、酪農業者も同じである。
汗水垂らして働いている者は、労働に見合わない収入のまま一生を終えることになり、労働者の上前をはねる輩が豪勢な生活を送るようになっている社会...
『作る側』にとっては全くもって良い社会ではない。

この経済構造はおそらく改善されることなく、不均衡感を増大して、聖書が言うところの "この世" が続く限り永遠に存続し続けることだろう。

そんなことを考えていると、歳を取ったことがことさら嬉しく思えるようになる。





今、NZは初夏。
ベランダで最初に咲いたのは、真っ赤なバラの方だった。



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