27.10.20

Inga edulis (ice cream bean)

 金木犀を注文した際、一緒に購入した ice cream bean の苗が、最近成長の速度を早めている。


この葉の真ん中にできたボタンのようなものは何だろうねと H に写真を送ると、それは蟻を誘き寄せるためのネクターだとのこと。誘き寄せられた蟻は木の成長を妨げる害虫を食べ、農薬を撒くことなく害虫駆除ができるようになっているのだそうだ。



ネクターができて一週間ほど経ったある朝、ネクターに蟻が来ているのを発見した。
地面からかなり離れた場所(コンクリート製の階段の上)に鉢植えで置いてあるにも関わらず、このネクターめがけてやって来る蟻の嗅覚というのは、計り知れないほど鋭いのだろうと、改めて、生き物に生まれながらに備わっている能力に驚嘆させられた次第である。





自然界は上手く出来ているものだなと感心しながらも、蟻の大群が(鉢の置いてある)玄関先に押し寄せてきたら嫌だなと、今度はそちらの方が気になってきた。


16.10.20

Marcato Atlas Wellness Model 150 Pasta Machine

 パスタ マシーンを購入し、最初に作ったのは焼売の皮...


生地を伸ばす際に場所を取らないというのは、キッチンが狭い我が家では何よりも嬉しく、クルクルとハンドルを回すだけで均等に伸された生地が出てくるのを見るのは、想像以上に楽しいものだ。




焼売の皮作りで気を良くした私は、次に太蕎麦に挑戦。
包丁を使って細く切るのは問題なくできそうだが、太蕎麦が美味しいという声を幾つかネットで見てしまったので、パスタマシーンの別売りアタッチメント Trenette を試してみる目的で、今回は太蕎麦にしてみた。

御品書き: とろろ おろし かき揚げ 手打ち 細切れ 太蕎麦


T も私も蕎麦好きなため、作るならやはり二八蕎麦でしょうと、YouTube のビデオを参考に、頑張ってこねてみたのだが、パスタマシンで麺を切るまでは上手くできたものの、茹でている内にプチプチと切れてしまい、大半が細切れに...

勿体無いのでそのまま食卓にのぼる事となったこの初手打ち蕎麦。
こちらで買った buckwheat flour を使っているため、日本で食べる蕎麦のように強い蕎麦の味はせず、全くクセのない "なんちゃって蕎麦" になってしまったものの、それはそれなりに美味しく、「美味しいじゃん!」と二人してお腹がはちきれそうなほど沢山食べてしまった。

とろろ も大根おろしも絶妙に合い、蕎麦ということをほぼ忘れながらも、自家製麺に気を良くした私は、懲りずにまた作ってみることに...

二八蕎麦でさえ蕎麦の味がしないんだからと、今回は捏ねるのが楽そうな四六蕎麦にしてみたのだが、日本で一般に推奨されている水分量では全く足らず、何十分捏ねようがスムースなテクスチャーにならず... 
仕方なく、少しずつ水分を増やしていくしかなかったのだが、おそらく、回数を重ねないと最適な生地の硬さの程度を見極めることはできないだろう。


次々出来上がる麺を、くっついてしまうことなく置いておくために、パスタ ラックを作っておいた。
DIY ショップで 1本 $5 以下の丸棒(直径 1cm、長さ180cm)を 2本買い、アトリエにあった板に穴を開けて差し込んだだけの簡単な作りだが、場所もとらず使い勝手が良い。




昨日は寒かったため、温かい食べ物がいいということで、簡単な鶏肉だけ入れた麺汁に、天ぷら別盛り。(太ネギが手に入らないため、太ネギ無し鶏南蛮というところか)

麺作りで精力を使い果たすため、天ぷらはいつも一番楽なかき揚げになってしまうが、まぁ、無いよりはいいだろう。



6.10.20

22年が過ぎた

一昨日、H が「自宅で増え広がってしまったミントと、腐りかけたので埋めておいたトマトがたくさん芽を出したけれども、欲しい?」と聞いてきたので、ありがたくもらうことにした。

その日、苗を持ってきてくれた H と一緒に裏庭に行き、二人して畑の草を抜いてから、ミントとトマトの苗を植えた。


最近は半袖の T シャツ一枚でも過ごせるほどの陽気になっているため、雑草の伸び具合も半端ではなく、気が遠くなるほど生い茂ってしまった草を、昨日一人で黙々と抜いていたが、途中で疲れてやる気が失せた。


オークランドは明日の深夜11:59に、アラートレベルが 1 となると、昨日首相が発表した。

帰国感染者は毎日報告されているが、市中感染は終息に向かっているようで、ごく少数のアクティブケースは残っているものの、新しい市中感染者はここ 11日間出ておらず、前回同様、政府の素早い徹底した対応のおかげで、NZ はまた平穏を取り戻したように思える。

今月 17日(日曜)には総選挙の投票が完了し、次の首相が決まるわけだが、現 Jacinda Ardern 首相が再選される可能性は極めて高いだろうと、おそらく多くの人が予想していることだろう。

また、今回の選挙では、いわゆる安楽死の合法化(end of life choice referendum)と、大麻(カナビス)の娯楽使用合法化(cannabis legalisation and control referendum) についての国民投票が同時に行われる事になっている。



安楽死は非常に重いトピックであり、無神論者であってもその判断を容易には下すことはできないだろうに、この国はキリスト教国であるのにも関わらず、それを合法化するか否かの議論を国民投票にかけるという、私にとっては信じられない事態となっている。

死に対する自己決定権が人間にあると考えるのは、(こと、キリスト教に照らして言えば)神への冒涜ではないのだろうか?

私たちは、生まれる時も、場所も、両親も、はたまた、誕生に関わる全ての環境も、何一つ自分で選ぶことはできないでこの世に生を受け、自分ではどうすることもできない環境の下で育てられ、それを土台にして生きて行くことになっているのだ。

自分では精一杯努力して真っ当に生きて来たつもりでも、自分の思い描いた明るい未来は突然の災難に見舞われ、人生の軌道修正を余儀なくされるだけではなく、一生癒えることのない深い傷に死ぬまで付き纏わされることさえある。 
それでも生き続けなければならない理由は?


「自分の人生なんだから、自分の好きなように生きたらいい」と言う人がいる。

自分の人生ね... 

これまで「生まれてこなければよかった」と言う人を、長い人生の間には何人も見聞きして来たが、それは自分でどうこうできる類の問題ではない。

誕生するか否かを自分で決めることはできない。また、誕生の段階で既に、(物心ついた後に考えた)自分の好きなようにはなっておらず、何かの意図を持って生まれて来たのかどうかも全くわからず、学校を卒業し独り立ちする頃になって初めて、"自分の意思" で何かを決定したとしても、ほとんどの場合、全てが "思い通り" というわけにはいかないだろう。下す決定には、『妥協』という文字がついて回ることの方が圧倒的に多いのだ。

生まれてくることに関して、生まれてくる人自身に決定権が無いのは明らかで、そんな生命の誕生を『神からの賜物』としているキリスト教が、生命を終わらせる自己決定権については人間にあると考えるのは、果たして理に適っていると言えるのだろうか?

生きるのが辛くなったからと、神からの "賜物" である命を捨てる人々が増えたら、神の行為のみならず、その存在そのものが一体何だったのだろうと疑問に思えてくるのではないか...

そんなことをふと考えながら、彼の人の22回目の命日(?) を迎えた今日、子供たちがずっと明るく、素直に育ってくれたことを殊の外嬉しく思うと、彼の人の写真に向かって呟くと、途端に胸が詰まった。




ちなみに、自分の好きなように生きているように見える人というのは、得てして周囲から顰蹙を買ったりする傾向にあるように思えるのは、私だけであろうか?


4.10.20

声帯の鍛練

 少し前、母が声を出し辛くなってしまったようだと、日本に居る長男から連絡があった。
年齢から来るもので、治療法は無いとのこと。

母は私なんぞよりも余程社交的で、喋っていない時間は私の方が圧倒的に多いと思えるため、母の歳よりもずっと早く、私も声が出なくなる可能性があるなと、漠然と思ってしまったのだが、父は私よりも更に寡黙な人であったが、亡くなるまで問題なく喋れていたことを考えると、一概に年齢によるものだとは考え辛いのではないかと思えて仕方がない。

(どこぞのサイトから転載)

ネットで声帯を鍛えるトレーニングなるものを見つけ、画像を Line で姉に送ると、姉自身もやらなければと返事が来た。
悲しいかな、私たちはもうそんな歳になってしまっているのだ。

とは言え、トレーニング方法はわかったものの、差し迫った必要性が無いとなかなか実行に移すまで行かず、未だ試してもいないありさまだ。


声は出し辛くなってしまったものの、あと数日で 88歳になる母は元気でいてくれるようで、姉と一緒に、農家から直接購入した新生姜を佃煮にしたり、紅生姜にしたりと、これまでとほとんど変わらない生活を送っているとのこと。


世界中でコロナウィルスが蔓延してしまっているせいで、母に何かあってもすぐには会いに行けない状況にあるため、元気でいてくれることをただただ祈るばかりである。


2.10.20

Eagles /"Hotel California" 1994 Live/


H が巣立って1年が経った。

T と2人きりの生活にはすっかり慣れたが、彼の人が居なくなった日が近づくと精神的に沈んでしまうのは今も変わらない。

YouTube で懐かしい曲を聴きながら胸をつまらせていた時、どうしたわけか、このビデオが聴いていた曲を遮って現れた。

彼の人が好きだったこの曲は、時として何の前触れもなく、私の前に現れる。

あたかも、「俺はずっと側にいるから、元気を出せ」と言っているかのように、この曲が私の人生に付いて回ってくれている。



「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...