6.10.20

22年が過ぎた

一昨日、H が「自宅で増え広がってしまったミントと、腐りかけたので埋めておいたトマトがたくさん芽を出したけれども、欲しい?」と聞いてきたので、ありがたくもらうことにした。

その日、苗を持ってきてくれた H と一緒に裏庭に行き、二人して畑の草を抜いてから、ミントとトマトの苗を植えた。


最近は半袖の T シャツ一枚でも過ごせるほどの陽気になっているため、雑草の伸び具合も半端ではなく、気が遠くなるほど生い茂ってしまった草を、昨日一人で黙々と抜いていたが、途中で疲れてやる気が失せた。


オークランドは明日の深夜11:59に、アラートレベルが 1 となると、昨日首相が発表した。

帰国感染者は毎日報告されているが、市中感染は終息に向かっているようで、ごく少数のアクティブケースは残っているものの、新しい市中感染者はここ 11日間出ておらず、前回同様、政府の素早い徹底した対応のおかげで、NZ はまた平穏を取り戻したように思える。

今月 17日(日曜)には総選挙の投票が完了し、次の首相が決まるわけだが、現 Jacinda Ardern 首相が再選される可能性は極めて高いだろうと、おそらく多くの人が予想していることだろう。

また、今回の選挙では、いわゆる安楽死の合法化(end of life choice referendum)と、大麻(カナビス)の娯楽使用合法化(cannabis legalisation and control referendum) についての国民投票が同時に行われる事になっている。



安楽死は非常に重いトピックであり、無神論者であってもその判断を容易には下すことはできないだろうに、この国はキリスト教国であるのにも関わらず、それを合法化するか否かの議論を国民投票にかけるという、私にとっては信じられない事態となっている。

死に対する自己決定権が人間にあると考えるのは、(こと、キリスト教に照らして言えば)神への冒涜ではないのだろうか?

私たちは、生まれる時も、場所も、両親も、はたまた、誕生に関わる全ての環境も、何一つ自分で選ぶことはできないでこの世に生を受け、自分ではどうすることもできない環境の下で育てられ、それを土台にして生きて行くことになっているのだ。

自分では精一杯努力して真っ当に生きて来たつもりでも、自分の思い描いた明るい未来は突然の災難に見舞われ、人生の軌道修正を余儀なくされるだけではなく、一生癒えることのない深い傷に死ぬまで付き纏わされることさえある。 
それでも生き続けなければならない理由は?


「自分の人生なんだから、自分の好きなように生きたらいい」と言う人がいる。

自分の人生ね... 

これまで「生まれてこなければよかった」と言う人を、長い人生の間には何人も見聞きして来たが、それは自分でどうこうできる類の問題ではない。

誕生するか否かを自分で決めることはできない。また、誕生の段階で既に、(物心ついた後に考えた)自分の好きなようにはなっておらず、何かの意図を持って生まれて来たのかどうかも全くわからず、学校を卒業し独り立ちする頃になって初めて、"自分の意思" で何かを決定したとしても、ほとんどの場合、全てが "思い通り" というわけにはいかないだろう。下す決定には、『妥協』という文字がついて回ることの方が圧倒的に多いのだ。

生まれてくることに関して、生まれてくる人自身に決定権が無いのは明らかで、そんな生命の誕生を『神からの賜物』としているキリスト教が、生命を終わらせる自己決定権については人間にあると考えるのは、果たして理に適っていると言えるのだろうか?

生きるのが辛くなったからと、神からの "賜物" である命を捨てる人々が増えたら、神の行為のみならず、その存在そのものが一体何だったのだろうと疑問に思えてくるのではないか...

そんなことをふと考えながら、彼の人の22回目の命日(?) を迎えた今日、子供たちがずっと明るく、素直に育ってくれたことを殊の外嬉しく思うと、彼の人の写真に向かって呟くと、途端に胸が詰まった。




ちなみに、自分の好きなように生きているように見える人というのは、得てして周囲から顰蹙を買ったりする傾向にあるように思えるのは、私だけであろうか?


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「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...