17.7.24

縁起だとか御利益だとか

特別『現実主義』というわけでもないのだが、仏教だとか、神社仏閣だとかとは無縁の生活を送ってきた私は、これまでの長い人生で、縁起を担いで何かを買うとか、お詣りに行くとかいうことは一切無かった。

日本で行われる各種行事のほとんどは、私にとって何の興味もなければ、信じてもいなかったものばかりで、信じてもいないし関わりたくもないことに強制的に参加させられるのは、苦痛そのものでしかないということを、悲しいかな周囲の人々は考えることすらしなかったように見えた。

こちらでも、クリスマス時期に買い物に出掛けると、決まって聞かれる「クリスマス プレゼントショッピングなの?」という問いに、しっかり「違うよ。私は教会のクリスチャンじゃないから」と笑顔で答える。「あぁ、アジア人だからキリスト教じゃないんだ」と納得するのは西洋人で、この家の大家さん(インディアン)に同じ返事をしたら、非常に驚かれたことがあった。
大家さん一家はヒンズー教徒のはずだが、クリスマスはこの国では祝日であるからか、他の人々と同じように祝うようで、信仰というものが結構いい加減なものになっているのだなと感じた。


さて、そんな日本の風俗/習慣に疎い私だが、先日作った麻の葉模様の偽組子の鍋敷きを販売するための説明文を書く際に、この模様が代々『縁起物』として扱われてきたことを書くべきか否かと戸惑った。

かつて、子供が生まれた際に、麻の葉模様の産着を着せていた記憶がある。御利益どうこうなど全く頭に無かったのは明白だし、自分で買った物ではなく頂き物だったのだが、そうやって自分の意思とは無関係に、"日本の伝統" を知らず知らずのうちに受け入れてしまっていたことに、違和感を感じなかったわけではない。
(それをプレゼントしてくれた側も、やはり信心深くはなく、恐らく特別深い意味など無かっただろうが...)


そんなことを考えながら、説明文に何と書こうかとしばし考え、「この模様は麻の葉を図柄化したもので、その植物の栽培は手がかからず、生命力が強いということを踏まえ、日本では昔から、衣服を含め様々な方面で『縁起の良い柄』として使われるようになったようだ」というようなことを書いておいた。

使った板は、3,500 年以上も前の、沼地に浸かったままだった木を掘り起こして出てきた『古代のカウリ』と呼ばれるもので、色も模様も様々な、貴重な物であるが、部分的に脆い箇所があり、切り口がボロッと欠けてしまう恐れがあるので、神経をすり減らしながら、切り口の角を取る作業に時間がかかった。(角を取ってしまえば、ボロボロになる心配は無くなる)

扱いに時間をかけた甲斐があって、いい感じに仕上がった。




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