NZ に戻って 1 週間も経たないうちに私は風邪を引き、家でグターッとしている時、こちらに居る日本人の知り合いから電話があった。
特別用事があったわけではないようだが、しばらくご無沙汰していたのでということで、日本に行っていたことを話すと、(母はまだ亡くなってはいないが)遺産相続で揉めないようにと、彼女の経験を踏まえた上でのアドバイスをしてくれた。
有難いことに、私の家族は遺産相続で揉めることはなく、父の葬儀の後も、子供が居なかった叔母の遺産を相続することになった際にも、すんなりと事は済んでいる。
姉は自分たちが亡くなった後のことを考え、『墓じまい』を考えている旨の話があった。
元々信心深い家庭ではなかったし、先祖代々の墓を残すことでプラスになることなど無いと予々思っていた私は、姉に同意し、何なら母が亡くなる前に墓じまいをしておいたら、お葬式にかかる無駄な出費も抑えられると提案したのだが、それは母が納得しないだろうから無理だろうねとのことで、姉の意向を尊重することとした。
僧侶になった高校時代の同級生には申し訳ないが、私は仏教というものを殊の外信じていない。(戒名のランク別価格設定など、愚の骨頂ではないか)
また、他の "何かにつけお金が絡んでくる" 宗教に対しても同様に、信じるに値しないものだと思っている。
それらは精神的に救いを求めている者に対しての集り(タカリ)にしか思えないのだ。
寄付金/お布施の額で恩恵にあずかれる率が上がると平然と言ってのけるような宗教に至っては言語道断である。
加えて、絢爛豪華な教会やら、モスクやら、寺院やらを見る度に、そんな所に多額のお金を使っていないで、貧しい暮らしを余儀なくされている信者のことを少しでも考えたらどうだと憤りを覚えて仕方がない。
外見をとりわけ "立派に見せる" ことに固執している宗教は、果たして信じるに値するかどうか、よくよく考えてみるべきである。
さて、墓じまいの話に戻るが、最後の最後まで檀家からお金をむしり取ってやろうと企てる寺に至っては、墓じまいをしたいという檀家に対してべらぼうな費用を請求してくることもあるようで、恐ろしいの一言に尽きる。
お墓を解体/撤去の前に法要が必要だとか...、"お墓の魂ぬき" と称する閉眼供養と言うらしい。
魂抜きって...、僧侶といえどもただの人間にそんなことができるのか?????
もう、その時点で私は何も信じられなくなっているが、その魂ぬきにお金が絡むことで更に輪をかけて信じられなくなる。凄い商売だ。
もし、生きている間に、とりわけ仲の良かった高校時代の友人(後に僧侶となった子)に再会することがあったら、腹を割って聞いてみたい。『魂やら霊やらを、お経を唱えることでコントロールできると本当に思っているのか?』と。
元あった墓を更地にするのに結構な費用がかかり、次に先祖の遺骨の移転先を決めるのもまた悩みの種であることは言うまでもない。
私は一連の工程に納得できることはほとんど無いだろう。
その件に関しては、姉に丸投げである。
名字は違えど、事実上家を引き継いでくれた姉に感謝するばかりである。
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