5.1.25

パン型 蓋改良

おそらく 10 年以上前に買った長い USA Pan のPullman Loaf 型は、そのサイズ故、これまで備え付けのオーブンでしか使えなかったが、昨年末に購入した Ninja Foodi XL Air Fry Oven は結構な大きさがあるため、使えないかとサイズを測ると、本体部分は入るものの、蓋がつかえて入らない...

マジマジと蓋を見ていたら、不必要に長いことが判明。


長い部分を切ってしまっても問題ないだろうと踏んで、暇を持て余していた T に相談し、把手をどのようにしようかと話し合った後、二人でスタジオに降りて行き、T が早速ハックソーで不必要な部分(↑ 赤線部分)を切り取ってくれた。

切り口は鋭利なため、私がヤスリで角を落とし、引っ掛かりを全て取った後に、T が把手を作るべく板を上にギューっと曲げて、無事作業終了。



改良した蓋を付けて、早速オーブンに入れて具合を見てみた。



真横にして入らなくもないが、出し入れがしにくいので、斜めにして入れた方が良さそうだ。


我が家のパナソニック製パン焼き器はハードパンには適しているが、普通の柔らかい食パンを焼くのには適していないため、パン焼き器で捏ねと一時発酵まで済ませたら、パン型に入れてオーブンで焼く方法を取ろうと考えているところだ。

ちなみに、この Ninja のオーブンには Dehydrate 機能も付いており、最低温度 30℃ から設定できるようになっているため、乾燥対策にパン生地をラップ等でシールするなどすれば、二次発酵もこのオーブンを使ってできることがわかった。

*Reheat 機能は最低 40 ℃から設定できるようになっているので、もしかしたら、それも使えるかも知れない。




2.1.25

Ryobi 草刈機

数年前から、市の環境美化部門のようなもの?が規模を縮小したのか、歩道の草刈りに来なくなった。
私の家は借家なので、当然のことながら、裏に住むこの家の大家さんが草を刈ってくれていたのだが、その大家さんが引っ越してしまい、伸び放題になってしまっている草を、今度は私たちが刈らなければならなくなってしまった。(ちなみに、近隣の借家は、大家さんが業者を頼み、定期的に草刈りに来ている)

日本でよく使われているような、ディスク型の刃が付いた草刈機を探していたのだが、何処の店にも見当たらず、で、昨年末仕方なく購入したのがこれ → 。(手裏剣もどき型?)
暴風の日が何日も続いていたため、大晦日まで使用できずにいた。

これまで使っていたライン(プラスチック製の細い紐)が回転して草を刈るものは、ラインが詰まって出て来なくなったり、すぐに切れたりで、頻繁にスイッチを切らざるを得なくなり、かなりなストレスだったが、これはそれに比べたら遥かにマシで、あっという間に草刈り完了。
ただ、長身の T にはハンドルの位置が若干下らしく、少々腰を屈めないとならないので、改良しなくてはと話していた。


年々値上がりしてきたとはいえ、まだ周囲の借家の価格からすれば良心的と言えるだろう我が家の賃貸料を考えれば、約 NZ 369 くらいの出費で済んで良かったと考えた方がいいのかも知れないが、なかなか痛い出費である。


昨年末試運転し、バッテリー切れで中途半端に終わった草刈りを、新年明けて早々に片付けてくれた T。

業者に頼んだら、自分たちで片付けられる簡単な仕事でもべらぼうな金額を請求されることはよくわかっているため、できることは自分たちでする習慣がしっかり身に付いた。

さて、今年はどんな年になるのだろうか?




28.12.24

母逝去

 前日までデイケアに通えていた母が、昨日朝突然気を失い、そのまま帰らぬ人となったと、姉から連絡が来た。

我が家にしては珍しく、誰の誕生日とも関連していない日ではあったが、訪問診療の医師が母のもとに着き、母が死亡と判断された時間は、正に母の誕生日の数字と一致した。

92 年余の長い人生で、幾度となく病院に入院した経験はあれど、最期は自宅で迎えられたことを、間違いなく嬉しく思っていたことだろう。

私は姉の計らいもあり、葬儀のために日本に帰ることはしないが、それで後悔は無い。


長きに渡る人生、お疲れ様でした。

Rest in peace.



19.12.24

初めてのソックス編み

 姉は実に器用な人で、洋裁も編み物もプロ並みに上手い。

ほとんど毎日のように、時間を見つけては編み物をしていて、私が滞在中にも、幾つ作ったか数え切れないほどの作品が出来上がっていた。

母の誕生日にはカーディガンを編み、ソックスも、帽子も、ティッシュケースも、マフラーも全て母のために編んであげてあった。
姉が娘のために編んでいた薄手のセーターは、袖が透かし編みでデザイン的にも美しく、色も綺麗な青で、姪にとても似合っていた。

私も過去には少なからず編み物をしたことがあるが、ここ何年も編み針セットを見た記憶がないほど遠ざかっていて、専ら木工に勤しんでいただけだった。


ふと目に入ったテーブルの上のコースターを、気分転換に編んでみようかなと姉に言うと、編み方図をコピーしてくれ、かぎ針やら毛糸やらまで用意してくれて、そこから編み物教室の始まりとなった。
小学生の頃、姉に洋裁を教えてもらったことがあるが、それは厳しい人で、一度教えたことは二度と教えてくれなかった記憶が蘇ってきたが、歳をとって丸くなった姉は、私が戸惑っていると何度も丁寧に教えてくれるようになっていて、それが最も驚いたことだった。



コースターの次は小物入れ、そして、それらを編み終わると、今度はソックスを編んでみるように言われ、少々躊躇しながら、YouTube のビデオを観ながら編み始めたが、説明がよくわからないところは、隣で姉に教えてもらう必要があった。

編んでいる途中、母からの呼び出しブザーで中断すると、どこを編んでいたのかもうわからなくなる...
私が面倒な所を編んでいる間は、姉が気を利かせて率先して母の面倒をみてくれることが多かったが、コツが掴めないうちは何度も目を確認しなければならず、きちんと出来ているかどうか定かでないと編み直しもしたりして、完全に覚えるまで結構な時間がかかった。



集中して編み物をしていたおかげで、介護のストレスはだいぶ解消でき、編み物が前にもまして楽しく思えるようになってきた。


姉が私と編み物が好きな H のために、細かいパーツを買い揃えて作ってくれた段数リング、目数リング、増目リングは、実際使ってみると誠に便利で、もうこれら無しには編み物はできないだろう。






17.12.24

墓じまい

NZ に戻って 1 週間も経たないうちに私は風邪を引き、家でグターッとしている時、こちらに居る日本人の知り合いから電話があった。
特別用事があったわけではないようだが、しばらくご無沙汰していたのでということで、日本に行っていたことを話すと、(母はまだ亡くなってはいないが)遺産相続で揉めないようにと、彼女の経験を踏まえた上でのアドバイスをしてくれた。
有難いことに、私の家族は遺産相続で揉めることはなく、父の葬儀の後も、子供が居なかった叔母の遺産を相続することになった際にも、すんなりと事は済んでいる。

姉は自分たちが亡くなった後のことを考え、『墓じまい』を考えている旨の話があった。
元々信心深い家庭ではなかったし、先祖代々の墓を残すことでプラスになることなど無いと予々思っていた私は、姉に同意し、何なら母が亡くなる前に墓じまいをしておいたら、お葬式にかかる無駄な出費も抑えられると提案したのだが、それは母が納得しないだろうから無理だろうねとのことで、姉の意向を尊重することとした。


僧侶になった高校時代の同級生には申し訳ないが、私は仏教というものを殊の外信じていない。(戒名のランク別価格設定など、愚の骨頂ではないか)
また、他の "何かにつけお金が絡んでくる" 宗教に対しても同様に、信じるに値しないものだと思っている。
それらは精神的に救いを求めている者に対しての集り(タカリ)にしか思えないのだ。
寄付金/お布施の額で恩恵にあずかれる率が上がると平然と言ってのけるような宗教に至っては言語道断である。

加えて、絢爛豪華な教会やら、モスクやら、寺院やらを見る度に、そんな所に多額のお金を使っていないで、貧しい暮らしを余儀なくされている信者のことを少しでも考えたらどうだと憤りを覚えて仕方がない。

外見をとりわけ "立派に見せる" ことに固執している宗教は、果たして信じるに値するかどうか、よくよく考えてみるべきである。



さて、墓じまいの話に戻るが、最後の最後まで檀家からお金をむしり取ってやろうと企てる寺に至っては、墓じまいをしたいという檀家に対してべらぼうな費用を請求してくることもあるようで、恐ろしいの一言に尽きる。

お墓を解体/撤去の前に法要が必要だとか...、"お墓の魂ぬき" と称する閉眼供養と言うらしい。
魂抜きって...、僧侶といえどもただの人間にそんなことができるのか?????
もう、その時点で私は何も信じられなくなっているが、その魂ぬきにお金が絡むことで更に輪をかけて信じられなくなる。凄い商売だ。

もし、生きている間に、とりわけ仲の良かった高校時代の友人(後に僧侶となった子)に再会することがあったら、腹を割って聞いてみたい。『魂やら霊やらを、お経を唱えることでコントロールできると本当に思っているのか?』と。

元あった墓を更地にするのに結構な費用がかかり、次に先祖の遺骨の移転先を決めるのもまた悩みの種であることは言うまでもない。

私は一連の工程に納得できることはほとんど無いだろう。
その件に関しては、姉に丸投げである。

名字は違えど、事実上家を引き継いでくれた姉に感謝するばかりである。





15.12.24

シャワートイレと日本食、百均、そしてAmazonの宅配

 日本で快適だと思うものは、シャワートイレと百均、Amazon プライムの翌日配送と、言うまでもなく日本食だ。

その内で無いことにガッカリするのはシャワートイレであろう。
今では日本の何処でも備え付けられている感のあるシャワートイレは、この時代になっても日本以外ではほとんど見ることはないと聞いている。日本を訪れた観光客がこぞって絶賛しているにも関わらず、日本企業が積極的に海外に進出するでもなく時が過ぎているのが現状だ。
海外組が普通にシャワートイレを備え付けられる日は、果たして来るのだろうか?


さて、日本滞在中に免税ではなく普通に買い物をすることがほとんどだった私は、Amazon でよく買い物をした。
利便性を考えてプライムに入ったが、ほぼ全ての商品は翌日配送となり、非常に便利だった。時間指定をすれば間違いなく指定時間内に届けられ、時間を指定していなければ夜 7 時頃までには間違いなく配達された。日本の宅配業者の信頼度は非常に高く、荷物の取り扱いも、接客に関しても丁寧である。NZ のとんでもなく杜撰なクーリエに爪の垢を煎じて飲ませたいほどだ。
Amazon で購入した内の幾つかは母の為のもので、容量の大きな吸飲み、痩せこけた身体でも使える非接触型体温計、MCT オイル等々、必要に応じてその都度購入。
自分用に買った "締め付け過ぎることのない" 着圧ソックスのおかげで、10 時間に及ぶフライトでも足が浮腫まずに済んだのは期待以上だった。
また、恐らく小学校以来ではないかと思われるリュックサック購入は、姉や姪の強い勧めがあったからに他ならないのだが、7 kg 弱にもなってしまった機内持ち込み手荷物も楽々運ぶことができ、非常に快適であった。


日本滞在中、幾度となく行ったダイソーやセリアといった百均の店。
百円の物ばかりではないが、それでも安く、品質は昔のように悪くはない。しかも介護用品まで売られているのには驚いた。
介護が必要な人の状態は様々であるが、身体/お尻拭き、使い捨てビニール手袋のようなごく基本的な必需品から、本来は専門店やら限られた薬局でしか手に入らないような、口腔ケア スポンジなども販売していて、ただただ凄いなと感心した次第である。
キッチン用品から洋裁小物まで、今回は買ったものが結構あった。


日本食の秀逸さは世界中で有名だが、私の故郷である静岡県は新鮮な海産物に恵まれ、ダントツに寿司が美味しく、スーパーマーケットで売られているパック寿司でも十分だと思えるほどである。もちろん、アボカドが入った巻き寿司など無く、握りがほとんどであるのは言うまでも無い。
また、滞在中、寿司以外にも美味しい物をこれでもかと言うほどご馳走になった。
この先、生きている間に、毎日のようにこれほど贅沢な食事ができる日が来るとは思えないが、それでも NZ に早く戻りたいとひたすら思ったのは、ひとえに、日本が住みやすい国ではないからに他ならない。

田舎に行けば行くほど、陰湿になる人間関係...
他人の生活に土足でズカズカと入り込むことがさも当たり前のように、隣近所の家の事情を把握したい輩がやたらと多く、有る事無い事ふれて回るのを唯一の楽しみとしているような人々を見ると、ほとほと嫌気がさした。

父が他界した後、実家は耐震構造の家に建て替えをしたのだが、家が出来上がると、近所の人たちが家を見せてくれとゾロゾロとやって来て、展示場でも無いのに全ての部屋を見物して回ったのだそうだ。
もちろん姉は断りたかったが、断ったら少なからず険悪になるのは間違いなく、やむなく要求を呑んだと言っていた。プライバシーも何もあったものじゃない。

私はそのような生活は真っ平御免だ。

滞在中、防災訓練と称するものがあったが、学区毎に割り振られた防災班というものがあるおかげで、学区の境目にある私の実家は目の前にある小学校ではなく、1.3 km 彼方の小学校まで歩いて避難しなければならなくなるという、非現実的な、誠に馬鹿げた行動をとらざるを得なくなっている。
非常時に、母のような要介護の家族が居る家庭は、車椅子を押して避難場所には行かず行けず、歩いて 5 分の所にある総合病院にも避難できず、家で待機しているしかないだろうと、姉夫婦は言っていた。私はたまたま会った隣人にも同じ疑問をぶつけてみたのだが、「そういう決まりになっているから仕方がないんだよね。避難するより自宅に居た方が安全かも知れないね」というだけで、上から言われたことには従うしかないという頭しかないことがわかった。

緊急事態が起こる前に、何とか現実的に受け入れることのできる対策を取ろうという前向きな気持ちなど更々無い。いや、そういう気持ちを抱かせないように教育されて来ていると言うべきだろうと思えて仕方がない。

あの常にしっかりとしていた姉でさえも、つまらないいざこざに巻き込まれないように、あえて正論を言わず、だんまりを決めこんでいる姿を見ると、『言っても無駄』なんだろうなというのがよくわかった。

シャワートイレも無ければ、美味しいお煎餅も、スイーツも無いに等しい(あっても高過ぎる)NZ に戻り、入管で「あなたすごく若く見えるわね」と笑顔で迎えられ、やっと帰って来られたことを本当に幸せだと感じた。

日本を出て本当に良かったと、心底思えた今回の帰省であった。





11.12.24

違和感

 日本滞在期間の約 1/3 は、母が入院していたこともあり、面会に行く以外は自由に時間を使うことができていた。
せっかく日本に来たのだからと、歯医者を予約し、欠損していた歯やら虫歯の治療を開始し、母が退院してからも時間を調整して、全ての治療が終わるまで何とか通うことができたのは幸いだった。短期間の滞在であるため、もちろん国民健康保険には加入せず、全額自費での治療ではあったが、それでも NZ で歯科治療を受けることを思えば比較にならないほど安いことは確かだ。(ちなみに、NZ で H が虫歯の治療をした際の治療費は、1 本の歯に被せ物をしただけで日本円にして 27 万円を越えた)

歯医者は歩いて行ける距離に 5 院ほどあり、姉たちに評判の良い所を聞いたのだが、よくわからないというので、電話をして直ぐに予約が取れる所で良しとした。

その歯科医まではゆっくり歩いても 10 分ほど。そしてその周りにはスーパーマーケットやら薬局があり、治療が終わるとスーパーマーケットに寄っては姉に頼まれた買い物をして帰ったものだ。

スーパーマーケットの店内に入ると、私と同じような白髪頭のお婆さんたちが多く買い物に来ていた。
皆背が低く、細く、地味な色合いの服を着ていた。
そんな中、白髪ではあるが肩よりも少々長いストレートの髪の、長身かつ体格(恰幅)の良い私は完全に馴染んでいない存在で、非常に違和感を感じ、それを姉に話すと、「確かに、この辺りの人じゃない感じがするね」と笑っていた。


姉は昔から頭脳明晰で、しっかりした人だと信じて疑わなかったのだが、歳をとって丸くなったと言うか、どうでもいい事が多くなったと言うか... 私だったら明らかにしておくだろうことを有耶無耶なままで良しとする傾向にあることがわかった。
自分に都合が悪いことでも我慢して受け入れ(私からすれば我慢しなくてもいいことまで)、大変な思いをしてストレスを抱えこむことになっている姉を見た私は、やはり黙ってはおれず、特に、ビジネスで母の介護に関わってくれていた人々には、単刀直入に且つやんわりと質問をし、有耶無耶なまま無理をして過ごすことがないように務めていた。

相手から言われたことを、納得していなくとも「はいはい」と受け入れる、或いは受け入れたふりをするというのは、日本人によくある特徴だが、私は納得していないことをし続ける(または無視できる)性分ではないので、最初から自分がそのことについて理解できていないことを伝え、説明をしてもらうようにするのだが、大抵の場合、それで問題なく解決できている。


日本では私のような性格では生活し辛いというのが、改めてよくわかった今回の滞在であった。



10.12.24

NZ に戻る

数週間前、大家さん一家が引っ越しをしたとの連絡が T からあった。

私がいない間に変わったのはそれだけだろうか... 
そんなことを考えながらの NZ 帰国となった。




日本に 3 ヶ月余り居ることになるとは予想だにしておらず、持って行った服は夏服のみ。おまけに喪服用の靴まで用意して行ったのだが、入院時の担当の医者を筆頭に、全ての関係者が『家で看取り』という方向で母の退院を捉えていたのとは裏腹に、退院後の母の容態は安定し、食欲も旺盛な状態を維持し続けている。

ほとんど寝たきりだった入院生活が嘘のように、母は歩行器を使ってトイレに行くことも、数時間椅子に座り、パソコンでジグソーパズルをしたりできるようにもなっている。

デイケアサービスには週 2 回、朝 8:40 頃から夕方 4:30 近くまで行って来ることができるようになり、様々なアクティビティを他の人たちと同様にこなしているらしく、あの骨と皮だけになってしまったような身体からは到底想像できないだろう体力を持ち合わせている母に、周囲は驚かされるばかり。

最期を看取るまで介護をすることになるだろうとの予測は外れ、最期はまだまだ先になる可能性が高まってきたと思えた時点で、姉と話し合い、私は NZ にそろそろ戻ることにしたというわけだが、これからも依然として大変な介護を殆ど一人で担わなければならなくなる姉には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
とはいえ、私が居ることでの負担/気遣いも少なからずあることも承知していたため、全てを踏まえた上での決断となったわけで、離れて暮らす姉の娘たちのサポートや、義兄の協力無しには、この段階での NZ 帰国はおそらく無理だと考えていたことだろう。

滞在中、姪たちは私に大変良くしてくれ、気を使ってもくれた。
姉と私の手伝いをしようと、遠く離れた県からリモート ワークに切り替えて何週間も来てくれていた子が居てくれたおかげで、重労働の介護が苦しいだけのものではなくなり、ほとんど毎日のように涙が出るほど笑っていられたのは、本当に有り難く、ストレスがかなり減ったことは疑いようがない。
また、私の NZ 帰国日を知らせると、帰国前に一緒にランチに行こうとわざわざ来てくれたり、出発の日の朝お土産を持って家まで見送りに来てくれた子あり、LINEで楽しかった思い出話に花を咲かせながら見送りをしてくれた子ありで、どちらも心から嬉しいと思えるサプライズであった。

我が家の子供達のみならず、姉の子供たちも、皆素直で可愛い子供達だなと、改めて思った次第である。

帰国日の空は晴れ渡り、遠路はるばる車で迎えに来てくれた長男のおかげで、少し雪化粧した美しい富士山を見ることができた。

私が NZ に戻った日を境に、日本は急激に寒くなったと聞く。
皆が体調を崩さないようにと、暖かい NZ から祈るばかりである。




1.10.24

「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景...

到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。
乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。

また、全ての人が乗り込み終わるまで、ドアを開けておくボタンを押し続けてくれている人が必ずいる。そして、開くボタンを押す使命感を感じている人は、全ての人が降り終えるまでボタンを押してくれていたりして、それに対して先に降りる人々は「すみません」と言ったり、お辞儀をしたりして降りていくことになる。

日本人が他の国々から polite と称賛されるのは、こういう行為をごく普通に目にするからに違いない。

NZ でも、少々遅れて来た誰かのためにエレベーターのドアを開けておいてくれる人は多くいるが、その場合は皆 Thank you. :) と言い、「すみません」ではない。
また、エレベーターを降りる際にお辞儀をすることはほぼ 100% 無い。

お国柄の違いというのは実に面白いものだと、今回帰省して改めて思った次第である。



24.9.24

急遽日本へ

90 歳を超えた母が肺に炎症を起こし、緊急入院したとの一報が入ったのは先月末...

以前から誤嚥性肺炎があり、肺機能が落ちて来ているとのことで、寿命もあるし、急変した際には延命治療はしないことにしたと...
まだ元気なうちに一度会いに来ておいた方がいいという姉の言葉を受け、早速子供達に連絡を取った。

H と T の都合を調整し、エアチケットを取ろうとしたのだが、その時点で日本はノロノロ台風 10 号の影響で飛行機の離発着にも影響が出ているというので、さすがにこの日まで待てば台風は過ぎ去るだろうと踏んだ日を選び、日程変更可能のチケットを押さえたのが今月 4 日。

念の為に日本到着後 5 日間は病院に面会に行くことは控え、私たち一時帰国組の誰もが感染症に罹っていないことを確認した上で、母に会いに行った。
母は体重が激減しているとは聞いていたが、身体は小さくなってしまい、まるで骨と皮だけのような手足と、痩せこけた顔を目の当たりにして、愕然としてしまった。

炎症の値は上下していたが、容体は徐々に回復し、退院予定日を 1 週間超過した 12 日、無事母は退院した。

母は大腿骨骨折後、家の中では歩行器を使い、外出時は車椅子を使わないとならない生活...
看病をする姉の負担は想像以上に重く、これまでずっと姉に任せきりだったことを心から申し訳なく、また有り難く思った。

痰が切れず、また入れ歯を外して話す母の言葉はなかなか聞き取れず、何度も何度も聞き返さないとならないのは、私のみならず姉も同じで、話し辛い母が何度も同じことを繰り返して言わないとならないのは可哀想の一言に尽きるが、どうしようもない。

退院の日、母の容体はその前の日よりも悪くなっているように見えたが、再度検査することなく退院してしまったのが祟って、案の定、その後 3 日間はほとんど食事も喉を通らず、痰も切れず、自力で起き上がることができない状態になってしまった。
衰弱が激しいと判断した姉は病院に連絡し、救急外来を受診... 極度の脱水状態で、そのまま即再入院となって今に至っている。

入院している限りにおいては差し迫って命の危険はないかもしれないが、退院したら入院中と同等の看護はできるはずもなく、医者からも家庭での看病には限りがあるので、介護施設に入ることも選択肢の一つとして考えてもいいかもしれないと幾度となく言われたが、痴呆にもなっておらず、冴えた頭のまま介護施設に入れられ、胃瘻、或いは喉やら股関節付近に穴を開け管を通して、そこから栄養を流し込む処置を施された上で、感染症の恐怖に怯えながら家族と離れて余生を過ごすことが果たして幸せだと言えるのか... と、姉と二人で話し合った。

家に戻って介護する道を選べば、徐々に衰弱し、間も無く最期を迎えることになるだろうことは誰もが想像できるが、その方が年老いた母にとっては幸せなのではないか...
もし自分が母の立場だったら、その方を選ぶのではないかなどと考え続ける毎日で、精神的に疲れ果てている。

今日は母の具合は悪くはなく、食事もしっかり食べられたようで、少しホッとした。



T とH は明日の便でとりあえず NZ に戻ることが決まった。

私はおそらく母の最期を看取るまで日本に滞在することになるだろう。




19.8.24

ニウエ の物価

 H 達は 1 週間の観光を終え、無事 NZ に帰って来た。

食事は美味しかったが、食べ物の選択肢はあまり無く、毎日ほぼ同じ物ばかりを食べざるを得なく、いささか飽きたとのこと。

外食は高くつくので、自炊をしようと思っても、スーパーマーケットに並んだ商品の大半が NZ からの輸入品で、価格は裕に倍を超え、普通のチーズは 2kg $56 (現在のレートで約 ¥5,000)、ワインは NZ の 2 倍となり、キャベツ半分で $14 (約 ¥1,250)、レタス $11 (¥1,000 弱)、きゅうり $13 (多分 1 本で ¥1,200 弱)と、自分で栽培しなければ生活していけそうもない驚きの価格となっていたようだ。

(何故パンが外に出された棚に陳列されているのだろう?すぐにカビてしまいそうじゃないか...)

また、ニウエ最後の夜はフライドチキン屋に行こうと思ったのだが、小麦粉が島にもう残っていないから作れないとのことで断念したと言うのを聞いて、小麦粉も島で生産できないんだと、想像以上の不便さに私は度肝を抜かれた。

貨物船が着くポートはあるものの、船は月に 1 回しか来ず、荷物が届いた直後は(べらぼうな値段だとしても)一応商品はあるが、次の荷が入る前にストックが底をついてしまっているという状況...

ニウエに移住するとなったら、日本の昭和時代にさして裕福ではない家庭に育ったような生活を想定しないとならないのではないかと、私の幼少期の光景を思い出してしまった。

H は宿の Wi-Fi に繋げたものの、超遅くて何もできないと、現地でテレコムの SIM カードを買い、4G で接続していた模様。
移住するのであれば、これは Starlink を使用すれば何とかなるだろうか...


生活するとなると不便な点が多いだろうというのはよくわかったが、私は H が「波の音がすごくて怖かった」と送ってくれたビデオを観て、それが一番衝撃的だった。



確かに怖い。
今でさえ、暴風雨の夜には窓に叩きつけられる雨音で眠れなくなってしまうような私だ。昼間ならまだしも、夜中に大音響で荒れた波の音を聞くというのは恐怖そのものだろう。

そんな海辺には私は住めないだろうな...





パン型 蓋改良

おそらく 10 年以上前に買った長い USA Pan のPullman Loaf 型は、そのサイズ故、これまで備え付けのオーブンでしか使えなかったが、昨年末に購入した Ninja Foodi XL Air Fry Oven は結構な大きさがあるため、使えないかとサイズを測ると、本...