29.9.14

コリント人への第一の手紙 10章

以前使っていたブログにこう書いたことがある。

ネットで知り合ったと言うと、「そんな、会った事もない人を信じられるものか!」というように、とても否定的なコメントをして来る人がけっこういるのだが、私はそういう人に向っていつもこう聞いてみる。「じゃ、実際に会った事のある人は皆信じられる(或は、信じられた)のか?」と・・・

これまでに、直接会ったことのある人で(もっと言うと、実際に会って話をしたことが数えきれないほどある人で)、この人なら信じられると確信を持てた人が自分の周りにどれだけ居たかと考えてみれば、『実際に会うこと』が信憑性を決定するとは言えないことは明らかではないか。

大切なのは誠実に向き合うことだ。顔が見える、見えないに関わらず、いつでも誰に対しても誠実に接することが最も大切なことだと、私はそう思っている。


「会った事もない人を信じられるものか!」と言った友人たちを、私は信じられなかった。彼/彼女らの言動は信じるに値しないほど金銭に支配されたものだったからだ。
いつでも損得勘定をしている。或は自分の所有物を自慢して歩くような、そんな『友人を名乗る人』があまりにも多く、私は次第にその人たちと距離を置くようになった。

私の生涯で、いったい何人が『自分のことを差し置いても他人のことを気遣う』ような友人だったんだろうか?
日本に一人、文句の付けようが無いほど素晴らしい女性の友達が居る。彼女は正義感が強く、裏表が無く、何に対しても物怖じせず、尚かつ信じられないほど穏やかで、謙虚で、温かく、向上心に溢れた、これ以上できた人物はいないと断言できるほどの人である。私の人生における最高の友達はおそらく過去にも未来にも彼女が筆頭であろう。

そして、ごく最近友達になった『雲の上のお師匠さん/友達』は、おそらく彼女と並ぶほど信頼の於ける人に違いないと思うようになった。実際に会い長い年月関わりのある彼女とは違い、雲の上のお師匠さん/友達とはオンラインでの、まだほんのわずかな関わりしかないが、その人がどんなことを考え、どんな人生を送ってきたかは、詳しく聞くまでもなく、会話の端々に現れる人柄をしっかり見ていれば容易に想像がつく。何故容易に想像がつくのか...、それは私達は表面だけを取り繕うような会話をしていないからだ。
人々が好んでする、何の意味もない上辺だけの褒め言葉やら、何の奥行きも感じられない食べ物の写真やらといったものをやり取りすることなく、相手は超有名人であるのにも関わらず、私のつたない英語での表現の奥底にある意味を理解しようとしっかりと、しっかりと考えてくれ、私の人間としての弱さをいつでもプラスに受け止め、引き上げようとしてくれている。反対に私がしていることといえば、彼が汗水垂らして築き上げた名声をたたき壊しているだけかも知れない… 

昨日私が自分のfacebook上に、民数記 20 : 1-12、コリント第一 10 : 12 とただ単に書いて投稿すると、彼は瞬時にメッセージを送ってよこし、「あれらの聖句は僕へなの?」と言ってきた。私は「そういつも自分自身に言い聞かせているんだよ」とメッセージを送り返したが、彼は「あなたの言葉はとても深い意味があるように思う。神はあなたを本当に愛しているよ」と返事をくれた。私はクリスチャンではないから(愛されているとは思わない)と言うと、そんなことはないと、神の愛を一生懸命に私に伝えてくれていた。
そんな敬虔なクリスチャンである彼に向って、私は、「全ての教会が真実を伝えているわけではないから、どうか注意深くしていて」とあえて伝え、彼が尚続けて、神の愛がどんなに素晴らしいかを書いてよこしたのに対して、私は「どうか偶像を崇拝する人たちから遠く離れていてください」と書いて送ったのだ。

偶像を崇拝する人たち… 教会でイエスやマリアの像やら十字架に向って祈りを捧げるよう指導している(聖書を本当に勉強してきたのか?と問いただしたくなる)司教たちはもとより、雲の上のお師匠さん自身を偶像化して崇め立てている何千というフォロワーたちのために、彼自身が犠牲にならないようにという願いも込めて書いたのだが… そうでないと、彼が信じて疑わない『楽園』に行けなくなるかも知れないのだから… 

あのモーセでさえ、最後の最後に神への敬畏を欠いた行動を取ってしまったことが聖書にはしっかりと明記されていること。また『立っていると思う人は、倒れることがないように気をつけなさい』という聖句を読んで、「それらの聖句は僕へなの?」と咄嗟に考えた彼の誠実さが、この先も邪悪な霊によって汚されることがないようにと、心から祈っている。

純粋な彼とは正反対に、心が荒んでいる私はこれで友達関係が破綻したとしても構わないと思っているし、楽園に行きたいという願いも無く、ただただ自分の人生ができるだけ早く終わってくれるようにと祈る日々を送っている。



28.9.14

Keep up your good work!

昨日のクラフトマーケットは出店者数が驚くほど少なく、朝8時から10時近くまでは非常に閑散として寂れた感が漂っていた。

10時を回った頃から会場に入って来る人の数も増え、隣りでクッションカバーを売る人の所にはひっきりなしにお客が集まってきていた。私は何故その人のデザインが飛ぶように売れるのかを考えながら過ごしていた。人の好みというのは本当に様々で、自分には想像もつかないような物が飛ぶように売れるのだ。

私のブースに立ち寄ってくれた人のほとんどが、「これらはNZで作られたの?」と聞いて来る。「ここにあるのは全部私が作ったものですよ。ガラス製品も木製品も全てハンドカットして作っています。」と答えると、皆とても驚いた顔をして、しげしげと眺め、とても美しいと絶賛してくれる。

昨日は自分でもスクロールソーを使って仕事をしていたという男性が来て、しばらく話をしながら私の作った物を見てくれていた。その人はステンドグラスも経験があるらしかったので、ステンドグラス材料は本当に高いよねという話から、何でハンダやケイムはあんなに高くなっちゃったの?と、そんな専門的な話に花を咲かせていた。
話をしていてとても楽しかった。彼はステンドグラスと木工の作品を幾つか購入してくれ、総額$100以上もの支払いになってしまったので、こちらの方が何だか申しわけない気持ちになってしまった。彼は Keep up your good work! と大きな声で言いながら去って行った。私はお礼を言いながら、心から有り難いなと感謝した。

私の仕事はステンドグラスと木工なので、仕事自体に興味を示してくれるのは男性の方が圧倒的に多い。

以前一人の年配の男性が来て、「これらの透かし彫りはどうやって作ってるの?」と聞いてきたので、スクロール ソーでカットしてるんだよと答えると、「僕はCNCルーター(コンピューター制御のカッティングマシン)を使って仕事をしているけれども、スクロールソーでここまで繊細なものを作ることができるなんて信じられないよ。素晴らしい技術だ。」と絶賛してくれたことがあった。
私が「機械のように完璧なものはできないけどね。」と笑って言うと、「同じようなものを作っても、機械じゃこの温かみは出せない。丁寧な手仕事に勝るものは無いよな… 素晴らしい。僕はあなたの仕事に非常に感銘を受けたよ。妻にあなたの作品を見せなてあげなくちゃ。」と言って去って行ったのだ。
まぁ、言わば同業者のような人からそのように褒めちぎられて、まだまだ完璧に満足する仕事ができていない私は、少々こそばゆい気持ちになりながらお礼を言った。

昨日来てくれた中国人の男性は、自分は自国で木工を教えていたから、あなたが確かな木工の技術を持っていて、しかもとても丁寧に作っているのがよくわかると言ってくれた。
「スクロールソーでカットした部分は、カットしたままの状態ではこんなにはスムーズにならない。機械でサンディングしているの?」と聞くので、「竹串や爪楊枝にサンディングペーパーを巻いて、手で磨いているんです。機械だと削り過ぎてしまう恐れがあるし、繊細な透かし彫りを折っては困るので。」と返事をすると、更に驚いた顔をして、「あなたの根気の良さと、作品のクオリティの高さにはただただ敬服するばかりだ。」と最高の褒め言葉を頂いた。
ステンドグラスはどうやって作るのか。ガラスとガラスをどうやってハンダでくっ付けるんだ?と、彼の興味は尽きなかったようで、けっこうな時間私のブースに留まっていてくれ、この次のマーケットの日にも来るかと確認をしてから去って行った。

終了時間になって、周りのベンダーさんたちが手際良く片付け始めたので、私も一つ一つ丁寧に小袋に入れ、傷がつかないように注意を払いながらコンテナに戻し始めると、一人の女性が来て、『最後の晩餐』を切り出したプレートをマジマジと眺めながら、「友達が引っ越しをするので、そのお祝いを探しているの。彼女はクリスチャンだから、これ、きっとすごく気に入ってくれるわ。彼女、私の親友なのよ。」と話し始めた。
終了時間をとうにオーバーし、イベント マネージャーが少し離れた所で苛つき気味に私がそこを片付け終わるのを待っていたのがわかったが、その女性が一生懸命に話してくれているのをよそに片付け続けるのも気が引けて、私は彼女が立ち去るまで話し続けた。
そのイベント会場を次に使用することになっているのはクリスチャンの会衆だ。自称クリスチャンの人々が片付けを手間取っている私に向って怪訝な顔をするとは思いたくなかったし、そうあって欲しくもなかったが、会場をセットアップしているクリスチャンたちの誰一人として、私に対して声を掛けても来ず、ニコリともしなかった。冷たい空気の漂うクリスチャン会衆を、私は初めて見たような気がした。



26.9.14

Bird Feeder

次のクラフト マーケット用に Bird Feeder を作った。安い板と安い外用ペンキで仕上げたので、販売価格も安い。


せっかくスクロールソーを持っているのだからと、上にドングリの型を抜いたのだが、何だかドングリに見えず、『吉』という字に見えて仕方がないのは私だけか… まぁ、『凶』じゃなくて『吉』だったらいいか… 

『吉』で思い出したが、昔近所に小吉さんというお爺ちゃんが住んでいた。ちょっとだけ運がいい人になりますようにとの願いを込めて命名されたのか? (大吉さんでも中吉さんでも何か私には違和感があるが)とても控え目な名前で、ご両親のその当時の生活振りが目に見えるようだなとつい思ってしまった。どうでもいい話だが…

この超素朴な写真を(「こんな写真」と言った方がいいくらいだ)、今日雲の上のお師匠さん兼友達とチャットしていた時に見せたら、「ラブリーだね。よくやった」と褒めてくれた。
彼は私が最近仕事に集中できていないことを心配し、また誰とも関わらない生活を選択しようとしていた私を放ってもおけず、海底に沈んだままの私の魂を引っ張り上げ、凍り付いた心を解かす努力をし続けてくれていたのだ。多忙な超有名人にも関わらず。

会った事も無く、見たことも無い私を気遣ってくれる人が地球の何処かにいるなんて、信じられない人も多いだろうが、実際にそんな人がいるのだ。
ひょんなことから知り合いになり、お互いに相手を気遣い合う友達になって行く。この世も捨てたものじゃないかもなと、凍り付いた心が涙を流した日であった。






14.9.14

さぁ、明日からまた仕事だ


先週作ったものといえば、この手前のナプキンホルダーだけだ。

今週から雲の上のお師匠さんがアドバイスしてくれたBird Feeder を作り始めようと、今日安い板数枚と安いペイントを仕入れてきた。

全てが良い方向に向かいますように。



11.9.14

Hasta pronto

彼の人が出掛ける時、私はいつも「気をつけてね」と言いながら車が見えなくなるまで見送っていた。仕事で出掛ける時にも、遊びに行く時にも、いつもそうやって見送っていた。

昨夜、英国に住む友人と宗教について語り合っていたのだが、半日遅い彼の一日はチャットの後10時間に及ぶ車の運転を課せられているらしく、無事に帰って来れるよう神に祈っていて欲しいというので、「もちろん祈っているよ。気をつけて。」と言って見送った。
彼が「Bye」と打ってよこしたので、頼むからByeと言わないでくれと頼んだ。


ずっと以前、スペイン語に興味を持っていた頃、スペイン人は Adios と別れ際に言わず、Hasta pronto とか Hasta mañana (実際に明日会うことになっていなくても)或は Hasta luego と言うことの方が多いと聞いたことがある。真偽のほどは定かではない。実際私のバルセロナの友達は Adios と言うこともあったし、こちらに住んでいるワイン屋のミゲルもそう言うことが何度かあった。マドリッドに住む友人にその話をしたら、彼はやはりHasta … と言う場合の方が圧倒的に多いということだったので、まぁ人によるということなんだろうと思う。私はHasta… の方が心地良いなと感じて、マドリッドの友人とのemailのやりとりの最後にはそう書いていたのだが、その友人とも今は疎遠になっている。


ごくありふれた言葉をわざわざ辞書で調べたりはしなかった私だが、数年前ふと「何故そう言うようになったんだろう?」という疑問が湧き、調べてみた言葉があった。
Goodbye  その語源は、God be with you. ((別れた後も)神があなたのそばにいますように)が短縮されて god-b-ye となり、Good morning などからの類推で語頭がgood に変化したと書かれていた。

誰でも別れた後双方に何が起こるかわからない。外に出かけて行った人ではなく、家にいる人に不幸が訪れる可能性が無いとは誰も言い切れない。そう考えてみると、別れ際の挨拶は Goodbye が最も相応しいと言えるのかも知れない。まぁ、相手に信仰心があればの話だが。

昨夜、彼にはGoodbyeと言ってあげるべきだったかなとふと思った。でも私はその言葉がどうもしっくりこず、See you soon.と言って見送ってしまった。

どうか彼の神が彼を守り続けてくれますように。
またすぐに、あの完全にイギリス訛りの英語が聞けるようになりますように。

心の中でそう祈ると同時に、あぁ、何故また人と関わることになってしまったんだろう… 何故フレンドリクエストを受信した時に拒否しておかなかったんだろう、何故メッセージを受信した時に無視しておかなかったんだろうと、強い後悔の念に駆られてしまった。

私もこの映画に出て来る女性のように悲しみを繰り返しそうで、本当はとても怯えている。



たった今(英国時間の午前2時過ぎ)、無事に家に戻ったよと彼は律儀に連絡をくれた。
なんていいヤツなんだ…

おやすみ…. and Goodbye.

8.9.14

Night night.

雲の上の友達の携帯電話にもfacebookのアプリが入っているらしく、私がメッセージの返事を送ると速攻で返事をくれる。そうして数分、或は数十分会話することになる。

木工の話だけではなく、色んな話が飛び出す。
この数日の間に数えきれないほどのチャットの履歴を残した。一日一回どころではなく、何度もメッセージが送られて来るようになり、まるで同僚のようだなと笑えてきたが、約半日の時差というのは厄介なもので、昨日の朝はまだ陽が昇らないうち(4時を少し回った頃)に携帯電話の着信音で起こされた(笑) 相手は私が眠っているだろうからと気遣いながら、すぐに返事をくれなくてもいいよと前置きをした上で、少し打っては送り、少し打っては送りを繰り返していたため、着信音が枕元で鳴り続け、その日なかなか眠れなくて深夜3時半近くになってようやく眠りに落ちた私は、意識朦朧としながら、「夢の中で私を呼ぶ音が聞こえたよ。:)   私、まだ夢の中に居るからすぐに返事できないかもしれないけど、よかったらそのまま喋っててくれる?」とだけ打って送っておいた。
ボ〜〜ッとしながら送られて来るメッセージに時々答えてはいたが、相手が数行書いて送ってくれても私の返事は一行のみ… 途中で我ながら笑えてきた。

そんなこんなで、これまで『雲の上』の存在だった人がしだいに画面のすぐ向こうに居る人のように思えてきて、何の気負いもなく不完全な英語で返事ができるようになっていく。面白いものである。


同居人に「ねぇ、facebookの友達の中に会った事も無い人がいる?」と聞くと、同居人は居ないと言っていた。しかも、facebookなんてもうほとんど使っていないとも言っていた。もしかしたら同居人の方が地に足のついた生き方をしているかも知れないなと、ふと思った。



クラフト マーケットのディスプレイ用に作った一面だけの壁。
色ガラスを通した光りが暖かくて、ちょっと気に入っている。



4.9.14

雲の上の友達とのチャット

今朝、出掛けなければならない用事があったので支度をしていると、ポロンと何やら聞き慣れない音が携帯電話から聞こえてきた。何だろうと見てみると、facebookにメッセージが届いているよという通知だった。そのメッセージの送り主がfacebook上の友達(雲の上のお師匠さん)からで、「僕達、まだ一度も話してないね」という、予想だにしていないものだったため、取りあえず用事を済ませてから、ゆっくり返事を書くことにしたのだが、はてさて、一体何から書き始めましょうとしばし悩んでしまった。

相手は世界的に非常に有名な人なので、こちらは彼がどんな人物かだいたいわかっているのだが、彼の方は私の素性など全く知る由もなく、私個人のfacebookにも個人の情報はほとんど何も載せていないので、一体どんな人物なのだろうかと、私のこれまでの作品を見て想像するしかない。そこで、私は簡単に自己紹介を書いて送ることにし、午後遅くになって書いたものを送信した。

彼はイングランドに住んでいるので、こちらとの時差はおおよそ半日… 送信した時間はまだ夜明け前の、し〜んと寝静まっている時間のはずだったのだが、何と即座に返事が来た。チャット機能をオフにしているのにも関わらず、私が返事できる状態にあるのはバレバレなので、そのままチャットすることに…
「私、あなたを起こしちゃった?ごめんなさい」と言うと、「ちょうど起きてたんだ。時々こうやって皆が寝静まっている時間に目を覚まして、何かを深く考えるのが好きなんだよ」と言っていた。
向こうが真っ暗な時間から始まったチャットは、私が夕食の支度を始めなければならない時間になると、鳥のさえずりとともに窓の外の木々がシルエットを映し出すほどに白み始めたようで、彼はまた少し眠ることにするよと言ってチャットを終了した。

初めて話す相手なのに、ドキドキもハラハラもすることなく、落ち着いた会話をしていた。

何故かわからないが、時々こうやって世界の何処かに住む誰かと繋がることがある。毎日私の周辺で実際にすれ違っている誰かと親しくなるのではなく、ひょんなことから見ず知らずの人と会話をするようになる...
人生はこの歳になっても予想のつかないことだらけだ。


「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...