24.12.14

『いささか先生』的存在

11年ほど前、こちらの語学学校で一緒になった日本人の青年から、私はサザエさんで例えるといささか先生の存在のようだと言われたことがある。

その青年は『○○○ファミリー』と呼ばれているグループに属していて、そこには日本、タイ、台湾、韓国などから来た留学生が入っており、その人たちは常に行動を共にし、積極的に連絡を取りあい、頻繁に旅行にも出掛けていたというのを知ったのは、たまたま呼ばれた食事会でだった。(それまで、そんなグループがあったことすら私は知らなかった)
私はそのグループの何人かとよく話もし、仲も良かったので、食事に 呼ばれても何の違和感も無く、ごく普通のことのように認識していたが、その人たちの話す内輪話には入り込む気持ちは無く、ただの『部外者』として同席していたに過ぎないとの思いは、最後まで消えることは無かった。

『いささか先生』は、サザエさん一家の生活に入り込むことは無く、かといって存在感がないわけではなく、常に近くにはいるし、親しみがないというわけでもないのに、やはりグループの外に存在する人という認識であると、その青年は言っていた。
私は正にそのような存在で、私が何処かのグループに属する姿など想像できないと言うので、あぁ、言われてみればそうだよなと、妙に納得してしまったのを今でもはっきりと覚えている。

今日、ある人のフェイスブック・ページに、「私達は他の人を自分たちのサークルの外に配置しておきながら、自分は他の人のサークルの外に絶対に居たくないと思っている。私達は他の人の個性を変革し、自分達と一帯になるよう圧力をかけ、ただそのようにした人だけを受け入れるということをしばしばすることがある」と書かれていたのを読んで、私はこれまでの長い人生で、一度も他の人のサークルに入りたいと思ったことなど無かったな、もっと言えば、どこにも属したくないという思いの方が強かったなと、上記の『いささか先生』的存在を指摘した青年の言葉を思い出していた。
私はどこにも属していないので、誰かにプレッシャーをかけて自分たちの意に沿うよう従わせることも、プレッシャーをかけられて誰かに従わされることも無く過ごして来たのだ。いわゆる一匹狼である。

それを書いた人が、『友達、友達』と、殊更に友達を持つことの重要性を強調していたことに対し、私はずっと違和感を感じていたが、今日はっきりと、その人との相容れることのない相違点を認識したように感じ、何だかとても寂しい気持ちになった。
私達がお互いをわかり合うことは、おそらく不可能に近いだろう。


また、今日買い物に行った先で、このクリスマス直前の忙しい時期だけ店主(トルコ人)の仕事を助けに来ているパートナー(キウィ)に出会った。
私が行くと、「コンニチハ」とそのパートナーも日本語で挨拶をしてくれ、とてもフレンドリーに話し掛けて来てくれたが、彼女に会ったのは初めてだったので、私をすぐに日本人だと何故わかったのだろうかと不思議でならなかった。
彼女に聞かれて、私の仕事の話(木工)を熱心にしていたら、興味を持ったのか、今度家に遊びに来てよと誘われ、電話番号と名前を聞かれたので、emailを送ってくれてもいいよと言うと、emailはしないから、電話をすると言っていた。
店主も、「それがいい、ぜひ家においでよ」と笑顔で彼女の誘いに拍車をかけていたが、私、その人たちの家に行って一体何を話すんだ???
家に呼ばれるほど、そんなに親しい存在ではないと思うのだが… 

思いがけない誘いに非常に戸惑っている "いささか先生" を想像したら、ちょっと笑えた。




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