26.3.15

Bahir Al Bakir_"Walk From Agadir" (Best Chillout Music Series)



北アフリカにも雪が降ることを知ったのは、アルジェリアに住む青年との会話の中でだった。

国土のほとんどがサハラ砂漠に覆われ、裕福層は地中海を望む海沿いに住み、日がなテニスコートやらで暇をつぶす。
職にありつくのも困難な階級の若者達は田舎住まいで、お金が無ければ結婚もできやしないと嘆き、大人数の家族と共に質素な家で過ごすことを余儀なくされている。
解決策は… 

上に立つものが裕福層から出ているような状態では、よほどのことがない限り世の中変わりはしない。
自国で希望の光りが見えない人々は、より良い人生を送ろうと粗末な船に乗り、ある者は地中海で溺死し、ある者は海の上で捕えられ、またある者はようやくたどり着いた先で捕えられ、国に強制送還される。
事が望むものにならない可能性の方が遥かに高いとわかっていながら、そうせずにはいられない切羽詰まった感情を、もちろん政府の役人は理解できるはずがない。役人はほぼ間違いなく貧困層からは出ていないからだ。


ある時、雪の中で無邪気に遊ぶ、田舎のアルジェリアの若者達のビデオを見た。
彼らは本当に楽しそうだった。
あの純粋さや屈託の無い笑顔が、汚い野望に乗っ取られた心を持つ支配者たちの犠牲にならないようにと、私はただ祈ることしかできない。
お金も力も、何も無い部外者がいくら吠えたところで、世界は何一つ変わりはしない。


青年は、アルジェリアはとても美しい国だと言っていた。
いつかそこに行ってみたいと思った。
地中海を望む海沿いのリゾート地ではなく、静かな田舎の村に。


21.3.15

終わらないものはない

流行の曲が其処彼処で流れているのはわかる。

行く所、行く所で同じ曲を耳にすると、「売れているんだ」と、人はただ単にそう思うだけかも知れない。
だが、西洋で流行した曲が、そんな曲が流行っていそうも無い日本の寂れた田舎町で流れていたりすると、(たとえ流行の曲であっても)やけに印象深く心に焼き付き、一人心の中でつぶやいてしまう。

何故なんだ?
何故この曲が、しかも、正に自分がその場所に足を踏み入れた途端に流れ出したりするのだ...

長い人生で、幾度となく、流れてきた曲にハッとしたことがあった。

私が新しい環境に置かれることになる時には、決まって、彼の人が好きだった想い出の曲が流れていた。
ある時は仕事の面接場所で、またある時は旅の初まりのタクシーの中で…

だが、ある時を境に、彼の人を思い出させる曲が流れなくなった。

何かが変わり始めている。そう思えて仕方がない。

20.3.15

大切なのは 感覚を研ぎ澄ませること


国内のインターネット オークションで時々取引することのある業者から、中古のMoore & Wright Calipers を購入した。スクリューはどちらも大変スムーズで、使用するのに全く問題の無い中古品である。
ただ、私の性格ゆえに、少々手直しする所があった。どちらの計測器も、先端が微妙にズレていたのだ。


写真左の真っ直ぐな方は、長い方をヤスリで削り、ほぼ同じ長さにした上で、でき得る限り先端を近づけた。(まだ少々間が開いているが、使用する上でおそらく支障はないだろう)
写真右は完璧に先端が合うようになった。



数日前には父の使っていた小刀を研ぎ直した。
この持ち手も鞘も父が作った物だと思うのだが、形が合っていないので、両方を同時期に作ったとは思えない。もしかしたら、鞘はこの小刀用に作られた物ではなかったのではなかろうかとも思えた。
これは刃の部分だけを研ぎ直し、他の部分はそのままにしておいた。

小刀は若い頃使った記憶があるが、今この歳になって改めて使ってみると、非常に使い勝手の良い道具であることがよくわかった。実に小回りの利く、程よい大きさの刃物である。




最近は父の道具類に慣れる為に、ただただ板を削る練習ばかりしている。
日本の引いて削る鉋は、使い慣れた西洋の押すタイプの物に比べると、平面を均し易いように感じるが、ただ、西洋鉋のようにしっかりとした持ち手が付いているわけではないので、特に左手をどう添えたら最もしっくりくるのかがまだつかめていない状態である。
右手(利き腕)も、イマイチしっくり来ていないので、もう少し練習が必要だ。


この父の鉋の刃はまだ研いでいない。
研がなくとも、いまだ充分鋭い刃先であるということもあるが、研げばもっともっと繊細な仕事ができるだろうことはわかっていながらも、そうしたくないのは、父の存在を少しでも消すこと無く残しておきたいという思いが強く残っているからで、父の手先の感覚を、正に『感覚』で覚えようと、神経を集中させているところである。

ちなみに、父が入院中、皆で父の手の隣りに各々の手を並べ、見比べてみたら、私の手は少々ふっくらしてはいるものの、父の手の形にそっくりで驚いた。

私が(産まれながらに)父の跡を継ぐことになっていたのかも知れないと、ふと思った瞬間であった。


もう我慢しなくていいんだ...

今回の帰省では、かつて無いほど姉とよく話をした。

今年還暦を迎える姉は、傍目にはまだまだ若く見えるのだが、自分ではかなり歳を取ったと感じているらしく、「この2年ですっかり老けた」と言っていた。

そんな姉の発した言葉がずっと頭にこびりついて離れない。

「もうこの歳になったら我慢なんてしなくていいんだよ」


そうか、もう我慢しなくていいんだ...と思ったら、急に肩の荷が下りた感じがした。


先日苺売りの Mr.ダンディー  :) と話をしていた時に、彼も同じ意味合いのことを言っていた。
私達はけっこうな歳になっていて、しかも、先のことを案じて暮らす必要などないと思っている。いつお迎えが来ても受け入れる準備が既にできているという点で同じなのだ。

こんな取り繕うこと無い会話ができる歳になったことを、何だかとても嬉しく思った。




14.3.15

工具の手入

日本から持ち帰った父の形見の工具類は、長い間使われていなかったため錆が出始めていた。

工具の手入をするのは楽しい。
これまでも中古で買った工具類の錆を落とし、研ぎ直し、満足に使える状態に仕上げてきたが、父の工具類は錆び始めてはいたものの、さすがに刃先はまだ鋭く、研ぎ直さなくてもそのままで充分使えるものが多かった。



この小さなハサミは、ひどく錆びていたが、切れ味は良く、まだ刃を研ぎ直すほどではなかったため、錆を落とすだけでよしとしておいた。刃の噛み合わせも良好だった。


このノミは、父にしては珍しく一部刃がこぼれたままで仕舞われていたため、カットしたガラスの断面を研磨するために使っているグラインダーで刃先を1mm程度削り落とし、その後砥石で丁寧に研いで仕上げた。
右に立てたナイフの刃が鏡面仕上げしたノミに写っているのがわかるだろうか?ここまで磨くと切れ味はけっこう長持ちする。

私はこれまでこのような小型のノミを持っていなかったのだが、使ってみると、細かな作業にはすこぶる使い勝手が良く、研いだ後何時間も飽きること無く、木の端切れを削り、手に馴染むよう練習をしていた。

父から譲り受けた日本の工具の数々と、私が買い集めた西洋の中古工具類を使いこなして、いつか、私も素晴らしく美しい木工品を作れたらいいなと、そんなことを考えていた。


12.3.15

夏も終わりに近付いたある日の出来事

NZ帰国後1週間以上に渡って、毎回々切羽詰まって片付けをしている夢で起きるようになってしまっていた。およそ12年前の3月にこちらに引っ越して来た直後と全く同じだった。

最近は少しマシになり、寝起きがどんより曇っている状態からは脱したように思うが、今度は日本に居る間に首の後ろにできた湿疹が日に日に悪化し、強い痒みに絶えきれず、GP(家庭医)の受診を余儀なくされた。
GPにかかるのはおよそ1年半振りで、これまで何年にも渡って高血圧の治療をそこで受けていたのだが、体重の減少とともに高血圧が嘘のように治ってしまい、薬も飲まなくなって久しい旨を伝えると、非常に喜んでくれ、その後、今回の皮膚疾患を診てもらったのだが、湿疹は強いストレスが原因であることも珍しくはなく、今回の父の看病から葬式までのことを話すと、おそらくストレスが症状を悪化させたかもしれないねと、ねぎらいの言葉をかけてもくれた。とても優しいインド人のドクターである。

GPに行くと必ず処方してもらう鎮痛剤は、まぁ言うならば常備薬のようなもので、薬局でも同じものを買えるのだが、処方箋で買った方が断然安上がりだからと、ドクターが沢山処方してくれたため、何と300錠もの鎮痛剤がたったのNZ$5.00(日本円にして約450円弱)という値段で買えた。

ステロイド系の塗り薬はすぐに痒みを止めてくれ、非常に楽になったため、家に戻り、今度は歩いてネスプレッソのカプセルを買いに出掛けた。
日本に居る間に痛めてしまった膝の関節は最近になって痛みも無くなり、行って帰って来れるかなと少し心配ではあったが、若干痛みはしたものの、何とか家に帰り着くことができてほっとした。

また今日は、近所の公園に来ている苺売りのトルコ人の所にも寄り、珍しくお客が居なかったため、長いこと話し込んでしまった。
色々なことを話した。父のこと、日本のこと、仕事のこと…
彼はあと半月もすると今年の苺の販売を終了し、冬の間はその公園には来ない。
次の夏には、私はどんなニュースを彼に伝えることができるだろうか…


昨日、仕事用のFacebook pageを閉じ、個人用のfacebookアカウントも消した。
元々そういう類いのものには全く興味も無く、仕事だと割り切って仕方なしに続けていたものであったことに加え、ここに来て自分のスタジオ名がこれからの仕事にそぐわない気がしてきていたため、若干後ろ髪を引かれはしたが、心を鬼にして削除してしまった。
そのことによって、ある人の心から私の存在は徐々に薄れ、私たちはまたその内に知らない者同士に戻るだろうことも受け入れた上で。



9.3.15

感覚の鋭さ

数年前、ある億万長者の家庭で優雅な生活を送る奥方と話をする機会があった。
海外生活で言葉に不自由は無いのかと聞かれ、まだまだ言いたいことの半分も言えないと答えると、「あ〜そうなんだ〜。まだそんなに喋れないのね。」と勝ち誇ったような、満足そうな笑顔で反応が帰って来た。一般的には、それでも海外で何年も暮らしているのだから、それなりに困らない程度の会話はできているのだろうと相手を持ち上げる会話に発展するものだと思い込んでいたが、そのような思い込みを粉々に打ち砕いてくれる人も居るんだと、私は新鮮な驚きを経験し、ちょっと笑えた。

あ〜、この人は、相手の言いたいことがどれほどのレベルの語学力を必要としているかを推し測ることなど、おそらく無いのだろうな… この歳になっても相手の気持ちを思いやることなく暮らして来れたというのは、ある意味すごいことだなと、私は反論する気も失せ、彼女の口から出て来る無作法極まりない言葉の数々を、ただただ呆気にとられて聞いていた。
ちなみに、億万長者の奥方に納まる前は、学校の先生をしていたというから、驚きである。このような性格の先生に受け持たれた子供達は本当に気の毒だったなと、心の底から憐れみを感じてしまった。

こちらに来て知り合いになった日本人女性の一人は、正に才女と言うに相応しく、国連の機関で働いた後も、こちらの国の機関で働くような、トップレベルの人物であったが、物腰は驚くほど低く、自分はまだまだ『ネイティブの仕事を処理するスピード』には敵わないと感じていると話してくれたことがあった。
誰が見ても、彼女が仕事ができない人であろうはずはなく、そこいらのネイティブ以上に頭脳明晰であろうことは疑いの余地がなかったが、彼女自身が満足できるレベルというのが恐ろしく高いものであるが故に、そのような自己分析の言葉が出てしまうのだというのがよく理解できた。穏やかなとても良い人だった。


人々の感覚の違いというものは計り知れなく大きいということを理解することができない人は、他人の言葉を自分の極々限られた識別力に照らし合わせ、自分の中でいとも簡単に完結してしまい、またその浅はかな認識に基づいて誰かれ構わず吹聴して回るふしがある。また、そのような人に限って非常に社交的で、あっけらかんと物事の表面だけをさも一大事であるかのように大げさに脚色し、周囲からの軽薄な賛同を得ると、自分があたかも人気者であるかのように錯覚しがちであるように思えてならない。

何と愚かなことか…

そのような人間がのうのうと人生を謳歌し、何食わぬ顔で害になる事柄を行い続け、楽に生きて行けるこの世の中… そんな世の中にあって、寡黙で、明らかにこの世に馴染んでいそうもない人を見ると、とてもホッとした気持ちになる。




3.3.15

父の代わりに包丁を研ぐ

日本滞在1ヶ月…

今回の帰省中にしなければならないことが幾つかあった。
その内の一つに、実家に預けっ放しになっていた我家の想い出の品々を処分するという作業があり、月の半分はそれに没頭せざるを得なかった。
実家の薄暗い物置小屋に置かせてもらっていた荷物の内、こちらに送らないものについては一つ一つ写真に収めてゆき、家族の想い出の品は本人に確認をとった上で要る物と要らない物を仕分けて行った。
経営していた会社の書類は保存を要する期間を越えていたため、全て処分することができたが、その量は膨大であったため、保存していた幾つかのケースを空にするのにかなりの時間を要した。
亡き人の想い出の品はやはり捨てることはできず、ほとんどをこちらに送ることとなったが、私個人のものは日記も含めほぼ全てをゴミとして捨ててきた。

家族5人の想い出の品々は、私が抱えて運べる最大限の大きさの段ボール箱2つに何とか収めることはできたものの、重量はかなりあったため、格安のSAL便を使ってこちらに送るのに4万円弱かかってしまった。痛い出費ではあったが、他人には完全にゴミとしか映らないだろう想い出がいっぱい詰まった品々を捨てることができなかったのは、『安住の拠り所(実家)』を子供達に提供してあげることのできない親としての不甲斐なさを心から申しわけなく思い、せめてわずかばかりでも郷愁に浸れる物を取っておいてあげたかったからに他ならない。


父の遺品である鋸、鉋、鑿、錐などの工具類はスーツケースに詰め持ち帰った。
空港でスーツケースを開けられること無く、すんなり出入国できたのは有り難かったが、開けられ、質問を受けるのを想定していたので、肩すかしを食ったような気分だった。
現金の持ち出し/持ち込みに関しては、税関に馬鹿正直に申告した後、関税がかかるのかとオフィサーに聞くと、日本/NZのどちらの税関でもかからないというので安堵した。
金銭については、その出所を明確に説明できれば何ら問題はないが、英語での受け答えと英文書類への記入ができることを前提にしているため、自信のない人は質問に適当に答えたりせず、まず先に日本語を話せるスタッフを呼んでくれるよう頼むべきである。スタッフを探すのに時間がかかりはしても、イイカゲンな受け答えで不審を抱かせ、懲役刑或は罰金を課されることを思えば待つ時間など短いものである。
ここNZは特に『正直は最善の方策』な国なので、食料品にしても木工品にしても、携行しているもの全てに関して嘘偽り無く申告するべきであることをここに付け加えておく。


NZ帰国日の一昨日は疲れで何もできず、昨日になっても何もできず…
昨日午後になってようやく、父から譲り受けた工具類をスタジオに持って行き、取りあえず鋸の切れ味を試してみると、何年も使っていなかったであろうはずなのに、信じられないほどシャープに研がれた刃はいまだ健在で、驚くほど綺麗な切り口に感動せずにはいられなかった。
改めて父親の偉大さを実感した瞬間であった。


日本への置き土産は、日常使う包丁を研いでおいたことくらいだろうか…
父の使っていたすり減った砥石を使い、丁寧に丁寧に研いではきたが、父の研いだものほど切れ味は長持ちしないに違いない。それでも姉は鶏肉までもがスッと切れると喜んでくれていた。

この先、これまでのスタジオ名を引き続き掲げて仕事をしようかどうしようかと考えている。
おそらく、私の仕事はこれまでとは違ったものになっていくだろう。


「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...