9.3.15

感覚の鋭さ

数年前、ある億万長者の家庭で優雅な生活を送る奥方と話をする機会があった。
海外生活で言葉に不自由は無いのかと聞かれ、まだまだ言いたいことの半分も言えないと答えると、「あ〜そうなんだ〜。まだそんなに喋れないのね。」と勝ち誇ったような、満足そうな笑顔で反応が帰って来た。一般的には、それでも海外で何年も暮らしているのだから、それなりに困らない程度の会話はできているのだろうと相手を持ち上げる会話に発展するものだと思い込んでいたが、そのような思い込みを粉々に打ち砕いてくれる人も居るんだと、私は新鮮な驚きを経験し、ちょっと笑えた。

あ〜、この人は、相手の言いたいことがどれほどのレベルの語学力を必要としているかを推し測ることなど、おそらく無いのだろうな… この歳になっても相手の気持ちを思いやることなく暮らして来れたというのは、ある意味すごいことだなと、私は反論する気も失せ、彼女の口から出て来る無作法極まりない言葉の数々を、ただただ呆気にとられて聞いていた。
ちなみに、億万長者の奥方に納まる前は、学校の先生をしていたというから、驚きである。このような性格の先生に受け持たれた子供達は本当に気の毒だったなと、心の底から憐れみを感じてしまった。

こちらに来て知り合いになった日本人女性の一人は、正に才女と言うに相応しく、国連の機関で働いた後も、こちらの国の機関で働くような、トップレベルの人物であったが、物腰は驚くほど低く、自分はまだまだ『ネイティブの仕事を処理するスピード』には敵わないと感じていると話してくれたことがあった。
誰が見ても、彼女が仕事ができない人であろうはずはなく、そこいらのネイティブ以上に頭脳明晰であろうことは疑いの余地がなかったが、彼女自身が満足できるレベルというのが恐ろしく高いものであるが故に、そのような自己分析の言葉が出てしまうのだというのがよく理解できた。穏やかなとても良い人だった。


人々の感覚の違いというものは計り知れなく大きいということを理解することができない人は、他人の言葉を自分の極々限られた識別力に照らし合わせ、自分の中でいとも簡単に完結してしまい、またその浅はかな認識に基づいて誰かれ構わず吹聴して回るふしがある。また、そのような人に限って非常に社交的で、あっけらかんと物事の表面だけをさも一大事であるかのように大げさに脚色し、周囲からの軽薄な賛同を得ると、自分があたかも人気者であるかのように錯覚しがちであるように思えてならない。

何と愚かなことか…

そのような人間がのうのうと人生を謳歌し、何食わぬ顔で害になる事柄を行い続け、楽に生きて行けるこの世の中… そんな世の中にあって、寡黙で、明らかにこの世に馴染んでいそうもない人を見ると、とてもホッとした気持ちになる。




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