26.3.19

組子細工ブーム

最近、世界中の多くの木工愛好者が日本の『組子』を好んで作っているのを目にすることが多くなった。

日本の組子に惚れ込み、組子を製作するための治具を作って売ることになったある木工界で有名な人は、売り出した途端に売り切れという大盛況ぶりに驚いているようだった。私なんぞは、治具くらい自分で作ったらどうだ?と訝しく思ってしまうのだが、組子という非常に繊細で手間暇のかかる細工をしようと "あえて" 試みる人々の多くが、少しでも楽をしようと、自分で簡単に作れる治具さえ、高いお金を出して買っていることに、どうしても違和感を拭い去れないのは、私だけであろうか?

私は "流行り物" というヤツがどうも好きにはなれず、以前から興味があった組子ではあるが、猫も杓子も作っているのを目にして、作る気が完全に失せてしまった。

ブーム に乗りたくない。端的にいえば、流行に翻弄される/左右されることを浅はかだと感じてしまう傾向にある私は、やはり変わり者と言わざるを得ないのだろうが、他の人々と同じことをして楽しいか??という、悪く言えば "ひねくれた" 感覚を持ち合わせていなければ、独創性のある物作りはできないではないかと、どうしても思ってしまう。

そんなことを考えていたら、木工では世界的に非常にポピュラーになってきた雲の上のお師匠さんをフォローする気も、何だか薄らいできてしまった。
もちろん、お師匠さんは流行りの "kumiko" を間違っても作ったりはしないだろうが...

彼は最近、一般人が真似できないと感じるような秀でた家具を作っていない。おそらく忙し過ぎる所為だろうし、彼の収入源であるオンラインのコースで木工初心者から上級者までが容易に(或いは少し努力して)作ることのできるものをお題に取り上げないとならないというのは私にも理解できる。(容易にできないものばかりをカリキュラムに組み込んでいたら、受講する人などいなくなってしまうだろうから)
だが、自分が師と仰ぐ人が、自分でも作れると思えるような物ばかり作っていたら、"師" ではなくなってしまうのは当然のことで、既に披露した技術を繰り返し繰り返し見せ、同じことを何度も何度も言い続けていたら、ネタは既に尽きているという印象を世間に与えることになり、その内に信奉者の興味も失せることになるだろう。

私よりも7歳も年上なのに、毎日忙しく働き続けている雲の上のお師匠さん...

彼の理念を廃れさせないようにとサポートし、今のビジネス展開を支える息子とスタッフは、彼が表舞台に出られなくなった時、彼の志を引き継ぎビジネスを続けるのだろうか?
確かに息子は手先の器用さに於いては誰にも引けをとらないかもしれないが、"カリスマ性" という点についていえば、雲の上のお師匠さんには敵わないように思えて仕方がない。
しかも、息子が大学で専攻した分野は木工とは違うものであると聞いている。
彼の息子は、父親があれほどまでに有名でなかったら、果たして木工業界に居ただろうか?
そんなことを私は時々考える。

私は彼の人の仕事を子供達に継がせることを考えなかった。
子供達には子供達の人生があり、自分に合った職業に就くのが一番良いと思っていたからだ。
雲の上のお師匠さんも、おそらくその点を深く考えたに違いなく、そして今ある結論に達したということなのだろうが、私には、それが何故だか不自然な姿に見えて仕方がない。


全てのものには限りがある。
どんなに栄華を極めた人や集団にも、確実にその終わりが来るのだということを私たちは知っている。だが、それを知らない人であるかのように、人々は走り続けるのだ。


雲の上のお師匠さんが表舞台から消える時、私は何をし、何を思っているのだろうか...



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