23.3.24

(多分最後の)運転免許更新

 昨日、おそらく私の人生において最後の運転免許更新となるだろう手続きを、無事済ませることができた。

ここ数年は、既に滅多に車を運転することがなくなっていて、もう免許証も要らないかなと思い始めていたのだが、それでも万が一の時のために持っていたほうがいいかも知れないと、更新に行って来たというわけだ。そこまで行くのにも、自分で運転して行ったわけではなく、同居人 T が運転して連れて行ってくれるという、いつものパターンに変わりはなかった。

車で20分ほどの場所にある AA 営業所に入ると、多くの客が居て、皆が発している言語が英語のようなそうではないような、一種異様な、雑然とした印象を受けた。(他国籍の者がほとんどだったためだろう)

運転免許関係の手続き窓口は 2 つあるのに、一つしか開いておらず、一人しかいない窓口の職員は何十分も一人の客に対応していて一向に埒があかず、それを見るにみかねたのか、別の部署に居た人が気転を効かせて私の要件を尋ねに来てくれ、彼のデスクに案内してくれた上で手続きをしてくれた。

これまでの運転免許証を出し、更新手続き代金 $22.60(¥2,000 ちょっと*65 才以下は $ 32.40)を支払うと、視力検査。非常に古い機械にしか見えない視力検査機械を覗くと、左には上から 1,2,3,4... と縦に数字が書かれていて、その右には 3 つに区切られた枠に幾つかのアルファベットがそれぞれ並んでいた。職員に「1 番の横の文字を読んで」と言われたが、かすんでよく見えず、困ったなと思っていたら、丁寧に絵を描いて、「1 番の右隣にこういう風に 3 つに区切られたスペースがあって、その中にそれぞれアルファベットが書かれているから、それを左から続けて読んでくれればいいよ」と優しく教えてくれたものの、1 番には 3 つに区切られた内の 2 つにしか字が書いてないようにしか見えなかった私は、少々焦り、見る角度を変えたりなんぞして、ようやく全部が見えるようになりホッとした。見る角度によってまるで見え方が違ってしまう機械だということを発見して、無事に視力検査をパスしたかと思いきや、次に、光の点滅がどちらかを聞かれ、「光の点滅なんて全く見えませんが...」と機械からおでこを離した瞬間、レンズを透して光るのが見えるのではなく、機械の両内側が光るんだということを理解し、若干おでこを離した状態で点滅試験も難なくパス。


私のコンタクトレンズはもう 8 年以上も前に作ったものなので、視力検査をパスできるかどうかだけが心配だったが、何とかパスできて本当に良かったと安堵した。

視力検査の後、写真撮影。そして、古い免許証は返納するため、免許証が郵送されて来るまでの間有効な運転免許証明書を書いてもらい、無事更新手続きは終了。

帰りの車の中で、T と視力検査の話をし、 T も少し前更新に行った際、おでこをつけていたら絶対に見えない場所で光が点滅することに一瞬戸惑ったことやら、画面の解像度が恐ろしく低くて、何十年も昔の機械を使い続けているに違いないと、二人して大笑いして帰路に着いた。

視力検査で焦ったものの、今回は非常に丁寧な職員に当たって、私はラッキーだったなと思った。


NZ では 75 才及び 80 才になると運転免許更新時に医師の健康診断書を添えて提出しなくてはならなくなる。健康診断をした医師の判断によっては、30 分のオン - ロード セイフティ テストを受けなければならない場合もあるらしい。そして、免許の有効期限は 2 〜 5 年に短縮されるとのことで、80 才になった後は 2 年毎の更新が義務付けられているようだ。毎回更新の際に健康診断書を提出しなければならなく、診断書にかかる費用は自分持ち。だが、免許更新手数料は年が多くなるに従って安くなると書いてあった。

日本では多くの高齢ドライバーが事故を起こすケースが頻繁に報道されているが、歳をとって反射神経やら判断力やらの衰えを実感するようになると、高齢者の免許更新は厳しくあって然るべきだと思わざるを得ない。

70 年も 80 年も何事もなく平穏に過ごして来た人が、たった一度の運転ミスでその一生を台無しにしてしまうのだということを、もっと肝に銘じて生活するべきである。


私は元々運転するのが好きではなかったので、行き慣れた場所でさえも率先して運転して行く気にはならなくなった。
幸いにもフリーランサーの T が、出かけたい時には一緒に行ってくれるので、出かけるのに全く困っていないということも大きな理由だが、公共交通機関が無料で利用できるようになっているのだから、少々時間がかかろうが、それらを利用するのが得策である。

75 才からの更新手続きは面倒になってくることを考えると、私の場合、十中八九今回が最後の更新ということになるだろう。

こうやって、一つ一つ、人生に於いて終わりを迎える事柄が増えて行き、最期には何もできない人になって、本当の終わりを迎えることになるのだ。

人は何のために生まれて来たのだろうかと、疑問を抱かずにはいられない。






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