30.8.12

持続力無し

朝目が覚めて、コーランの41,42章(と言うのか?)を読んだ。書かれていることの意味を深く考え、いつもしているように、はっきりさせたいと感じた項目を書き出した。いつか誰かに質問する機会もあろう。

その後は何をしていても集中できず...

子供服の布の裁断を始めても、一着裁断し終わる前に一休み。コーヒーを飲みながら本を読んだり、ネットで探しものをしたり、コーランの続きを読んでみたり... そしてまた布を裁断し始めるも、二着目の途中で集中力が切れ、今日の仕事は中途半端に終了。
明らかに落ち着きが無くなっている。


さて、夕食は何にしよう...

昨日はスパニッシュ(風?)白身魚と野菜のグリルがメインだったから、今日は肉料理かな...



28.8.12

ya rayeh

ある一人の青年と話をした。アラビック、フレンチ、英語を交えて。

見るからに聡明そうなその青年は、私が iPhone に入れて毎日のように聴いている(彼の故郷では最も有名であろう歌手の)曲を聴かせると、「この曲を聴いてみて」と、ちぎったメモ用紙に走り書きして渡してくれた。


これまでに幾度となく耳にしたことのある曲だったが、これまでは特に歌詞の意味を調べてみることも無かった。

その日、青年がどんな曲なのかを手短に説明してくれたので、家に戻って、どこかに歌詞と英語の翻訳が載っていないかと探し、ようやく、彼が言わんとしていることが見えたような気がした。

「コーランを読んだことある?」と聞かれたので、読んでいるところだと答えると、YouTubeで聴くといいよと言って名前を書いてくれたが、私は聴いても意味が分からない。私はアラビックから翻訳された英語と、それに加えてあまり正確ではないように思える日本語の翻訳を参考程度に横に並べて読んでいるのだ。

「意味が分からなくても、聴いているだけで心が落ち着くから」というので、そうかな?と思ってしばらく聴いてみたが... 何を喋っているのかわからないものを心地よいと感じることは、私には無理だと悟っただけだった。

不倫の歌を意味もわからず好きで歌っていた同居人のようにはなれない(笑)

私は歳をとって用心深くなり過ぎたのか、深く考え過ぎる性格が邪魔をしているのか、まぁ、どちらにしても、納得のできない段階で夢中になるという時期は、もうとうの昔に通り過ぎてしまっていることだけは確かだなと思いつつ、コーランを引き続きのんびりではあるが、じっくり、しっかり読んでいる。毎日ではなく、精神をそれに集中できる時だけ。



24.8.12

老人ホーム考

Albert Camus は著書『異邦人 The Stranger or The Outsider』の冒頭部分で、養老院のことについて触れている。
養老院で亡くなった母親の葬式に行った主人公が、養老院の院長と話をした場面だ。

彼(養老院の院長)は書類を見て、
「マダム・ムルソーは3年前にここに来られた。
あなたはそのたった一人のお身寄りでしたね」と言った。
何か私をとがめているのだと思い、事情を話し出したが、
彼は私をさえぎって、
「弁解なさることはありません。あなたのお母さんの書類を拝見しました。
あなたにはお母さんの要求をみたすことができなかったわけですね。
あの方には看護婦をつける必要があったのに、
あなたの給料はわずかでしたから。
でも結局のところ、ここにおられた方が、お母さんにもお幸せでしたろう」
「その通りです、院長さん」と私はいった。
「ここには同じ年配の方、お友だちもあったし。
そういう方たちと、古い昔の想い出ばなしをかわすこともできたし。
あなたはお若いから、あなたと一緒では、お母さんはお困りになったでしょう」
と院長は付け加えた。
それは事実だ。
家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。
養老院に来た最初の頃にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだった。
数ヶ月たつと、今度はもしママンを養老院から連れ戻したなら、泣いたろう。
これもやっぱり習慣のせいだ。
最後の年に私がほとんど養老院へ出掛けずにいたというのも、こうしたわけからだ。
それに、また日曜日をふいにすることになるし、 
     バスに乗ったり、切符を買ったり、
二時間の道のりを行くことが面倒なせいもあったのだが。
ー小説『異邦人』より抜粋ー

日本ではどうだろう。いまだに老人ホームに親を入れるということに罪悪感を抱いたり、嫌悪感を示したりするのだろうかと、ふと思った。

Kiwi はほとんどの場合、子供は高校を卒業する頃になると親元を離れる。同じ市内に住んでいるのに、親と一緒には住まず、わざわざお金を出してアパートを借りたり、友達と部屋をシェアしたり、はたまた大学に通う場合は大学の寮に入ったりするのだ。目と鼻の先に実家があって、そこで身内と暮らすことに何の制限があるわけでもないのに、ほとんどの子はそうやって自活し始める。もちろん、親からの支援など無い子の方が圧倒的に多く、大学に通う場合でも、学費は子供が自分で学生ローンを申し込み、親が全額負担するなどということは無いのだ。
そんな環境であるから、老後は老人ホームに入居するというのは極自然の流れなのかも知れない。

老人ホームで同年代の仲間達と話をしたり、食事をしたり、趣味に興じたりして過ごす方が、日中誰も居ない家でひっそりと暮らすよりも確かに楽しいかも知れないなと思った。
特に連合いを亡くしているやもめにとっては。


3.11の震災後、被災した母親が遠くに住む息子夫婦の家に身を寄せたが、間もなくして息子夫婦が自分のことで口論をするようになり、(「お母さんをいつまで世話する気なの?」なんて囁かれているのを聞いたら、私でも居たたまれなくなる)その母親は僅かな荷物をまとめて、また不便で気の滅入る避難所に戻って行ったという記事を、同居人がインターネットのニュースで読んで怒り心頭に達していた。
震災に遭ったよりもそちらの方が惨かったろうなと、同居人にも容易に想像できたのだ。
その母親は、かわいそうに、自分のためにではなく、息子の為に身を引いたのだ。

上に書き写した『異邦人』の中にも、家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。とあるが、親というものは大抵の場合そのようにするものだ。(そうでない場合ももちろんあるが)

ここにおられた方が、お母さんにもお幸せでしたろう・・・

こちらのリタイアメント・ホームに暮らすお年寄りたちを見ていると、それぞれが家族に従属して生きるのではなく、"自分の人生"を生きているように見えて、いいなと思えてくる。
が、いいなと思えるのは、多分この国だからだろう。


既に老人ホームに入居可能な歳になっている一人暮らしの叔母にその話をすると、「私はまっぴらご免だね」とにべもなく否定された。

「影でコソコソ、コソコソ他人の悪口を言っては楽しんでいるようなのがウヨウヨしている中で、どうして楽しく暮らせようか・・・そんな所に入るくらいなら、ずっと独りで暮らしていた方がよほど平和に暮らせるよ」


もし、私も日本で一生を過ごさなければならなかったとしたら、やはり一人でいることを選択したことだろう。



崩れた巻き寿司を平気で売る店への箴言

ある日本人の経営する鮨屋の巻き鮨は、巻きはほどけているは、厚さは極端に違うは、海老フライのしっぽまで巻き込んであるは... とんでもなく不細工である。
スタッフが何人か居るのに、誰もまともに巻き寿司を巻けないで、よく鮨屋を経営していられるものだと感心してしまうほどだ。

おまけに店員の態度も、(ボスを見習っているのか)太々しさが漂う最低のレベル。

海外に住んでいると、『日本人は礼儀正しい』と耳にすることが度々あるが、決してそのような人ばかりではなく、前述のような店員&ボスを目にすると、ガッカリするのを通り越して苛立さえ覚え、思い出すのも悍ましい。

そんな、日本では絶対に受け入れられないだろう低レベルの鮨屋が、ここNZでは普通に営業していられるというのもすごい。下手をしたら、韓国人やら中国人の方がマトモな鮨を巻きそうだよと、本気で思ってしまった。

全くもって「情けない」ことである。


職人としてのプライドを持ち合わせていない"プロの職人"の作り出すものというのは、ただ『見苦しい』という一言に尽きる。


そういえば、こちらのとある日本人経営の丼屋の揚げ出し豆腐は饐えた味がして、一口食べた途端に吐きそうになったが、それは傷んでいたからではなく、「中国の豆腐を使っているので、そういう味」なんだそうだ。 自信を持って饐えた味の料理を出す店か... 
やれやれ...



19.8.12

アップリケの縫い付け方

便利な世の中になって、今じゃアップリケを手で縫い付けるなんてことはせず、アイロン接着シートやらテープやらで簡単に付けられるようになったらしい。

が... 手元にそういうものが無かったので、今回は縫い付けた。



手縫いの場合、裏側にあっちを向いたりこっちを向いたりしている糸が見えたのでは見苦しいので、後ろに渡った糸が極力見えないように配慮する。そう、布の縦糸/横糸のどちらでもいいが、1~2本をすくってまつり付けて行くのだ。
これはズボンとかスカートの裾をまつる時にも同じことで、表面に出る縫い目を最小限にとどめたい時に使う方法である。

このような地道な作業をしていたおかげで、今日は他に何もする気が起きず、1着仕上げただけで1日が終わってしまった。

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こちらは、先日コソボ出身のベンジーのパパが焼いてくれた Byrek というミートパイ。
同居人に「何の肉?」と聞いたら、「ビーフだと思うよ」と言っていたが、何か違う感じ...
ポークじゃないことだけは確かなのだが(笑)

Muslim はけっこう男性も料理をするんだよね。どこぞの国と大違いだ。



17.8.12

「えっ!そうだったの?!」




同居人が高校時代に好きでよく聞いていた曲。

10年以上も経った今になってようやく、『不倫の歌』だってわかったらしい。(笑)
しかも、私に指摘されるまで気付かなかった。(笑)


何だか聞いているうちに胸が悪くなってきた。


16.8.12

"そっち系"のパン

私の朝食はピタパンかベーグル。
別に"そっち系"の料理が好きだというわけではなく、どちらかというとそっち系には好んで食べたいとは思わない料理の方が多いような気がするが、どういうわけだかピタパンとベーグルだけは私の好みだ。

以前、"そっち系"の料理本を、出版社に勤めている日本人の知り合いから頂いたことがある(その他山のようなダメージ本と一緒に)。NZの書店では確か$80.00近い(或はそれ以上の)値段で売られていた豪華本だったが、掲載されている写真を見ただけで作る気が失せてしまったので、後日"そっち系"の知人に「これあげる」と差し上げた。
知人は、「ありがとう」と言って素直に受け取り、「でも何でくれるの?」と聞いて来た。私は素直に答えた。


「どれも不味そうなんだもん」

知人は呆れたような顔をしていたので、「私の感覚ではどう見ても美味しそうだとは思えないけど、あなたの感覚は違うと思ってさ...」とプレゼントの動機を話して聞かせた。
その後数回(偶然市内で)鉢合わせしたものの、その本の話題には触れていないので、その本のレシピがイケていたのかそうでなかったのか、全くわからないまま終わった。

まぁ、こんなに明け透けな会話をしていても、車ですれ違えば手を振り、顔を見ればわざわざ話をしにやって来るんだから、まだ嫌われてはいないってことかな。

ちなみに、彼のお母さんの作る Baklava は美味しかった。(けど、甘くて一度に全部食べきれなかった)





13.8.12

パン作りは面白い

気になっている本がある場合、私は必ずAmazonで review /rivjúː/レビュー リビュー)をチェックすることにしている。とりわけ、悪い評価をしっかり読む。当然のことながら、悪い評価をしている人の中には首を傾げたくなるような(あなたの方がおかしかったのでは?)というものも無きにしもあらずではあるが、右へ倣えの高評価の内容ばかり読んでいても本当のところが見えて来ないのも事実だ。

パン作りが面白くて、何冊も本を買った。

こちらでぶらりと入った書店の店頭に並んでいた『セール品』の中にパン作りの本を見つけ、ただ安かったからという理由で買ってしまったが、2度と作らないと思われるレシピのオンパレードだった。(私と同居人の口には合わなかったが、美味しいと思う人ももちろん居るだろう)


上の写真の右の本は、しっかりとAmazon.com でリビューを読んでから買った。この本の著者である Ciril Hitz の作るパンは群を抜いて美しい。年期が入っているからできるというのとは全く違う、天性の器用さというのがよくわかる。そして同時に、完璧主義であろうというのも伝わって来る(笑)

日本のアマゾンでも数えきれないほどのパン作りの本が出ているので、気になった本があったら、リビューをじっくり読んで、次に別にもっといい本が無いかどうかを検索してみるといい。

ちなみに、ここNZでは本の値段はべらぼうに高く、とてもじゃないが書店で本を買う気にはならない。しかも品薄。更に「ダメージの無い本なんてあるの?」と思ってしまうほど、新品の本がすり切れていたりするのである。
Amazon.comは確かに本が安い。キッチン用品などもかなり安く、私はよく利用している。そんなに安くはない送料+手数料を入れても、こちらの小売店で買うよりも遥かに安いのだ。




12.8.12

Merhaba!

ほぼ100%の確率で、初対面の日本人から英語で話し掛けられる私...

ある人は私をタイ人だと思ったと言い、ある人はベトナム人かと思ったと言い、中国人?と聞かれたことは数知れず... 韓国語で話し掛けて来たのは一人だけ(私、あまり韓国人っぽくはないようだ)フィリピン人とか、キウィ?(ニュージーランド人)とかもあった。
どこをどう間違えばキウィに見えるんだ?と、同居人とよく笑ったものだ。

数ヶ月前、たった一人だけ、私を最初から日本人だと確信して片言の日本語で話し掛けて来た人がいた。
彼は近所の公園に移動販売車を停め苺を売っていたトルコ人のロマンス・グレー(和製英語(笑))で、若い頃はさぞかしモテたであろうと思われる非常に端正な顔立ちをしていた。
... と過去形で書いたのは、ここ2ヶ月ほど彼はその公園に姿を見せておらず、もうここには来ないのではないか(もうこの先顔を見ることはないかも知れない)と感じているためなのだが... 私達くらいの歳になると(彼と私は同い年だ)、どこか他の場所で仕事を始めたのかな?と想像するよりも、病気で動けなくなっているんじゃなかろうか?と心配してしまう方が先になる。ましてや彼には世話をしてくれる子供が居ないと聞いている。

別にそんなに親しかったわけではないので、連絡先もわからず、ただ一時、時々トルコ語を教えてもらっただけの、ただの顔見知りでしかないが、我家のリビングから見える公園を見る度、「彼は元気にしているだろうか」ではなく、「大丈夫だろうか?」と不安になる。

またいつか、どこかで偶然出会うことがあったら、その時まで多分覚えているだろうトルコ語で挨拶しよう。

「メルハバ!」


8.8.12

Madeleine


(わざわざ買って食べる気がしない)超簡単なお菓子の定番、マドレーヌ。

いつもの倍の量で作ったら型が足りなくなったので、色んな形になったが... 味はどれも同じ。レーズン入りかそうでないかの違いだけ。

ハート形のまん中が膨らんでいるのは、あまり見た目がよろしくないね...


1.8.12

さすが、Lindt !

チョコレートのパッケージとしては少々違和感のある色使いに思える、Lindt の新商品(?)を、同居人が私の為に買って来てくれた。私が大のピスタチオ好きなため。


さすが Lindt 。こんなに美味しいチョコは始めてかも?と思えるほどの美味しさである。特別ピスタチオの風味がするというわけでもないのだが(笑)、中のホワイト アーモンド クリームと外のミルク チョコレートが絶妙にマッチして、「Lindt に間違いは無い」とお墨付きを付けられるものに仕上がっている。

でも、何故にピスタチオ?

多分、アーモンドでは味が強過ぎ、マカデミアナッツではもはや斬新さに欠け、ヘーゼルナッツではくどくなり過ぎたのかもしれない... などと勝手に想像しつつ味わっている。

「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...