Albert Camus は著書『異邦人 The Stranger or The Outsider』の冒頭部分で、養老院のことについて触れている。
養老院で亡くなった母親の葬式に行った主人公が、養老院の院長と話をした場面だ。
バスに乗ったり、切符を買ったり、
日本ではどうだろう。いまだに老人ホームに親を入れるということに罪悪感を抱いたり、嫌悪感を示したりするのだろうかと、ふと思った。
Kiwi はほとんどの場合、子供は高校を卒業する頃になると親元を離れる。同じ市内に住んでいるのに、親と一緒には住まず、わざわざお金を出してアパートを借りたり、友達と部屋をシェアしたり、はたまた大学に通う場合は大学の寮に入ったりするのだ。目と鼻の先に実家があって、そこで身内と暮らすことに何の制限があるわけでもないのに、ほとんどの子はそうやって自活し始める。もちろん、親からの支援など無い子の方が圧倒的に多く、大学に通う場合でも、学費は子供が自分で学生ローンを申し込み、親が全額負担するなどということは無いのだ。
そんな環境であるから、老後は老人ホームに入居するというのは極自然の流れなのかも知れない。
老人ホームで同年代の仲間達と話をしたり、食事をしたり、趣味に興じたりして過ごす方が、日中誰も居ない家でひっそりと暮らすよりも確かに楽しいかも知れないなと思った。
特に連合いを亡くしているやもめにとっては。
3.11の震災後、被災した母親が遠くに住む息子夫婦の家に身を寄せたが、間もなくして息子夫婦が自分のことで口論をするようになり、(「お母さんをいつまで世話する気なの?」なんて囁かれているのを聞いたら、私でも居たたまれなくなる)その母親は僅かな荷物をまとめて、また不便で気の滅入る避難所に戻って行ったという記事を、同居人がインターネットのニュースで読んで怒り心頭に達していた。
震災に遭ったよりもそちらの方が惨かったろうなと、同居人にも容易に想像できたのだ。
その母親は、かわいそうに、自分のためにではなく、息子の為に身を引いたのだ。
上に書き写した『異邦人』の中にも、家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。とあるが、親というものは大抵の場合そのようにするものだ。(そうでない場合ももちろんあるが)
ここにおられた方が、お母さんにもお幸せでしたろう・・・
こちらのリタイアメント・ホームに暮らすお年寄りたちを見ていると、それぞれが家族に従属して生きるのではなく、"自分の人生"を生きているように見えて、いいなと思えてくる。
が、いいなと思えるのは、多分この国だからだろう。
既に老人ホームに入居可能な歳になっている一人暮らしの叔母にその話をすると、「私はまっぴらご免だね」とにべもなく否定された。
「影でコソコソ、コソコソ他人の悪口を言っては楽しんでいるようなのがウヨウヨしている中で、どうして楽しく暮らせようか・・・そんな所に入るくらいなら、ずっと独りで暮らしていた方がよほど平和に暮らせるよ」
もし、私も日本で一生を過ごさなければならなかったとしたら、やはり一人でいることを選択したことだろう。
養老院で亡くなった母親の葬式に行った主人公が、養老院の院長と話をした場面だ。
彼(養老院の院長)は書類を見て、
「マダム・ムルソーは3年前にここに来られた。
あなたはそのたった一人のお身寄りでしたね」と言った。
何か私をとがめているのだと思い、事情を話し出したが、
彼は私をさえぎって、
「弁解なさることはありません。あなたのお母さんの書類を拝見しました。
あなたにはお母さんの要求をみたすことができなかったわけですね。
あの方には看護婦をつける必要があったのに、
あなたの給料はわずかでしたから。
でも結局のところ、ここにおられた方が、お母さんにもお幸せでしたろう」
「その通りです、院長さん」と私はいった。
「ここには同じ年配の方、お友だちもあったし。
そういう方たちと、古い昔の想い出ばなしをかわすこともできたし。
あなたはお若いから、あなたと一緒では、お母さんはお困りになったでしょう」
と院長は付け加えた。
それは事実だ。
家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。
養老院に来た最初の頃にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだった。
数ヶ月たつと、今度はもしママンを養老院から連れ戻したなら、泣いたろう。
これもやっぱり習慣のせいだ。
最後の年に私がほとんど養老院へ出掛けずにいたというのも、こうしたわけからだ。
それに、また日曜日をふいにすることになるし、
二時間の道のりを行くことが面倒なせいもあったのだが。
ー小説『異邦人』より抜粋ー
Kiwi はほとんどの場合、子供は高校を卒業する頃になると親元を離れる。同じ市内に住んでいるのに、親と一緒には住まず、わざわざお金を出してアパートを借りたり、友達と部屋をシェアしたり、はたまた大学に通う場合は大学の寮に入ったりするのだ。目と鼻の先に実家があって、そこで身内と暮らすことに何の制限があるわけでもないのに、ほとんどの子はそうやって自活し始める。もちろん、親からの支援など無い子の方が圧倒的に多く、大学に通う場合でも、学費は子供が自分で学生ローンを申し込み、親が全額負担するなどということは無いのだ。
そんな環境であるから、老後は老人ホームに入居するというのは極自然の流れなのかも知れない。
老人ホームで同年代の仲間達と話をしたり、食事をしたり、趣味に興じたりして過ごす方が、日中誰も居ない家でひっそりと暮らすよりも確かに楽しいかも知れないなと思った。
特に連合いを亡くしているやもめにとっては。
3.11の震災後、被災した母親が遠くに住む息子夫婦の家に身を寄せたが、間もなくして息子夫婦が自分のことで口論をするようになり、(「お母さんをいつまで世話する気なの?」なんて囁かれているのを聞いたら、私でも居たたまれなくなる)その母親は僅かな荷物をまとめて、また不便で気の滅入る避難所に戻って行ったという記事を、同居人がインターネットのニュースで読んで怒り心頭に達していた。
震災に遭ったよりもそちらの方が惨かったろうなと、同居人にも容易に想像できたのだ。
その母親は、かわいそうに、自分のためにではなく、息子の為に身を引いたのだ。
上に書き写した『異邦人』の中にも、家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。とあるが、親というものは大抵の場合そのようにするものだ。(そうでない場合ももちろんあるが)
ここにおられた方が、お母さんにもお幸せでしたろう・・・
こちらのリタイアメント・ホームに暮らすお年寄りたちを見ていると、それぞれが家族に従属して生きるのではなく、"自分の人生"を生きているように見えて、いいなと思えてくる。
が、いいなと思えるのは、多分この国だからだろう。
既に老人ホームに入居可能な歳になっている一人暮らしの叔母にその話をすると、「私はまっぴらご免だね」とにべもなく否定された。
「影でコソコソ、コソコソ他人の悪口を言っては楽しんでいるようなのがウヨウヨしている中で、どうして楽しく暮らせようか・・・そんな所に入るくらいなら、ずっと独りで暮らしていた方がよほど平和に暮らせるよ」
もし、私も日本で一生を過ごさなければならなかったとしたら、やはり一人でいることを選択したことだろう。
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