2.6.17

仕事に対する誇り

昨日、久しぶりに歩いて急坂を下り、近くの公園に行った。

朝のうちは小雨が降ったりしていたが、昼過ぎには綺麗に晴れ、雲の動きをしばし楽しみながら、写真を撮ったりして屋外で過ごした。




夏の間その公園に苺を売りに来ている "友達" のバンも、青いテントももう無くなっており、それが寒々とした風景になお一層拍車をかけているように思えた。

公園に来ているお寿司屋さんはいつもとても良くしてくれる。
私が、今日は同居人の誕生日なので、お寿司を買いに来たのだと言うと、すぐさまパーティー用の寿司の詰め合わせを作り出してくれたので、いやいや、普通のパックで充分だと辞退したのだが、盛り沢山のお寿司をお祝いだと言って、料金も取らずにプレゼントしてくれたのだ。
しかも、帰り道、ひどい急坂を上っていくのはキツいだろうと、家まで車で送ってくれたりもし、申しわけない気持ちでいっぱいになってしまった。


夕食はお寿司と汁物を用意するだけで充分過ぎるほどだったので、夕方遅くまでアトリエで作業をすることができた。

作業と言っても、ほとんどの時間を部屋の片付けに費やしていたため、作ったのはイスラム模様の鍋敷き一つのみ。スクロールソーに油を注し、模様をカットすること2時間強。

カーブのある側面を飾り面取りするのに使うのは電動ルーター以外に無いものかと、いつも考えてしまう。ハンド ツールで同じように、かつ綺麗に仕上げられるものがきっとあるに違いないと思うのだが…

他の、板に鉋をかけ板厚を半分にしたものは、反りが出るため数日そのままにしておくことにした。
「木っていうのはね、切り倒した後でも生きてるんですよ」と言っていた江戸指物師の言葉を思い出した。
板厚を変えると、薄くなった板の切り口は即座に新しい環境に反応し、その水分量の変化は反りや歪みを生じさせる原因となる。
更に、気温/湿度の移り変わりに応じて、乾いた表面も変化を繰り返し続ける。

ガラスや布と違い、木は非常に扱い難い素材であることを、木工に携わる期間が長くなればなるほどより深く痛感することになるというわけだ。


私はまだ板の伸び縮みに対する知識が浅いため、無垢板で大きな物を作り提供することに自信が持てない。故に、売る物は『変化がほとんど無いと思われるもの』、或は『仮に変化があったとしても差支えなく使用できるだろう物』となってしまう。

せっかくお金を出して買ってくれるのに、すぐに使えなくなってしまったら申しわけないとの思いから、売る物については試作品をまず作り、実際に自分で使ってみて確かめるか、或はある程度の期間(数ヶ月)手元に置いて変化が無いか観るようにしているのだが、生活環境は各家で異なるため、残念ながら、それも100%保障できるものではない。


木製品を作り売るというのは本当に難しい。
けれども、購入してくれた人からの思いやりのあるメッセージが、ウンザリするような細かいサンディング作業を耐えさせてくれ、更に丁寧な作業をするようにと心を引き締めさせてもくれ、また、作業を続けさせてもくれるのだ。

'Absolutely beautifully crafted piece, would be something we will treasure. Many thanks!'


有り難いことだと、心から思う。



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