私は『友達』という響きが嫌いだ。
小学校時代、6年間に渡ってイジメの標的にされ続けていたことが、私にとっての "友達" というものの概念を形成しているからだと思うが、年を経るに従って鮮明に見えるようになってきた人間の思考形態が、増々私を人の集団から隔てる結果となっていることは間違いない。
何かを頼みたい時にだけ連絡して来る人を友達と呼ぶのか?
そう感じたことの無い人は幸せである。
自分が一人で居るのが寂しいからと連絡して来る人は友達なのか?
自分の寂しさを紛らわすために、誰かにそばに居て欲しいという人のほとんどは、自分のことしか考えていない人のように思えてならない。自分が寂しく感じない時に連絡して来ることは滅多に無く、自分が寂しくない或は暇ではない時に相手から連絡を受けたら、自分のことはさておいても相手のために時間を作るという人がそんなに居るようには思えない。
要するに、他にもっと大切な人がいるけれども、時々は思い出すという存在を"友達"と呼んで区別しているのではないか…
友達って何?
役に立てそうな人?
特別な関係にはなりたくないけど、捨て難い何かを有している人?
知り合いがよく私に聞いて来る。
「毎日一人で過ごしていて寂しくないの?」
私の答えは決まっている。
「喋っているより何かを作っている方が好きだし、集中して作業している時には一人の方がいい」
こう問いかけ続けている人も居る。
「誰かと人生をシェアしたいと思わないの?」
私は心の中で答える。
「思わない」
他人の人生にはもう関わりたくないし、自分の人生ももういいかげん終わって欲しいとさえ思っている。
パートナーを失った人、或はパートナーに特別興味も無くなったような人は、そのポカンと空いた心の穴を塞ぎたくて、その穴を埋める対象を探し出すようになり、それが別の人物だったり、我が子であったり、真剣に打込める仕事、若しくは宗教であったり、はたまた買い物やら、食べ物やら、アルコール、ドラッグ等々に手を出すことになる場合もある。
私は心の穴を塞がなくてもいい。
この穴は大き過ぎて塞ぎきれないと、よくわかっている。無駄な努力だ。
もう誰とも人生をシェアする気は無い。
そして、"友達" は要らない。
今日もまた、そう心の中でつぶやいていた。
小学校時代、6年間に渡ってイジメの標的にされ続けていたことが、私にとっての "友達" というものの概念を形成しているからだと思うが、年を経るに従って鮮明に見えるようになってきた人間の思考形態が、増々私を人の集団から隔てる結果となっていることは間違いない。
何かを頼みたい時にだけ連絡して来る人を友達と呼ぶのか?
そう感じたことの無い人は幸せである。
自分が一人で居るのが寂しいからと連絡して来る人は友達なのか?
自分の寂しさを紛らわすために、誰かにそばに居て欲しいという人のほとんどは、自分のことしか考えていない人のように思えてならない。自分が寂しく感じない時に連絡して来ることは滅多に無く、自分が寂しくない或は暇ではない時に相手から連絡を受けたら、自分のことはさておいても相手のために時間を作るという人がそんなに居るようには思えない。
要するに、他にもっと大切な人がいるけれども、時々は思い出すという存在を"友達"と呼んで区別しているのではないか…
友達って何?
役に立てそうな人?
特別な関係にはなりたくないけど、捨て難い何かを有している人?
知り合いがよく私に聞いて来る。
「毎日一人で過ごしていて寂しくないの?」
私の答えは決まっている。
「喋っているより何かを作っている方が好きだし、集中して作業している時には一人の方がいい」
こう問いかけ続けている人も居る。
「誰かと人生をシェアしたいと思わないの?」
私は心の中で答える。
「思わない」
他人の人生にはもう関わりたくないし、自分の人生ももういいかげん終わって欲しいとさえ思っている。
パートナーを失った人、或はパートナーに特別興味も無くなったような人は、そのポカンと空いた心の穴を塞ぎたくて、その穴を埋める対象を探し出すようになり、それが別の人物だったり、我が子であったり、真剣に打込める仕事、若しくは宗教であったり、はたまた買い物やら、食べ物やら、アルコール、ドラッグ等々に手を出すことになる場合もある。
私は心の穴を塞がなくてもいい。
この穴は大き過ぎて塞ぎきれないと、よくわかっている。無駄な努力だ。
もう誰とも人生をシェアする気は無い。
そして、"友達" は要らない。
今日もまた、そう心の中でつぶやいていた。
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