15.12.15

2挺目 Henry Boker

どうにも気になって仕方がなかった新品同様の(ステンレスのような光沢の)Henry Boker の刃…

インターネット オークションで度々中古ツールを買っている店のウェブサイトに、『使い込まれた年代物だが、 然るべき扱いをしないと深刻な怪我をしそうなほど恐ろしくシャープな刃が付いている』と書かれた、若干小さめのサイズの Henry Boker の鉋が出ていて、決してとびきり安いというわけではなかったが、ブレードの質を確かめたいという欲望にかられ、清水の舞台から飛び降りた気分で買ってしまった(日本円にしたら¥3,000ちょっと。高級鰻重は無理でも、中級鰻重が食べられる値段…  鰻重は一度食べたらお終いだけど、この鉋はこの先何十年も使えるはず… そう考えると安いよなと思ってしまう貧乏人… )。



木工を始めるに当たって購入した Stanley #4 に続いて、Stanley #5もNZ$25で手に入れ、それに父から譲り受けた鉋が数多くあるというのに、産まれ持った好奇心の強さのせいで、『どちらかと言えば必要の無い』物まで買ってしまう癖がある私…
どんどん鉋が増えて行く…


前回買ったものと比べてみると、幾つか違いがあった。




今回買った色の濃い鉋、本体は小ぶりなのに、持ち手部分(角)は太く、ブレードを押さえる板の厚みも若干厚かった。ブレードの裏側の支えは貼り付けられていない。



持ち手部分(角)の形も違っていた。


刃を緩める時に叩く部分に、金具は付いていなかった。


さて、肝心のブレードだが、今回購入した Henry Boker のブレードには、しっかりとメーカー名が刻まれていた。
ステンレスのようではなかったが、質感は似ている。
説明には非常にシャープだと書かれていたが、何をもってシャープだと思ったのか不思議なほど鈍らだった。

また、説明には『仕上げ用鉋』と書いてあったが、これを使っていた人は、この鉋を荒削りするための鉋として使っていたようで、刃は弧を描いていた。
私は荒削り用ではなく、仕上げ用鉋が欲しかったのだが… 真っ直ぐな刃に削り替えてしまって仕上げ用として使っても差支えないのかな?
刃が出る口は、一般に荒削り用とされている物のように大きくは空いていないが、他に構造上の違いがあるのだろうか?






少し前、木工に関しては素人のような感じの人から買った Henry Boker の刃は、時間をかけて研ぎ直し、頻繁に使っているが、削った時の感触が違うのをどう説明したらよいのか、いまだに言葉が見つからない。板を削る音は、他の鉋で削った時と比べると驚くほど静かである。日本のラミネートされた刃とも全く違う。
専門家ではないし、マスター ウッド ワーカーでもないので、それが何故なのかわからないが、ただ刃の質が明らかに違うということだけはよくわかる。そして、削った板は父の鉋で削った表面には及ばないものの、光沢があり、手触りはかなり良い。
しかも、しっかり研ぎ直した刃で毎日よく使い続けていたので、そろそろ研ぎ直さないとならないかなと思い、紙に刃を差し込んで切れ味をみてみると、依然としてシャープなままで、スーッと何の抵抗も感じず切れて行くではないか…  これにはさすがに驚いた。
昔父が、「ゾーリンゲンの刃はいいぞ」と言っていたのがよくわかった気がした。





スタンレーのブレードはすぐに切れ味が落ちる。切れ味の落ちた刃で紙を切ろうとしても刃はまるで入っていかない。鉋の使い勝手はいいのだが、本当に頻繁に研ぎ直さないと満足な仕事ができないというのは、やはり欠点であるように思った。


一般の鉋と違って、Henry Boker の鉋の刃は鉋のほぼ中央に出るようになっている。
私のような木工新参者には、鉋を板に対して水平に保ち続けるのにはプレッシャーが均等にかかって便利かな?などと考えながら削っているのだが、まだよくわからない。

鉋の形はよほど奇妙な形をしていない限り、使っているうちに慣れて来るものだ。
この Henry Boker にしても、棺桶型のものにしても、最初は少々違和感があったが、使っているうちに慣れてきた。
が、ことブレード(刃)の質に関しては、一度良いものを使ってしまうと、妥協することはできなくなってくる。(『良い』というのは、必ずしも『高価な物』とは限らない。)

お粗末なブレードでは良い仕事はできない。これは間違いない。
良い例がこのどうしようもない鉋だ。↓



こんなに最低なブレードを装備した鉋など、そうそうあるものではない。もっと言うなら、『あってはならない』ものだ。
研いでも研いでも切れ味は良くならず、削った面はガサガサ。
仕事に使うなど以ての外で、これが登場するのは誰かがアトリエに来た時に、刃の質の説明をする時くらいしかなく、邪魔で仕方がないのだが、こんなひどい鉋を転売するのも良心が痛み、正直に『こんなお粗末なブレードは見たこと無い』と書いたら誰もお金を出して買いたいとは思わないだろうし…、困ったものである。


私は日本人だが、日本に居た時に鉋を使った記憶は無く、けっこう歳を取った頃になってようやくしっかり木工を勉強し始め、生まれて初めて買った鉋は、インターネット オークションで落札した中古のスタンレー#4 だった。
"雲の上のお師匠さん" のビデオを観てブレードの研ぎ方を学び、頻繁に研ぎ直し、いつもシャープな状態で使っていたので、父の鉋を相続するまで、スタンレーの刃で充分満足していたのだ。

だが、父の鉋の刃は違った。天と地ほども差があった。
父の鉋の刃はもう長いこと研がれていなかったのに、依然としてシャープなままで、まぁ研ぎ方が大きく関係して来るのは当然のことだが、それ以上に、硬いはずの刃なのにしなやかさを感じ、しなやかなのに極めて鋭利だという、驚嘆すべきものだった。

父がそれらの道具を購入した頃は、お世辞にもお金に余裕がある状態ではなかっただろうから、おそらく高価な物ではなかったはずだが、たった一度、私は父に連れられて少し離れた所にある鍛冶屋に行った記憶がかすかにあり、そこの刃物は良い物だと言っていたのを覚えている。父はそこで鉋を購入していたのかも知れない。

父は子供を連れて遊びに出掛ける人ではなかったので、幼い頃父と一緒に何処かに行ったという記憶は2つしかない。一つはその鍛冶屋で、もう一つは飛行機(戦闘機?)を見に行ったことだけだ。
写真も無く、繰り返し話題に上ることも無く、本当にかすかな、靄のかかったような情景を思い出せるだけで、その鍛冶屋が何処にあったのかも、どこに飛行機を見に行ったのかも全くわからない。あまりにおぼろげな記憶であるために、もしかしたらそれは夢だったかも知れない…とさえ思ってしまうほどだ。それでも、その鍛冶屋で作る刃物は良い物だと言った父の言葉は鮮明に思い出せるのだから、実際に其処に行ったのは間違いないだろうと思う。

私は社交的な性格には生れついていないので、小さい頃は家でいつも何かしら作っていた父の傍に居て、一日中飽きること無く作業を見続けていた。

記憶の中の父は、長い板に鉋をかけていて、鉋屑は幅広く、限りなく薄く、まるで宙を舞っていたかのように見えた。

あの頃に戻りたい。
時々そう思ってしまうことがある。

父が亡くなってしまった今になってようやくゾーリンゲンの刃を付けた鉋を手にし、丁寧に研ぎ直し、使いがながら思うことは、もっと早く木工を始めていれば、父にこの鉋を見せてあげることができたかも知れないということ…
向上心の強かった父は、きっと興味津々でこの鉋を手にしたに違いない。

返す返すも残念である。



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