23.8.16

デザインと製図

玄関のスペースに合わせて、下駄箱兼ベンチの高さ、幅、奥行きを測り、デザインを考える…

厚みの違う板を何種類か使うため、それらのバランスを考慮に入れてデザインしなければならず、何度も何度もデザイン画を描き直し、頭が痛くなって来るとしばし違うことをして気を紛らわし、一息ついてまた考え始めるという作業をして日が暮れる。

私の父は方眼紙に縮小図を正確に描いていたような記憶があるが、私は至って大雑把な絵を描き、その周りにサイズを細かく記入して行き、出来上がるとそのスケッチはゴミとなることがほとんどだ。

用意する板のサイズと枚数は、もちろん間違えないようしっかりと書き留めておくが、几帳面な雲の上のお師匠さんがしているように、整然と表にしたりはしない。

考えてみると、私はけっこうイイカゲンな性格だったんだと思う。
そのイイカゲンさに、加齢のせいで明らかに面倒臭くなる速度が増し、年を経る毎に『この程度でいいか… 』という気持ちが大きくなってきたのを実感するようになった。

そんな私だが、こと継手仕口に関しては、少しでもギャップがあると気になって仕方がなく、平らな面が平でないと気がおさまらず… 超神経質な面が出てしまうのだ。
そのため、完璧に近いと自分で思えるまで作業をするとなると、えらく時間がかかってしまうことになる。

ある一人の指物師が、それはそれは見事な仕事をしつつも、仕上げたものに100%満足するということはないと言っていたのをよく覚えている。

私も、木工を始めてから、『人間の限界』というものを改めて思い知った。
神経を尖らせて、正確に、正確に作っているつもりでも、いつの間にかほんのわずかな狂いができてしまっている。ほんのわずかな狂いは幾つか寄せ集まると、目に見えるほどの狂いになってしまう。

私は自分の手仕事にガッカリする事が多くなった。

しかも、そのような不完全さに加え、木材自体の変化(気候の変化に絡む膨張、収縮)による変形、割れ、歪み等々が、完璧な木工品を作るのを阻んでいるかのようにさえ思え、知識も経験もない私は、どのようにしたら満足のいくものを作れるのだろうかと、灯りの見えない暗闇を、手探りで恐る恐る、前進しているのかも後退しているのかもわからずに彷徨っているような感覚に陥ってしまうのだ。

下駄箱にするための板は揃えたものの、今ひとつ集中できず、今日は、あと1ヶ月半ほどで日本に行く同居人Hに持たせるための『お土産』作りをしていた。

お土産は鍋敷き。お荷物にならず、しかも毎日使えるもの。


まだ切り出したばかりで、周囲の面取りもしていない状態だ。

明日もう一つ切り出した後で、周囲の面取りをする予定でいる。


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