30.12.15

暑い中、椅子のシートを直す



ダイニング チェアーのシートが2枚も割れてしまった。
まぁ、古い物なので壊れても仕方がないのだろうが、何十年か前に使われたこのパーティクル ボードは、決して強い素材ではないので、私は同じものは使わず、18mm厚の合板を使って作り直すことにした。


まずはこれまでの板に付いていたステープラーを全て取り除き、布を洗濯しておいたのだが、非常にほつれ易い布だったため、新しい板に取り付ける前にロックミシンで周囲のほつれ止めをしておいた。


この後、布にアイロンをかけ、ボロボロになりつつあったクッション素材を一部新しいものに変え、型通りに切り出した合板にステープラーで取り付けて完成。


作業中、あまりに暑くて身体がダルく、今後のためにと薄いMDFでシートの型を取っておいたのも、合板を切り出したのも、鉋でシートの前方の縁を削って丸みを持たせたのも、更にはステープラーを打ち付けているところをも写真を撮り忘れ(写真を撮るどころではなく)、1枚仕上げたところでダウン。もう1枚に布を張るのは同居人Tが代わってやってくれた。

作業を終えるとひどくグッタリして、横になった途端眠ってしまっていた。



今日は珍しく蒸し暑い一日だった。

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漬け込むこと1週間の梅ジュース。味見をしてみたらサッパリしていて美味しかった。


何処かのサイトに1ヶ月ほど漬けておいた方がいいと書いてあったので、もう少し漬けておくことにする。

同居人H 初めてのアメリカ本土

一昨日、予定では早朝5時に家を出発するつもりだったが、のんびり支度をしていた同居人H… 20分近く遅れて出発。(焦ることを知らない子)
空港まで車で20分程度しかかからないのは有り難いことだとつくづく思う。

空港に着くと、Hと一緒に旅行する友達2人と見送りの一家族は空港の入り口で待ってくれていた。

一緒に行ったのは、香港出身で小さい頃こちらに移住したという男の子と、生粋のニュージーランダーの女の子。
香港出身の子は、海外旅行はもう何度も経験していて、昨年はヨーロッパ旅行にも行ったりしているようなので、特別緊張感は漂っていなかったが、今回が生まれて初めての海外旅行というニュージーランダーの子はご両親と兄弟が揃って見送りに来ていて、特にお母さんの緊張感は相当なものだった。

初めての海外旅行が近場のオーストラリアとかパシフィック アイランドとかだったら、さして不安も無いだろうが、アメリカ(サンフランシスコ&NY)というのは、距離的にも治安の面でも心配な要素が増大するというのはよくわかる。ましてや、こんなご時世だ。世界中、何処で何が起こっても不思議ではなくなってしまった今の時代にあって、災難が降り掛かる可能性の比較的高いと思われる地域への旅行というのは、もしかしたら、旅行する本人たちよりも、見送る側の方が不安が大きくなるのかも知れない。

機体が行方不明になったままのマレーシア エアライン…
ある日突然家族が何処かに消えてしまって、何の手がかりもつかめないまま生活をし続けなければならない残された家族の悲しみ、苦しみ、また一生落ち着くことの無い気持ちの不安定さを、どれほどの人が理解できるのだろう。おそらく、家族が行方不明という状況に陥ったことの無い人々にはその辛さが本当にはわからないだろう… 旅立つ人を見送る度にそんなことが脳裏をよぎる。

私は死んだ人の霊の存在を信じてはいないのに、気付くと心の中で考えてしまっている。
「肉体を身につけている私は、ずっとあの子の隣りに居て守ってあげることなど不可能だけれども、彼の人は何処でも、いかなる場合でもあの子の傍に居てあの子を危険から守っていてくれるに違いない。そうできるに違いない。」

また、神に祈り続けてもいる。
目に見えるものの力は限られているが、見えないものの力は計り知れなく大きく、正に人知を越えた力で救ってくれるに違いないと。


同居人Hは、経由地に着く度に携帯電話からメッセージを送ってくれていたので、飛行機のトラブルもなく無事目的地に着いたのを確認できてホッとした。Wi-Fiが繋がりさえすればどこででも連絡が取れる時代になったことは、本当に有り難いことだ。

運賃節約のため、オークランド→シドニー(オーストラリア)→LA(USA)→サンフランシスコ(USA)を丸々一日かけて移動したせいで、到着日の昨日は疲れでグッタリしてしまい、しばらく横になって疲れを取った後ディナーに出かけたよと、途中で写真を撮って送って来てくれた。

「全てがスケールが大きくて圧倒される。」
アメリカ本土上陸の最初の感想は、やはりその"大きさ"だった。

のどかで、こじんまりしたラブリーなNZから一歩も外に出たことのなかった友達は、おそらく同居人Hよりももっともっと興奮していることだろう。

NZとの時差は −21時間。

楽しい旅行ができますように。そして無事に戻ってこれますようにと、私達はしばらく祈り続けることになる。


27.12.15

やけに静かな日曜日


隣りにあった伸び過ぎた梅の木を剪定し、日当りの良くなったリンゴの木。
かんかん照りの日が続いたおかげで、実が随分と赤くなってきている。

昨日まだ咲き切っていなかったブルームーンも一気に開いた。



オークランドの今日の最低気温は16℃、最高気温は25℃と出ている。
暑い一日だ。



友達って何?

私は『友達』という響きが嫌いだ。
小学校時代、6年間に渡ってイジメの標的にされ続けていたことが、私にとっての "友達" というものの概念を形成しているからだと思うが、年を経るに従って鮮明に見えるようになってきた人間の思考形態が、増々私を人の集団から隔てる結果となっていることは間違いない。

何かを頼みたい時にだけ連絡して来る人を友達と呼ぶのか?
そう感じたことの無い人は幸せである。

自分が一人で居るのが寂しいからと連絡して来る人は友達なのか?
自分の寂しさを紛らわすために、誰かにそばに居て欲しいという人のほとんどは、自分のことしか考えていない人のように思えてならない。自分が寂しく感じない時に連絡して来ることは滅多に無く、自分が寂しくない或は暇ではない時に相手から連絡を受けたら、自分のことはさておいても相手のために時間を作るという人がそんなに居るようには思えない。

要するに、他にもっと大切な人がいるけれども、時々は思い出すという存在を"友達"と呼んで区別しているのではないか…


友達って何?

役に立てそうな人?

特別な関係にはなりたくないけど、捨て難い何かを有している人?


知り合いがよく私に聞いて来る。
「毎日一人で過ごしていて寂しくないの?」
私の答えは決まっている。
「喋っているより何かを作っている方が好きだし、集中して作業している時には一人の方がいい」

こう問いかけ続けている人も居る。
「誰かと人生をシェアしたいと思わないの?」
私は心の中で答える。
「思わない」
他人の人生にはもう関わりたくないし、自分の人生ももういいかげん終わって欲しいとさえ思っている。


パートナーを失った人、或はパートナーに特別興味も無くなったような人は、そのポカンと空いた心の穴を塞ぎたくて、その穴を埋める対象を探し出すようになり、それが別の人物だったり、我が子であったり、真剣に打込める仕事、若しくは宗教であったり、はたまた買い物やら、食べ物やら、アルコール、ドラッグ等々に手を出すことになる場合もある。

私は心の穴を塞がなくてもいい。
この穴は大き過ぎて塞ぎきれないと、よくわかっている。無駄な努力だ。


もう誰とも人生をシェアする気は無い。
そして、"友達" は要らない。
今日もまた、そう心の中でつぶやいていた。



26.12.15

父の一周忌

亡くなってからまだ一年経っていないのに、坊さんの都合で一周忌の法要を執り行うこととなったらしい先週末の様子を、日本に居る家族が写真で知らせてくれた。

私は父と同じで仏教というものを全く信じていないので、法要のために日本に帰ることはしなかったが、それを咎める者は我家内には居ない。

父は家の代々の宗教に則って荼毘にふされたが、本人が大嫌いだった坊さんのお経に何の意味もあるはずもなく、また、私にとっても、父が亡くなってからの各種法要などというものに何の意味も価値も無く、式に出席しないことで父に申しわけないという気持ちを抱くこともなく、ただ残った家族が(特に母が)気がすめばいいというだけの『単なる行事』という以外の何ものでもない。

送られて来た仏壇の中の父の写真の両側には、ブルームーン(薄紫の薔薇)が飾られていた。
私達がこちらに移住する前、我家の玄関先に植えてあったブルームーンを実家に移植してきたのだが、それを移植してくれたのは父で、その後の手入れも父がしてくれていた。今年はいっぱい花が咲いたのだそうだ。

仏壇に菊ではなく庭で咲いた薄紫の薔薇を飾る… 私の家族らしい。


こちらに来た年、2003年にフリーマーケットで見つけたたった $5 しかしなかったブルームーンは、今が花の時期で、ベランダで見事に大きな花を咲かせている。

手入れをしているのは私ではなく、しばらく前から同居人Tになった。




Bluemoon、彼の人との想い出がいっぱい詰まった花。

私達の人生の始まりを記念して買った花。



24.12.15

良心的な商売の仕方?



まぁ、どちらかと言えば良心的なディスプレイだよな… と、このような組み立て家具を売っているのを見て思った。

なぜそのような場所にねじ釘を入れようと思ったのかわからないのだが、素材は非常に脆いですよというのを消費者にアピールするのには充分である。

しかし、少しでも木工をかじったことにある人が組み立てたとしたら、おそらくこのようにはならないだろう。先にドリルでパイロット ホール(誘導穴)を空けておけば、ほとんどの場合このように亀裂が入るのを防げるのだ。

このような組み立て家具のほとんどはファイバーボードでできていて、その上に着色してあるだけで、更には接合部分のほとんどは dowel (木製合わせ釘、だぼ)を差し込んであるだけか、或はねじ釘を打ってあるだけなので、無垢の板を使い、昔ながらのジョイントで組まれた家具のような強度はなく、『取りあえずの家具』というだけの価値しか無いのは明らかである。

だが、借家暮らしの私のような者にはお高い家具は必要ではなく、そのようなもので充分かなと、いつも思ってしまうのだ。
ただ、そんなにチンケな家具に何百ドルも出す気にはならない。

上記のようなファイバーボードでできた家具が何百ドルもするというのが納得できない人は、安い板を買って来て自作するのがいい。
安上がりな上に、自分で仕上げたという達成感も得られ、更には、勉強熱心な人であれば本格的な木工技術も得られるようになる。
木工に関する知識と技術の習得は、日常生活においてかなり役に立つのだ。



21.12.15

梅ジュース作りと頼まれもの作り


今年は裏庭の梅の木が沢山実を付けたので、生まれて初めて梅ジュース作りをしてみた。

日本に居たら、それ用の広口瓶は何処でも手に入りそうだが、こちらにはそのような物はなく、散々探し回った挙げ句に、ガラス瓶を探すのを諦め、食品を入れるのに適しているというプラスチックの容器を買い、氷砂糖は中国系の食材店で手に入れて仕込みに入った。


インターネットで調べると、梅は蔕を取り除き、綺麗に洗った後水分を拭き取り、24時間以上冷凍庫に入れておくというので、その通りにした。
冷凍した梅と氷砂糖を交互に入れていく。
今年は2キロ強の梅をジュースにすることにし、残ったもので梅ジャムを作ってみたのだが、2回茹で溢したりしたのだが、苦みが口に残り、同居人には不評だった。


梅ジュースは梅酒ほど漬けておく時間が長くなく、簡単に作れ、尚かつ安上がりなので、出来上がったものが美味しければ、おそらくこれからは毎年梅ジュースを作ることになるだろう。


アトリエでは、キッチンに置くスパイスラック作りの合間に、今度は同居人Tから頼まれた、使い捨て手袋の箱入れ作りをしていた。(ツールボックスの横にマグネットで貼付けておきたいらしい)

使用した合板の板厚が 7mm と薄いので、丈夫にするために、ジョイント部分はダブテイル(Dovetail)で行った。
Dovetail にも慣れ、このテの箱を作るのは朝飯前になった。

何も装飾を施さなくていいというので、箱のサイズをものさしで測ることもせず、手袋の入った箱を板の上に乗せ、若干余裕を持たせて板に印を付けて切るという、非常に大雑把な作り方だが、正確且つ厳密に作る必要の無いものなので、これで充分である。

この1度目のペイントが乾いたら、サンディングして2度目のコートをする。



庭のリンゴの実もだいぶ大きくなってきた。今年も甘くてジューシーなリンゴができるだろうか...



16.12.15

極小の薔薇


同居人Hは植物を育てるのが好きだ。

去年か一昨年(定かでない)、我家のブルームーン(薄紫色の薔薇)の花が落ちた後、種を採り、植えておいたものがこの夏ぐんと成長し、先日蕾を付けているのを発見した。
こんなに小さな薔薇の蕾を見たのは生まれて初めての私達は、皆花が咲くのを今か今かと待ちわびるようになった。

ブルームーンはハイブリッド種なので、挿し木で育てればブルームーンを増やすことができるのだが、種を採って育てても同じ薄紫色の花は咲かず、掛け合わせた薔薇の種類の内の一つが出るらしいというので、それはそれで楽しみである。

Hは最近食べたザクロの種も植えて、毎日「芽が出たかな〜」と観察しているが、ちょこっと出てきた芽が雑草なのかザクロなのかいまだわからず… 

そのうちにパイナップルも育てそうだ。




15.12.15

2挺目 Henry Boker

どうにも気になって仕方がなかった新品同様の(ステンレスのような光沢の)Henry Boker の刃…

インターネット オークションで度々中古ツールを買っている店のウェブサイトに、『使い込まれた年代物だが、 然るべき扱いをしないと深刻な怪我をしそうなほど恐ろしくシャープな刃が付いている』と書かれた、若干小さめのサイズの Henry Boker の鉋が出ていて、決してとびきり安いというわけではなかったが、ブレードの質を確かめたいという欲望にかられ、清水の舞台から飛び降りた気分で買ってしまった(日本円にしたら¥3,000ちょっと。高級鰻重は無理でも、中級鰻重が食べられる値段…  鰻重は一度食べたらお終いだけど、この鉋はこの先何十年も使えるはず… そう考えると安いよなと思ってしまう貧乏人… )。



木工を始めるに当たって購入した Stanley #4 に続いて、Stanley #5もNZ$25で手に入れ、それに父から譲り受けた鉋が数多くあるというのに、産まれ持った好奇心の強さのせいで、『どちらかと言えば必要の無い』物まで買ってしまう癖がある私…
どんどん鉋が増えて行く…


前回買ったものと比べてみると、幾つか違いがあった。




今回買った色の濃い鉋、本体は小ぶりなのに、持ち手部分(角)は太く、ブレードを押さえる板の厚みも若干厚かった。ブレードの裏側の支えは貼り付けられていない。



持ち手部分(角)の形も違っていた。


刃を緩める時に叩く部分に、金具は付いていなかった。


さて、肝心のブレードだが、今回購入した Henry Boker のブレードには、しっかりとメーカー名が刻まれていた。
ステンレスのようではなかったが、質感は似ている。
説明には非常にシャープだと書かれていたが、何をもってシャープだと思ったのか不思議なほど鈍らだった。

また、説明には『仕上げ用鉋』と書いてあったが、これを使っていた人は、この鉋を荒削りするための鉋として使っていたようで、刃は弧を描いていた。
私は荒削り用ではなく、仕上げ用鉋が欲しかったのだが… 真っ直ぐな刃に削り替えてしまって仕上げ用として使っても差支えないのかな?
刃が出る口は、一般に荒削り用とされている物のように大きくは空いていないが、他に構造上の違いがあるのだろうか?






少し前、木工に関しては素人のような感じの人から買った Henry Boker の刃は、時間をかけて研ぎ直し、頻繁に使っているが、削った時の感触が違うのをどう説明したらよいのか、いまだに言葉が見つからない。板を削る音は、他の鉋で削った時と比べると驚くほど静かである。日本のラミネートされた刃とも全く違う。
専門家ではないし、マスター ウッド ワーカーでもないので、それが何故なのかわからないが、ただ刃の質が明らかに違うということだけはよくわかる。そして、削った板は父の鉋で削った表面には及ばないものの、光沢があり、手触りはかなり良い。
しかも、しっかり研ぎ直した刃で毎日よく使い続けていたので、そろそろ研ぎ直さないとならないかなと思い、紙に刃を差し込んで切れ味をみてみると、依然としてシャープなままで、スーッと何の抵抗も感じず切れて行くではないか…  これにはさすがに驚いた。
昔父が、「ゾーリンゲンの刃はいいぞ」と言っていたのがよくわかった気がした。





スタンレーのブレードはすぐに切れ味が落ちる。切れ味の落ちた刃で紙を切ろうとしても刃はまるで入っていかない。鉋の使い勝手はいいのだが、本当に頻繁に研ぎ直さないと満足な仕事ができないというのは、やはり欠点であるように思った。


一般の鉋と違って、Henry Boker の鉋の刃は鉋のほぼ中央に出るようになっている。
私のような木工新参者には、鉋を板に対して水平に保ち続けるのにはプレッシャーが均等にかかって便利かな?などと考えながら削っているのだが、まだよくわからない。

鉋の形はよほど奇妙な形をしていない限り、使っているうちに慣れて来るものだ。
この Henry Boker にしても、棺桶型のものにしても、最初は少々違和感があったが、使っているうちに慣れてきた。
が、ことブレード(刃)の質に関しては、一度良いものを使ってしまうと、妥協することはできなくなってくる。(『良い』というのは、必ずしも『高価な物』とは限らない。)

お粗末なブレードでは良い仕事はできない。これは間違いない。
良い例がこのどうしようもない鉋だ。↓



こんなに最低なブレードを装備した鉋など、そうそうあるものではない。もっと言うなら、『あってはならない』ものだ。
研いでも研いでも切れ味は良くならず、削った面はガサガサ。
仕事に使うなど以ての外で、これが登場するのは誰かがアトリエに来た時に、刃の質の説明をする時くらいしかなく、邪魔で仕方がないのだが、こんなひどい鉋を転売するのも良心が痛み、正直に『こんなお粗末なブレードは見たこと無い』と書いたら誰もお金を出して買いたいとは思わないだろうし…、困ったものである。


私は日本人だが、日本に居た時に鉋を使った記憶は無く、けっこう歳を取った頃になってようやくしっかり木工を勉強し始め、生まれて初めて買った鉋は、インターネット オークションで落札した中古のスタンレー#4 だった。
"雲の上のお師匠さん" のビデオを観てブレードの研ぎ方を学び、頻繁に研ぎ直し、いつもシャープな状態で使っていたので、父の鉋を相続するまで、スタンレーの刃で充分満足していたのだ。

だが、父の鉋の刃は違った。天と地ほども差があった。
父の鉋の刃はもう長いこと研がれていなかったのに、依然としてシャープなままで、まぁ研ぎ方が大きく関係して来るのは当然のことだが、それ以上に、硬いはずの刃なのにしなやかさを感じ、しなやかなのに極めて鋭利だという、驚嘆すべきものだった。

父がそれらの道具を購入した頃は、お世辞にもお金に余裕がある状態ではなかっただろうから、おそらく高価な物ではなかったはずだが、たった一度、私は父に連れられて少し離れた所にある鍛冶屋に行った記憶がかすかにあり、そこの刃物は良い物だと言っていたのを覚えている。父はそこで鉋を購入していたのかも知れない。

父は子供を連れて遊びに出掛ける人ではなかったので、幼い頃父と一緒に何処かに行ったという記憶は2つしかない。一つはその鍛冶屋で、もう一つは飛行機(戦闘機?)を見に行ったことだけだ。
写真も無く、繰り返し話題に上ることも無く、本当にかすかな、靄のかかったような情景を思い出せるだけで、その鍛冶屋が何処にあったのかも、どこに飛行機を見に行ったのかも全くわからない。あまりにおぼろげな記憶であるために、もしかしたらそれは夢だったかも知れない…とさえ思ってしまうほどだ。それでも、その鍛冶屋で作る刃物は良い物だと言った父の言葉は鮮明に思い出せるのだから、実際に其処に行ったのは間違いないだろうと思う。

私は社交的な性格には生れついていないので、小さい頃は家でいつも何かしら作っていた父の傍に居て、一日中飽きること無く作業を見続けていた。

記憶の中の父は、長い板に鉋をかけていて、鉋屑は幅広く、限りなく薄く、まるで宙を舞っていたかのように見えた。

あの頃に戻りたい。
時々そう思ってしまうことがある。

父が亡くなってしまった今になってようやくゾーリンゲンの刃を付けた鉋を手にし、丁寧に研ぎ直し、使いがながら思うことは、もっと早く木工を始めていれば、父にこの鉋を見せてあげることができたかも知れないということ…
向上心の強かった父は、きっと興味津々でこの鉋を手にしたに違いない。

返す返すも残念である。



12.12.15

Bin request

ここオークランドでは、各家庭に一般ゴミ用ゴミ箱とプラスチック、缶&紙用ゴミ箱を無料配布している。
ゴミの日に自宅前の歩道脇にある緑地帯にそれを出しておくと、ゴミ収集車に付いているアームでゴミ箱を挿み、持ち上げて逆さにし、ゴミを車の荷台に落とすという方法で回収をする。

かなり昔の写真だが、ゴミの日の風景を撮ったものがあった。(水色の小さなコンテナは10年近く前に使っていたプラスチック、缶&紙用のものだが、あまりに小さかったからか、かなり前にこの5倍は入りそうな、一般ゴミ用のゴミ箱よりも更に大きなゴミ箱に代わっている)



日本に住んでいた頃は、わざわざ地域のゴミ置き場までゴミを運ばなくてはならず、ゴミ置き場が汚れると交代でその場所の掃除までやらされることになっていたが、ここでは収集日の前の日に家の外の歩道脇に出しておけば、翌朝収集車が各家の前に停まって回収して行ってくれるので、すこぶる便利で、何のストレスも感じない。

そして、各家のゴミ箱がもし万が一紛失したり壊れたりしたら、インターネットで簡単にシティ カウンシル(市議会)に補充或は修理を依頼できるようになっている。
手続きを済ませると3営業日以内に、ほとんどの場合、新しいゴミ箱を業者が家まで配達してくれ、郵便受けの近くか、駐車場の入り口付近に置いて行ってくれる。
新しいゴミ箱にもきちんと家の番地とシリアル番号とが印刷されてくるので、ゴミを出した際に隣近所のゴミ箱と間違えることはない。
配布も補充/修理も全てが無料のサービスだ。

ゴミの袋まで買わされていた日本の生活と比べると、快適さは天と地ほどの差があるなとつくづく思った。


前回の収集日に、どういうわけか車輪の一つが無くなってしまっていた我家のゴミ箱。
手続きをすっかり忘れていて、一昨日になってようやくインターネットで、修理又は交換という項目にチェックを入れ、車輪が紛失した旨を書いて届けを出しておいたが、どのような扱いになるのか来てみないとわからない。
まぁ、どちらにしても、来週早々には新しいゴミ箱か車輪かが届くだろう。



3.12.15

ポスト ボックスが消えて行く時代

一番近いポスト ボックスに荷物を投函しようと、歩いて急坂を上って行ったのに、これまでそこに有ったポスト ボックス(古いタイプ)が無くなっていた。
いつ撤去されてしまったのかわからないが、周りを見渡してみても、近くに移動したという風ではなく、仕方なく次のポストがあるはずである場所まで歩いて行った。

そこにはポスト ボックスがまだ有り、ホッとしたのもつかの間、そこのものは新しいタイプのポスト ボックスで、口が浅過ぎて荷物が入らなかった。

なんてこった…


家に戻って車に乗り、次に近いポスト ボックスがやはり撤去されてしまっているのを横目で見て確認し、仕方なく遠くのポスト ショップまで出向いて、ようやく投函完了。


道端のポスト ボックスに封書やら葉書やらを投函する時代では無くなってしまったということなんだろうなと、しみじみ思った。

時代の移り変わりとともに現れるものあり、消えるものあり…

便利な世の中になって行く一方で、ひどく不便になってしまった事柄が少なからずあることを悲しく思う今日この頃である。



2.12.15

眠くてたまらない



これは、2回目のサンディングを終え、3回目のコートをするところの写真。
今回使った板は切断面の繊維の浮き出しがなかなか取れず難儀をした。

合計4回重ね塗りし、4回サンディングしたため、思っていた以上に時間がかかってしまったが、今日の午後ようやく作業を終えることができた。

出品していたのは合板で作った物だったので、それに合わせて今回も合板にしたのだが、合板に水性ペイントを塗ると後の始末(特に断面のサンディング)が大変になり、時間ばかりかかってしまうので、綺麗にスベスベに仕上げたい人にはお勧めできる方法ではない。

出来上がった物はしっかり乾かし、明日発送することになる。



最近、明け方3時とか4時に目が覚めてしまうため、午後になると眠くてたまらない。
そのため、夕食が済むとすぐに寝てしまい… そして、また朝早く目が覚めてしまう。

あぁ、その悪循環を何とか断ち切らなくては…



1.12.15

あぁ、もう師走だ...

私自身は教会のクリスチャンではないし、クリスマスの起源についても疑問があり、祝う気にはなれないので、当然のことながらクリスマス ショッピングもしないのだが、世の多くの人はこの時期ギフトに費やす金額が結構なものとなるらしい。

出品しているインターネット オークションにもよく質問が来る。その多くが、他にも同じような物が幾つかあるかという質問で、同じ物を幾つも作らない私は、「あなたのために喜んで必要な数を作らせていただきますが、出来上がるまでに少し時間がかかります。それでもよろしければ注文をお受けしますよ」と返事をする。

そんなやり取りをした後に受けた注文のほとんどは、出品価格よりも若干安くはするものの、送料を合わせたらけっこうな金額になってしまうので、何だかこちらが申しわけない気持ちになってしまうのだ。
つくづく、自分は貧乏人だよなと思うと同時に、そのような行事と無縁の生活をしていて助かったよなとしみじみ思ってしまった。




今作っているのは鍋敷きで、込み入ったデザインではないため、精神的に疲れることなく、いつものようにスクロールソーで透かし彫りをして、全体をサンドペーパーで磨き、色を塗り、磨き… を繰り返している最中である。
今回の落札者も、落札した直後にクレジットカードで支払いを済ませてくれてあり、皆、きちんと製品が送られて来ると信じてくれていることを、有り難く思うばかりである。




裏庭に出ると、リンゴの実や梅の実が赤くなり出していた。



ブルーベリーも沢山実を付け、レモンは良い色になっていた。


今年のミントはやけに勢いがよく、同居人は「苺に与えた肥料のせいかな?」と言っていた。冬にはほとんど姿を消してしまっていたミントがまた出てきてくれたので、今年も北アフリカのミントティーを楽しめる。


同居人が種を植えたコリアンダーは、もう花が咲きそうなほどに成長していた。マズイ、早く食べなくては…


昼顔は何処からともなくやってきて、透き通るような美しい花を咲かせているが、ツルが張ってしまって少々厄介者的存在だ。


そして、同居人の車、エスコートには新しいドアパネルが付いた。
非常にシンプルで、70年代の車には似合っていると、同居人が喜んでいた。
窓の開閉はもちろん手動だし、ドアは手前のレバーを上に回すようにして開ける。
あぁ〜、昔の車はこんなだったなぁ〜と懐かしく思い出した。












27.11.15

気になる Henry Boker のブレード

今日も暑い一日だった。

暑い中、オークションで落札し今朝届いたばかりの鉋の手入れをしていた。




一つは少し前に買った斧と同じドイツのメーカーのもので、もう一つはイングランド製。
欲しかったのはもちろんドイツの鉋だ。



このサイの角のような把手が付いた方がドイツ(Boker) 製で、ほとんど新品に近いボディの底にはいまだスタンプが残ったままだった。
ブレードは錆び止めと思われるペイントが付いており、厚みもあり、どっしりと重たかった。(ステンレスのように硬い刃で、研ぐのが非常に大変)
一つガッカリしたのは、ブレードの裏側が平らではなかったことと、裏のエッジを研いでしまってあったこと。電動グラインダーを持っていない私は、汗だくで裏を平らにしなければならず、ほとんど一日それに費やしたようなものだった。



私には、ステンレスにしか見えないのだが… 違うのだろうか?



もう一つのイングランド製の鉋は、其所此処にヒビが入っていたので、今朝はまずそのヒビをグルーで接着することから初め、ドイツ製の鉋の刃と格闘している間中クランプで留めておいた。



刃は錆びてはいたものの、この錆は簡単に落ち、刃を研ぐのも非常に楽だった。





このドイツ製の鉋には、刃を緩める時に叩く箇所に金具が付いていた。
サイの角のような把手もユニークだが、この金具も面白いなと思った。



最後に底を平らに均し(鉋がけし)、丸一日かけて満足に使える状態に仕上げた、西洋の古い鉋たちで、手近にあったパイン材の端切れを削ってみると、このコフィン(棺桶)型の何だか分厚い鉋は、思ったより使い易く、切れ味は想像していた以上に良かった。



さて、大きな期待を持って購入したドイツ製の鉋だが、切れ味が他の鉋と全く違うのだ。
切れ味はいいのだが、削った感触が違うので非常に違和感がある。

このブレード、本当にHenry Boker のものなのだろうか???
うーん、気になる…




「ありがとう」ではなく「すみません」

病院に面会に行き、エレベーターが自分の居る階に来るのを待っている時の光景... 到着したエレベーターから降りる人は、必ずお辞儀をしながら降りてくる。 乗り込む際、最後に入ってくる人もまた、お辞儀をしながら入ってくる。「すみません」と言いながらお辞儀をする人が圧倒的に多い。 また、...