10.1.16

さて、木工に於いてはどうだろう…

私の頭の中にはいつも、かつて祖父が父に助言したという言葉がこびりついていて、どうしてもそれを払拭することができないでいる。

祖父が父に言った言葉…
「お前は仕事が丁寧過ぎるから、仕事に見合った収入を得るのは難しい。それ(木工)を仕事にしない方がいい。会社勤めをして安定した生活を送れ」

60年以上も前に、祖父はその当時の生活水準に照らし合わせた上でそう言ったのだ。

私はその話を『雲の上のお師匠さん』にしたことがある。そして、「あなたならこの祖父の言葉と、父がその助言に従ったことを理解できるだろうと思う」と付け加えたのだが、木工一筋に歩んできた彼には、もしかしたら理解できない(理解したくない)事柄だったかも知れない。彼は困難な時代をガッツで乗り切って来た人だから… 
だが、雲の上のお師匠さんはきっと、私の仕事ぶりを垣間見て思ったことだろう。
「あぁ、それじゃ生活できないよ…」と。


今でも昔ながらのハンド ツールのみで家具、調度品を作り続けている人がいる。そのような人にとっては電動工具などは全くもって不要な物で、神経を使って機械をセッティングしても毎回寸分の狂い無く動いてくれるとは限らない物体を、とても頼る気にはならないというのは、この1年半でよくわかった。

私は電動工具はあまり好きではないし、上手に使いこなせてもいない。だが、例えば買って来た板の厚みを薄くして使いたい時など、鋸、或は frame saw のようなものを使って時間をかけて作業しているのを見たりすると、そこまでする必要があるのだろうかと思ってしまう時がある。また、板厚を半分近くするのに、鉋や planer/ thicknesser で果てしなく削り続けて厚みを減らしているのを見ると、「もったいない」と思ってしまう。削って薄くしたら、半分はゴミとなるだけだ。
frame saw で薄くしても、バンド ソーを使って薄くしても、はたまたテーブル ソーのような物を使っても、最終的には切ったそのままのざらついた板を使うことはなく、機械に頼らない人たちは表面に仕上げ鉋をかけ、機械に頼る人々は、電動サンダー(ドラム サンダー)を使ったり、planer/ thicknesser (電動鉋)を使ったりして表面を綺麗に均すことになる。
仕上げ鉋をかけてしまえば、最初に何を使って板を切ったかなどわからなくなるではないか。違いがあるのか?しかも、そもそも買って来た板自体、機械で加工されているじゃないか...


ステンドグラスの仕事をしていた時にも、私は小さなガラス片を捨てることなく取っておいた。極細かいガラス片は万華鏡を作る時のオブジェクトなどに使え、少し大きめの端ガラスは細かいデザインのものに使ったりできる。




洋裁においても、端切れを取っておいて、パッチワークの材料としたりしたのだ。
そんな私が、削って、削って、削り続けて、材料の半分近くを無駄にすることなどできっこない。

材料の無駄を極力減らすためにもし電動工具が必要であれば、、私はそれを選ぶに違いない。


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電動機械を利用せず何倍もの時間をかけて丁寧に作られた物は、確かに価値があるだろうが、それを理解してそれ相応の金額で購入したいと思う人が今の世にどれだけいるだろう…
もちろん、高名な家具職人が作った物であれば、その"名前の価値"に飛びつく裕福層が居るのはわかり切ったことだが、一般庶民が、例えその高名な人と同等な仕事をしたとしても、間違いなく同じ金額では売れない。
同じか、それ以上の時間をかけて丁寧に作っても、無名な職人の作った物の比較対象となるのは、所詮大量生産のMDFでできたような組み立て家具の値段だったりするわけだ。
それ故、その道で生活して行くためには、品質を落とさず、制作時間を極力減らす工夫が必須となるのだと私は思った。


2013年5月末、私は生まれて初めてスクロールソーを買い、それからずっと透かし彫りを施した作品を作り続けて来たが、しばらくすると、スクロールソーだけで作られた物が私にはとても安っぽい物のように見えてしまい、本格的な木工技術をマスターしなければ、胸を張って人様の前に出せる物を作れないなと思うようになった。
そこで、同居人が呆れるほど、YouTubeで木工関係のビデオを飽きることなく見続け、練習し、どの方法が最も自分が納得できるのかを考えた。

透かし彫りに関しては、スクロールソーを使えば、繊細な透かし彫りを0.5mm以下の誤差でパターン通りにカットして行くことができるようになる。が、同じ程度の仕事をコーピングソー或はフレットソーを使って、どの程度綺麗にできるものなのだろうか?また、以下のような周囲との接点があまり無い箇所のカットはハンドカットで失敗無くできるのだろうか? それらのカットはスクロールソーを使っても、かなりな神経を使うのだ。



コーピングソー或はフレットソーは、ブレードのテンションをスクロールソーほどには強く張れない。近年になって新しく出たものの中には、ブレードをかなり強く張ることができるようになっているものがあるようで、素晴らしく使い易い物のように見えたが、従来の物に比べ桁違いに高価で、気軽に試しに買ってみましょうかという次元の物ではない。
また、手で持って作業するため、どうしてもフレームサイズに限りがあり、フレームが邪魔してカットできない(刃が届かない)部分が出て来る。
スクロールソーを手放して、ハンドツールのみで仕事をするとなれば、製作に制限を課すことになるのは明らかだ。

CNCマシンのような、人間はプログラミングに携わるだけで、実際に自分で切ったり彫ったりすることのない作業には、私は全く興味は無いが、電動工具を使わずハンドツールのみで仕事をするのは、私にはおそらく無理だろう。

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電動工具を使うか否かに関わらず、最終的に仕上がった物が美しいかどうかは、組み立てたときのジョイント部分の正確さと、表面の滑らかさ、そして木目の美しさが大きなポイントを締める。(凝った装飾がふんだんに施された物を美しいと見る人もいれば、シンプルなスッキリしたデザインを美しいと見る人もいるのはもちろんだが、何れにしても、ジョイント部分が綺麗でなければ美しいとは感じないだろうし、表面がザラザラだったらその価値は下がるだろう。"シャビー チック"と呼ばれる物は別として)
高級板をおいそれとは買えない私は、いまだ木目の美しさを語る段階には達していないが、ジョイント部分の正確さと仕上げの美しさは、努力次第でなんとかなる。

最終行程で細かい手仕事を省けば、当然仕上がりは雑なものとなるというのを悟った私だが、2014年3月の時点まで木工用のハンドツールをほとんど持っていなかったことは、以前ここに書いたことがある。
ハンドツールを揃えなければならないが、高品質な新品の道具にはもちろん手が出せず…、インターネット オークションに売りに出された中古の鑿や鉋を買い始める他に方法は無かった。
実際に見ていないツールを購入するというのは、一種の賭けだ。お金を払い、届いたツールが予想を遥かに超えて良かった場合はいいが、予想を遥かに下回った場合の口惜しさは例えようが無い。
幾つかの失敗を経験しても尚、自分が思う通りの綺麗な仕事をするためには、たった一挺の鉋や、鑿や鋸では当然足らず、見つけては買い、見つけては買い… ツールを探す日々はいまだに続いている。

電動ドリルに取り付けて使う forstner drill bit があまりにも切れ味が悪く、大きめの穴をあけるのにかなりなストレスを感じ、仕方なく昔ながらのハンド ドリルも買った。
この中古のハンド ドリルのセットは、程度の良さそうなforstner bit 1本を買うよりも遥かに安かったが、まだ bit の数が足りず、長い間、オークションに古いbits が出て来るのを待たなければならなかった。


何ヶ月も待って、ようやく最近、運良く大きな穴を空けるための bits がオークションに出されていたのを見つけた。
ラッキーにも、私が購入できる価格で落札できたのだが、ドリル本体も付いてきたため、送料は当然増している。まぁ、それでも 25本の bits だけでも$34 + 送料 $8.50(合計 ¥3,300強)で購入できたら安いものなんだろうな… と、いつもそんなことを思いながら落札するのである。



嬉しいことに、古い道具は状態は良くはなくとも、元々の品質が良い物が多く、修理したり錆を落としたりして使い続けることができるという点で、今のDIYショップで売られているようなチープな道具類に遥かに勝っているように私は思う。

オークションで古い道具を売っている人の大多数は、自分が売りに出している道具類のことについてさほど詳しくはなく、刃物の本当のシャープさがどんなものかも知らない場合が多いので、説明に「シャープ」と書かれていてもおそらくシャープではなく、「すぐに使える良好な状態」と書かれていても、ほぼ手を加えなくてはならないということを踏まえて購入しなければならない。

自分で直すことができるというのは大きな強みである。
実際、自分で直せなければ、中古のツールを買うことはなかったわけだが… 

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ソーイング、ステンドグラスから木工に至るまで、昔の道具類と現在の道具類の変遷を見てきて思うのは、総体的に、道具類の質は確かに落ちているということ。技術的に進歩していて然るべきなのに、使っている素材はどんどん粗悪になってきていて、企業の『金銭至上主義体質』がはっきり見て取れるようになってしまっているのが現状だ。
せいぜい数年使えればいい(とは言っても、品質が悪いので最初から素晴らしい使い心地ではなく、手直ししても使い心地がよくなる見込みはゼロである)。壊れたら迷わず使い捨て。どんどん新しいものに買い替えて行く方がいいという風潮になってしまっている現代の生産システムでは、この先質の良い物が増えて行く見込みはほぼ無いに等しい。
そして、多くの人は気にも留めなくなって来ている。道具が悪ければ、間違いなく良い仕事はできないことを。

もちろん中には品質向上に向けてずっと取り組み続けている企業や個人も居るのだが、そのような高品質の物は多くはない。一度に多くは生産できないことに加え、価格競争で粗悪品に負けて、大多数が手を出せない(出さない)物になってしまっている。売り上げが充分無ければ生き残れず、そしてその内にその業界から姿を消すことになる。

少し前、ここで刃物鍛治職人のビデオを紹介したが、その人のように、技術の向上、品質の向上を純粋に追い求め続けている人々が製作した物は、素晴らしいの一言に尽きるが、一般には滅多に知られることは無く、また、もし見つけたとしても、おそらく私には手が届かない価格に違いない。例え50年使い続けられる物だとわかってはいても、おいそれと手を出せない。
「道具は質の良い物を使わなければだめだ」と、父がよく言っていたが、その道具を使ってどれだけ頻繁に、またどれだけの期間その仕事をし続けるかを、まず私達は考えてしまう。そして、安いものに手を出してしまい、予想を遥かに超えた品質の悪さに失望することになる。そこでようやく、『安物買いの銭失い』という諺が現実のものとなるのだが、それでもやはり、何の迷いもなく高価な物を購入できるほど、生活に余裕が無いのが、多くの人の現状だ。

昔、多くの企業は、質の向上を求めつつ、尚かつ安価に、そして大量に生産できる方法はないものかと探求し続けていた。手仕事で作っていたものを機械化し、高品質の物を開発することに誇りを持っていた。
しかし今はどうだ… 品質を落とせるだけ落とし、収益を上げることだけしか頭に無いような企業の何と多いことか。

時代が変わってしまったのだ。
物を大切にする時代は過ぎ去ってしまった。

とびきり安い人件費で、安い材料を使って作られた、『低品質だが購入可能な金額の物』がブランド名を確立してしまった世の中にあって、一つ一つ膨大な時間をかけて製作したものを売っているだけで、ただそれだけで生き延びるのは容易なことではない。


そのような世の中で、私はどのようなやり方をすればいいのだろう?

趣味で物作りを楽しんでいるというのであれば、全て手作業で作品を仕上げるのはこの上なく面白い。いくらでも時間をかけられ、納得できるまでコツコツと作業を続け、そうして一つの物を仕上げたときの満足感は、例えようも無いほど大きい。だが、無名な職人がそのように時間を使っていたら、間違いなく生活の糧は得られない。

教室経営もせず、オンライン講座も開設せず、YouTube 等で広告収入も得ることなく、丁寧に作った物を売るだけで生活するにはどうしたらいいのか… そんなことを考えて、考え続けて、人生を終えそうな気がする。



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