3.1.14

教会に置く十字架を作ることになった

今日は、オークションに出品していた合板で作った Celtic 模様の Cross を落札してくれた人がいた。
支払いをクレジットカードで済ませてくれた上で、もう一つ欲しいんだけどというリクエストが来たので、ちょうど作ったものがあるけれども、材質は無垢のマツ材で、もしそれでよかったら同じ値段でいいですよと、無垢で作ったものの写真を付けて返事を送ると、教会の lectern (聖書朗読台、書見台)とalter の前(私は教会のクリスチャンではないので、どこだかわからない)に置くので、同じものがいいとのこと。

教会に置くのであれば、少々安っぽい感の漂う合板の十字架よりは無垢のマツ材の方が相応しいでしょうと、「無垢のものの方がよかろうと思いますので、2,3日いただければ、もう一つ無垢でお作りしますが、それでよろしいでしょうか?」とemailを送った。

何度かemailでやり取りをし、追加代金を既に振り込んでくれたことと、急がなくていいと付け加えられたemailが夜10時頃届き、今日のやりとりを無事終えることができた。

送り先はこれまで聞いたこともない地名だった為、どこだろうと地図で見てみると、オークランドよりもずっと北の、もう少しで北端に届きそうな場所であった。

私の作った物が、遥か遠くの見知らぬ町の教会に飾られるのか… どんな教会なんだろう? 願わくば、つい最近になって初めて足を踏み入れた Parnell の Holy Trinity のような立派過ぎる建物ではなく、こじんまりした教会であって欲しいなと思ってしまった。

モスクにしても、チャーチにしても、豪華絢爛なのは本来の趣旨にそぐわない気がしてならないのだ。
きっと、そのような所には超高級な装飾品(教会にはご立派な十字架)が飾られているに違いない(笑)
何の為に超高級なものが必要なのかさっぱりわからないが…

そんなわけで、明日、明後日は教会の十字架作りを主として、合間に昨日からの続きの作業をする予定。

今日は珍しく蒸し暑い一日だったが、夜までしっかり働いた(笑)

そうだ、私の作った直系1m越えの睡蓮のステンドグラス・パネルは、仏教徒の瞑想の間に飾られているんだった…

何でも屋だな…


追記:alter とは何ぞやと調べてみたら、祭壇のことだった。



難しくはないが...

糸ノコの細い刃を差し込むための無数の穴。機械に留め付けてある刃の一方を取り外してこの細かい穴一つ一つに差し込み、刃が外れないようセットし直してからパターン通りに切って行く。その繰り返し。


穴をあけ始めてから既に3時間以上経っても、この程度 ↓しかできなかった。


座り続けて腰が痛くなる前に、極細い刃とパターンの線を集中して見続けて目が乾き、不快感でいっぱいになる。

スクロール・ソー自体は危ない機械ではないため、機械で怪我をすることは無いに等しく、この先歳を取っても続けられるとは思うが、視力の低下がどれほど深刻になってくるかがカギだ。既に拡大鏡付きライトのお世話にもなっているのだからな…

このパターンは難しいカーブなどなく、とても切り易いが、切り残す線が比較的細いのでやはり神経を使うことに変わりはない。

あと何時間で切り終わるのか…
加えて塗装(ペイント→サンド→ペイント→サンド→ペイント…)に何時間かかるのか…

今回の作業は何だか果てしなく長く感じてしまう。




2.1.14

繋がり

一昨日、年越しそばの代わりに焼うどんを食べ、同居人は2人とも友達との飲み会に出掛けて行った。

TVを観るでもなく、お酒を飲むでもなく、いつものようにネット・オークションをチェックし(売りに出しているものがあるため)、本を読んでいたらいつの間にか眠ってしまっていた。

同居人がいつ帰ったかも知らず…

元旦の朝、実家の母にe年賀状を送った。
こちらに来てから一度も直筆の年賀状を書いていない。

年賀状ね…
最も愚かな年賀状は、亡くなって2年も経つ人宛に来ていたもので、「旧年中は大変お世話になり…」と書いてあった。会ってもいないのにテキトウなことを書くものではないと大顰蹙を買った。
所詮、どうでもいい相手だと言っているようなものだ。

そのテの『表面だけのお付き合いごっこ』とは無縁の世界に逃れて来られたことを、本当に嬉しく思うと同時に、全く気分の盛り上がらない真夏のお正月が、もう既にごく普通の日と化していることにも、何ら違和感を覚えず、かえって心地よくもあり、昨日も朝からスタジオに下りて行き、ひたすら仕事をしていた。

年が変わると何かが劇的に変化するかのように錯覚しがちな一日…
ただ単に次の日になったというだけだよなと同居人達と話し、今年は「おめでとう」とも言わなかった。

ちなみに、苺売りのマフムートも昨日から通常通り仕事をしているのが家の窓から見えた。ムスリムにとっても特別な日ではないからだろうが、夏の間休みなく仕事に出るのはしんどくはないかと、同い年であるが故に心配になってしまう。

--------------------------------------------------------------


最近読んでいるのは、遥か昔に読んだことのある本で、既に廃盤になっているのかAmazonでは見つけられず、昨年暮れに身内が古本屋を回ってくれて、ようやく手に入ったものである。



一粒の麦もし死なずば

高校時代、仲のよかった男の子の机にそう書かれていたことを思い出した。
その子はお寺の住職の家に生まれ、キリスト教とは無縁の世界に住んでいたはずだが、この本を読んでいたのだろうか…
私はなぜその疑問を彼に聞いてみなかったのだろう?

急にその本を読みたいと思ったのは、ステンドグラスのデザインを考えているときだった。何故かふと『麦』のイメージが頭に浮かび、それからというもの、この言葉が頭から離れなくなったのだ。


どんな内容だったのか全く思い出せなかった私は、取りあえずネットで検索してみることにした。すると、今度は『アルジェリア』の文字が目に飛び込んできた。
高校当時にはアルジェリアの「ア」の字も気に留めることはなかったことは定かであるが、それから数十年経た今は状況が変わっている。

数年前に私の生活に突然飛び込んできた『アルジェリア』。
昔から最も好んで読んでいた二大巨匠 CAMUS も、そして GIDE も深くアルジェリアと関わっていた。

何故なんだ…

この先、その謎が解けないまま私は人生を終えることになるのだろうか…




30.12.13

真実

以前よく買いに行っていた韓国人経営のこじんまりした食品雑貨店の店主(夫婦)はとても愛想のいいカップルだった。
大方のコリアンはおもてなし上手である。

私も何年かそこに通う内にそのカップルと仲良くなり、店の奥でランチを一緒に食べようとか、時にはディナーに行こうとかいう誘いの電話が来るようにもなった。
ランチには大抵彼女の仲の良い韓国人客も一緒で、私の知っている韓国語は簡単な挨拶程度のみだったので、彼女達が時折韓国語で話していた内容は全く理解できず、ただ彼女達の顔色を見て、決して楽しそうな話しじゃないなとだけは察することができたものの、まぁ、私には100%関わりのないことだけは確かなので、取り立ててその話に入ろうとは思わなかった。

そのカップルには娘が二人居た。娘達は学校が引けるとその店にやって来て、店が閉まるのを待って一緒に帰ったりしていた。
当時、私の同居人の一人は、その店から歩いて数分の所にあるカレッジに通っていた為、同居人を迎えに行くついでに買い物を済ませることが度々あったことから、同居人もその店主の子供達と何度も会い、会話もしていたが、親しくなる気は無かったようで、その娘達の目つきがすごく悪いのは何故なんだろうねと時折口にしていた。
両親ともあんなに愛想がいいのに、娘達は何故(目つきだけではなく)態度も悪いのだろうと、しばらくは理解できずにいた。

その店に通い始めて数年後、そこで知り合いになった日本語が堪能な韓国人客の一人に、私の工房で働いてくれないかとお願いした。
彼女は韓国人にしては珍しくつっけんどんで、態度も大きく、愛想など振りまこうと思ったことも無いように見える人だったが(笑)、ある時、彼女も一緒にランチを食べようということになり、彼女が手料理を持って来てくれるというので楽しみに待っていたのだが、予定の時間になっても彼女は現れず、数十分遅れて彼女から連絡が入り、急な用事ができて来れないので、彼女のパートナーがお料理を届けてくれるとのこと…。電話が切れると同時に彼女の手料理はやって来た。

その時私は確信を持って、彼女は信頼の於ける人に違いないと思ったのだ。
彼女の手料理はすこぶる美味しかったが、例え美味しいとは思わなくとも、私は彼女に働いて欲しいと話を持ちかけたに違いない。
後に彼女が、「何故私を雇おうと思ったんですか?」と聞いてきたとき、私は上記の話しをした。ぶっきらぼうで、突慳貪で、(私と同じで)気の強さが体中から溢れ出ていたけれども、約束したことはしっかり守る。自分を必要以上に良い人に見せよう(演じよう)と思わない人だからこそ、あなたを誰よりも信じられる人だと思ったんだと。

その彼女が私の工房に来るようになって、私達の『何故店主の娘達はあんなに目つきが悪いのか』という疑問がはっきりわかるようになって来た。

子供たちの目つきが悪いのは、誰のせいでもなく、正に"親"の根性の悪さの現れである。
外でどんなに愛想を振りまいて『善良な人』を演じていても、家で四六時中誰かの悪口を言い続けていたら、子供はそれを確実に見習ってしまう。
例え子供が一日のほとんどを祖父母と暮らすような環境であっても、親の影響力というのははるかに大きいのだ。

『子は親を映す鏡』おそらく、この諺に当てはまらないケースは多くはないだろう。前述の店主のように、外面と内面が極端に違うケースというのは珍しいことではないのだ。特に日本のように『善良さを装う』ことに慣れ切ってしまっている社会では尚更だろう。

誰かに隠れてコソコソ何かをして喜んでいるような人の子供は、cheat (ごまかす、欺く)することに対して何ら罪悪感を抱かなくなるものだし、それ以上に、何に対しても不信感を抱くようにさせてしまうように思えて仕方がない。
また、そういう人に限って、何故か加害者意識ではなく被害者意識を強く抱いている傾向があって、自分を弱く見せることで同調者を自分の側に付けることに成功していると思い込んでいるようなふしがあるが、実際は、自ずから、甚だしく信頼の於けない人、人を欺いて(あざむいて)自分の立場を優位にしようと試みる不心得な輩だということを暴露しているようなものだということに全く気付いていない。


ある知り合いの日本男児は、中国人のパートナーとの間にできた子供を、不本意にも中国に居る彼女の両親にあずけられてしまい、パートナーの言いなりになって、家を買う為だけに血眼になって働かされている。そして、その実態を日本に居る家族にはとても言えず、季節の全く違う国で撮った子供の写真の服装で真実がバレるのを恐れ、服装をこちらの季節に合わせて写真を撮ってくれるように頼み、その写真を実家にemailで送り…
あぁ、なんてことだ。次に彼の家族が孫/甥と対面する時に、孫/甥は日本語はおろか英語も話せず、中国語しか話さない子になってしまっているじゃないか… そこで真実がバレる可能性があることを何故考えなかったんだ?
自分を産み育ててくれた親が、子供にずっと騙されていてよかったと感謝するとでも思ったのか?



誰かを悲しませないようにと嘘をつく人よ、あなたは欺かれることがどんなに悲しいことか考えたことがありますか。



26.12.13

unwanted gifts

クリスマスから一夜明け、ラジオではボクシング・デー・セールのコマーシャルを流し、NZ最大のネット・オークション・サイト Trade Me にはこんな広告が出るようになった。

もらったけれども要らないギフトをオークションで売りましょうというこの広告… 人々は何のためらいも無く、親しい人からいただいたプレゼントを UNWANTED GIFT と堂々と書いて売っているのだろうか?

何の為にプレゼントをあげたり頂いたりしているのだ??? 全くバカバカしい習慣だとは思わないのか? お金と時間を使って相手に取って不必要で邪魔になるものを探し、更にお金をかけてギフト・ラッピングし、わざとらしい作り笑顔を受けとった後は、『要らないギフト』と書かれてオークションで幾ばくかの金銭にしようと試みられるのだ。そんなことを毎年繰り返していて何が楽しいのだろう?

クリスマス直前は毎年のように、クリスマスにまつわる話しで盛り上がるラジオの視聴者参加型番組… 仕事をしながら何とはなしに聞いていたら、今年はたった一人のリスナーが「商業主義と化した現代のクリスマスには何の神聖さも感じない」と電話でコメントを寄せていた。
私はそれを聞きながら、「クリスマスなんて初まりからそのようなものじゃなかったのか?」と更に冷めた感想を一人でつぶやいてしまった。

何か買いたかった物がある人は、取りあえずオークションで新品のunwanted gifts を探し始めていることだろう。


こんな風でも、やはり来年もその次の年も、クリスマスのプレゼント合戦は続くのだろうな… 

この広告も、正に商業主義(営利主義)そのものだな…






18.11.13

昔、Capella は風だった


どこの漁港だったか覚えている。

34年ほど前にアイツが買った車は、力強く、尚かつとても美しい形をしていた。

色はグリーン。5速… 車に全く興味の無かった私は、この車についてその程度しか覚えていないのだが、当時写真の勉強をしていた私が撮ったおびただしい数のモノクロ写真の中に、このカペラが写ったものが数枚あった。

これは、手元にあったネガフィルムを同居人がスキャンしてくれたもので、この写真とともに、若かりし頃のアイツの写真も、emailに添付して送ってくれた。

風のカペラ… アイツは車に関しては趣味が良かったなと、今更ながら思った。

そして、写真の構図に関しては、イマイチだったなと思った。




6.11.13

Isle Of Man の3本足


国内のオークション・サイトでリクエストが来た Isle Of Man のシンボルを配した鍋敷きは、先週末オークションにリスト・アップし、Buy Now Price にて即完売。
速攻でクレジットカード支払いを済ませてくれた為、厳重に梱包して急いでポスト・ショップまで車を走らせ、投函後落札者にお礼のメールを書き、既に送ったこととトラッキングNo. を知らせておいた。

落札者はダニーデンという南島でも最南端の方に住んでいる為、到着までには3営業日以上かかるかも知れないなと思っていたのだが、予想していたよりも若干早く届いたようで、届いたその日にはオークション・サイトにフィードバックを書き込んでくれてあった。

とても喜んでくれているのが伝わってくるフィードバックで、それを読みながら、「制作者冥利に尽きるな」と、おそらく私の方が喜んでいたに違いない。

特に、円形のものは良しとして、同時にリクエストされた四角形のものは、「3本足のデザインをどうやって四角に収めたらいいんだ??? しかもデコレーションも付けなくてはならないし…」と考えあぐね、デザイン画を眺めては、配置を若干動かしを繰り返すこと1日半… もうこれ以上動かしようが無いという境地に至って始めて木をカットすることに取りかかった次第である。

それぞれの踵に付いている星はカットする部分を変えて変化を付けたが、正直なところ、どちらを気に入ってくれるか皆目見当もつかず、かといって、オークション・サイトのQ & Aには電話番号やemail アドレスなど個人的に連絡を取る可能性のある書き込みは禁止されているので、細かい点まで要望を確認できず、「本当にこのデザインでいいのかな?」と終始悩みっ放しの製作… 
「まぁ、気に入らなかったら買ってくれなくていいや(=売れ残る可能性大)」と、ある意味開き直らないと出品できなかった作品である。(それ以前に、リクエストは来たが、何処の誰とも知らない人が、本当に買うかどうかも定かでないシロモノを、何日もかけて一生懸命に作るということは『賭け』以外の何ものでもない)

万が一『作り損』だったとしても、知識が一つ増えたことには違いないし、面白かったからそれだけで良しとしようという気持ちであった。

wow .. excellent Trader to deal with.. Very Happy with trivet.. 
Many Thanks .. :)

喜んでもらえて本当によかった。


27.10.13

二寒五温というところかな?

暖かくなり始めてきたオークランド。今日の最低気温は13℃、最高気温は18℃と出ていた。気温を見るとさして暖かくないような気がするが、日向にいるとジリジリと焦げるような感覚である。


一冬越したリンゴの木が一気に芽吹いた。主張し過ぎていない、可憐なとても美しい花だ。



オレンジの木にも満開の花。こちらは地味な花だな。


花に囲まれながらサンディング、ペインティング... そしてペイントを乾かしている間に次の作品を作り始める。



最近はステンドグラス用にライトボックスも作り始めたが、クリスタルの置物の方が光り輝いて綺麗に見えた。おそらく今回使用したLEDライトのせいだろう。



********************************


今朝、オークションに出品してる木工品の一つに質問が来ていた。

「ハーイ、あ〜、馬鹿げた質問なんだけど... 特別なデザインでカットしてもらえるかな?外側は似たような感じで、まん中に Isle Of Man の3本の足を配したの、できるかな? よろしく!マイク」

Isle Of Man って何ぞや???とgoogleで検索してみると... お〜、確かに3本の足だ。
面白そうだなと思った。
質問者はそこの出身の人だろうか、はたまたバイクレース好きか...

Isle Of Manはとても美しい小さな島で、のんびりと島を一周する旅というのもなかなかいいなと、Youtubeのビデオを観ていたらいつの間にかうたた寝してしまっていた。

バイク好きだった彼の人を思い浮かべながら、3本足のシンボルを配した作品をデザインし始めた今年の Labour Weekend。

明日10月28日(月)はNZでは国民の祝日 Labour Day のため、ほとんどの企業やら商店が休みとなり、営業しているレストランなど飲食店では surcharge(サーチャージ:割増料金)を客に請求するのが慣わしになっている。これは、国民の祝日に労働させた場合には、経営者が労働者に祝日出勤手当を支払わなければならない法律になっているためなのだが、この国では経営者が収入から手当を捻出するのではなく、客が労働者の祝日出勤手当を負担しているという面白いシステムになっている。
「面白い」と書いたが、外食はけっこう高い上にサーチャージまで加算されたら面白い筈がないので、我家は祝日に外食するなんてことは滅多にない。


明日は、天気がよかったら久々にパンでも焼こうかな...




5.10.13

薔薇の季節

辺りが霧に包まれていた朝、同居人がタバコを燻らせながら、「薔薇が綺麗だよ!」と私を呼んだ。
今年一番に咲いたベランダの真っ赤な薔薇に細かな霧が舞い降りていて、何だかとても綺麗だった。

あの日から丸15年が過ぎる明日... 
長かったのか、短かったのかわからない。
ただ、今朝目が覚めて、人生の残りの日数を数え始めるのにはまだ少し早い私の "暇つぶしの人生" は、まだまだ続きそうだなとだけ思った。




明日は晴れるかな?



25.9.13

木工にハマるオヤジの気持ちがよくわかる

日毎に口数が減ってきている。

元々オシャベリ好きではなかったが、日中一人で作業している時は一言も言葉を発せず、ほんのわずか、食事の時にだけ同居人と言葉を交わす程度で、食事が終われば自分の部屋で本を読んだりYoutubeで木工の勉強をしたりして一日が終わるという生活...。
おそらく私は寡黙な父に似たのだろう。


さて、日本のステンドグラス・クラフターの方々が簡単に手に入れられる(購入できる)木枠とか、パネル・スタンドとかは、NZではほぼ手に入らない状態なので、かねてから木工もプロ並みにならないとな...と考えていたのであるが、scroll sawを手に入れてからは、キャンドルホルダーの台座作りも難無くこなすことができるようになり、サイズ、形など制限なく作れる上に、既製品にはない装飾まで入れられて嬉しい限り。
また、木枠、box作りなどもプロの技術を家に居ながらにして習得できるのは、Youtubeのおかげである。


ちなみに、私の使っているリョービのテーブルソーは手頃な値段のこじんまりしたもので、ステンドグラスのスタジオからゴロゴロと裏庭に引っぱり出して使うのにちょうどいいサイズなのはいいのだが、テーブル面が狭過ぎて大きな合板などの板をジグを使って切ることができないのが難点。補助テーブルまで作る元気が無いので、仕方なく、大きな板はジグソーで大まかに切って、テーブルソーに乗る程度のサイズにしてから正確な寸法に切り直している。
まぁ、延々とノコギリで切らなければならなかった父の時代のことを思えば、ずいぶんマシである。


テーブルソーに取り付けて使うmiter sled も最近作った。フレーム作りには欠かせないジグ(jig)である。(日本語の『治具』は当て字だったんだ...)
今まではノコギリを使って切っていたため、正確な45°を切り出すのにそれはそれは苦労していたが、これからはこのジグであっという間にプロ並みの美しいフレームが出来上がるのだと、製作を殊の外楽しみにしていたのに、昨日も今日も雨、また雨... よって、庭にテーブルソーを出せなくて作業できず。(狭いスタジオの中では木屑が舞い上がってとんでもない状態になるので、やはり使いたくない)

仕方なく、今日もスクロールソーで鍋敷き作りとなった。


裏庭に植えた安い花は元気に一冬越して満開になっている。
昨年植えたリンゴの木は、ビロードのような芽を出し始めた。
同居人達がはるばるHamiltonまで車を走らせ買って来た梅の木も、すこぶる元気だ。
庭の其所此処に生えてしまったイタリアンパセリ... 抜いても抜いても色んな所から出てきてしまう。
コリアンダーも水菜もよく育った。
育ち過ぎたパイナップルセージはどうしよう... パイナップルセージを使った料理のレシピを探さなくては...


明日は晴れてくれるといいなぁ...





22.9.13

Name in Hebrew

政治的なこと、宗教的なこと等々抜きにして、最も感覚的にギャップ(隔たり)を感じる国から来た友達が私に付けてくれた名前...

その名前をその国の文字のまま透かし彫りにした手鏡を作って、facebookにupした。
おそらく、それを見たイスラム教徒の多くは離れて行くことだろう。



私達は何を基準にして物事の善悪を判断しているのか...

自分の身辺に起こったことが独自の判断基準になっているのならいざ知らず、日常的に目にしたり耳にしたりする極めて"定かでない"情報(真しやかになされる報道)によって、非常に偏った意見を持たされてしまっている危険性が全く否定できない世の中にあって、何を信じろと言うのであろうか。

生きるのに困難な時代になると、宗教というものが勢力を拡大するというのは言わずと知れたことだが、私には宗教というものがどうにも無用な敵対心を煽るものにしか映らず、全ての悪の根源がそこに根ざしているように思えてならないのだ。
かといって、『無宗教』を声高に叫ぶ気にもならないのは、『無宗教』という名を盾に、したい放題を働くことを正当化する輩が鼻についているからなのかも知れない。

昔、聖書を熱心に勉強する人たちと共に居たことがある。
誠実を絵に描いたようなその人たちは、常に穏やかで、戦闘的なところなど一つも無く、お金に対する執着も無く、ありとあらゆる権力に媚びることも無く、すこぶる礼儀正しい集団であったが、私は最終的にバプテスマを受ける気持ちにまで至らず、次第にその集団とは距離を置くようになってしまった。

どの宗教団体にも言えることだが、自分達の神の教え以外は受けつけることは無い。(当たり前のことだが)
その差別化するという行為が、私にはどうにも受け入れられなくなったのは、ここに来て様々な国から来た人たちと暮らすようになってからだ。

聖書を勉強している人たちがあれほど忌み嫌っていた"教会のクリスチャン"の中にも、素晴らしく善良な人が居て、ムスリムの中にも誠実で何の欲にも支配されていない人が確かに存在している。ムスリムとの終わらない争いに嫌悪感を抱き、国を出てきたジューイッシュも居る。

そんな人たちと腹を割って話しをするようになった時、私は何を教わってきたのだろうと思った。

この世に存在する"人が作り上げた"宗教というものは、人を戦闘に向かわせる為に作り上げられたもののように思えてならない。

誰かの悪意によって作り上げられたものに振り回され続けることを阻止できるほどの、偉大なるパワーを持った何ものかが、この先現れると確信できる人は幸せである。しかし、そのパワーが宗教の名の下に発揮されることがないようにと、私は心から願っている。



日本に荷物を送る準備

YouTube で犬のコートの製図を教えてくれているのを見つけ、早速製図し、まずは試作品を作り、その後超個性的な生地を使って本番に臨んだ。 製図はいたって簡単だったが、最初に使用した布は手持ちのやや厚手のフリースだったため(緑色の布は、以前作ったもののほとんど着用しなかった自分用...