3.12.14

アロマ・ボックス/ポプリ・ケース出来上がり

夏になったというのに、最近冬に逆戻りしたかのように寒い日が続いていたが、今日はようやく夏らしい清々しい天気になった。それでもやはり気温は20℃を切っていた。

ここ数日間、アロマ・ボックス/ポプリ・ケースを作っていた。
スタジオにストックしてある板の厚みをノコギリで半分にすることから始め、厚みを鉋で削って揃え、表面をすべすべになるまで鉋がけ…。
それから6角形の箱の部分になる面を一枚一枚正確にカットし、シューティング・ボードを使って全ての角が直角になるよう鉋で丁寧に削って行く。更に、両サイドを鉋で60度に削る。何度も何度も角度をチェックし、6枚全てのサイズが同じになるように薄皮を剥ぐように鉋をかけて行く。

その後、蓋と底板をはめ込む為の溝をStanley No.45 Combination Plane で作り、ようやく組み立てに入る。箱の部分が出来上がったら、今度は蓋と底板のサイズを慎重にチェックしながら、ピッタリのサイズになるよう切り出す。まずは若干大きめに切り、ここでもやはり鉋を使ってサイズを合わせて行くのだが、この作業は箱の部分を作るよりも遥かに楽だった。

底板を木工用ボンドで接着し、蓋部分の透かし彫りに入る。
この透かし彫りに何時間かかっただろうか… 3時間経った後はもう時計を見るのもばかばかしくなってしまって、その後どれだけ時間を費やしたのか覚えていない。
切り出した直後の裏面はガサガサで、この後サンディングは必至である。



鋭い角を細かい目のサンドペーパーで滑らかにし、最終仕上げの鉋がけも終わり、オイル処理をした後乾燥。
あー、もうこれでお終いにしようかなと、写真を撮ってしばし考えていた。


が… これではプロっぽく見えないじゃないかと、更にもう一手間自ら増やすことに…。

Spline と英語では言うが、日本では何と言うのだろう?補強の為の板を6角形の角に上下2カ所ずつ入れることに決めた。
 補強の板厚は3ミリ。鉋で削って均一の厚さになるよう、雲の上のお師匠さんが教えてくれたジグを作って、厚みを確かめながら削る。これを切れ目を入れた本体にボンドで接着するのだが、補強がアクセントになるように、今回はNZ Rimu の端切れを使った。


昨日は補強をボンドで接着し終わってすぐに夕食の準備に取りかかったため、今日は朝からこの出っ張った補強板を綺麗にトリムすることから始まった。
まず薄刃のノコギリで余分な部分を慎重に切り落とし、次にシャープに研ぎ直したノミで丁寧に丁寧に出っ張っている補強板を平らに削いで行く。
その後目の細かいサンドペーパーで軽くサンディングし、オイル仕上げ。
ようやく出来上がったものは、自己評価で70/100点というところだろうか。

まだまだ父の足下にも及ばないなと実感した。





30.11.14

鉋がけの毎日


鉋がけの仕上げはシャープに研ぎ直した刃で極薄く削って行き、板の厚みがほぼ均一になるよう整える。(caliper で測って100%誤差がないように削れる人がこの世に存在するのだろうか?)表面は滑らか且つシャープで、サンダーで削って均した面とは明らかに輝きが違う。


スクロールソーの扱いにもすっかり慣れ、最近は透かし彫りを施した箱ものを作るようになった。箱ものは時間ばかりかかって売れるかどうかわからないという難点はあるものの、売ることだけを考えているとチンケなオーナメントのようなものばかりを作ることになり、自分がまるで進歩していないように思えて落ち込んでしまうため、もうどうでもいいやと開き直って、自分の技術を向上させるものを作ることに決めたのだ。

これは卓上ペンケースとして作った。蓋の透かし彫りの裏には色ガラスが入っている。光に照らして見るものではないので、透明性の低い色ガラスを使った。
他のどこにも売っていない、私だけが作る物である。



27.11.14

リンゴの実とブルームーン



最近ようやく夏らしい気候になってきて、裏庭のリンゴが実を結び始めた。
そして、この夏初めてのベランダのブルームーンも美しく、また香しく姿を現し、清々しい夏の初まりを告げてくれている。



こんな気持ちのいい日に、私はスタジオに隠って一日中鉋がけ。
合間に今週始めから作り始めたペンケースにシェラックを何度か塗ったが、数日前 facebook page を非公開に設定したため、作業途中の写真は撮らなかった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。(ヨハネ第一2:15) 

facebook は正に『世にあるもの』そのものにほかならないよなと、しみじみ思った。


14.11.14

妖精の住む森...


注文しておいたLED ライトが届き、ようやく出来上がったステンドグラスのバードハウス。家中を歩き回って撮影場所を探し、撮った写真の中でこれが一番好きだった。
まるで妖精が出てきそうな感じのする灯りとでも言おうか…

下の写真の棒ハンダ1本の値段はNZ$9.90(今日現在、日本円にして904円強)。これを3本使ったため、ハンダだけで2,700円以上の経費がかかっている。LEDライトはNZ$6.00 (約548円)... ガラス、銅のテープ、電気代を含めて、いったい幾らで売れるのだ…

こんな高いもの、NZではまず売れないだろうななどと思いながら、やや面倒な組み立て作業をしていたら、無性に投げて割ってしまいたくなった。私がもしまだ若かったら、きっとコンクリートに打ち付けて粉々に割っていただろうが、もうそんな気力も無くなってしまい、おそらくNZではこの仕事で食べていける人はいないだろうと考えながら、家計の足しにもならないだろう作業を続けていた。空しさで胸が詰まった。

さて、明日は何をしたらいいのだろうか...


5.11.14

2014年の林檎の花



昨年は10月半ばには満開だった庭の林檎の木だが、今年は約一ヶ月遅れで花が開いてきた。
今年の冬は寒かったということかな? 何だか色々あり過ぎて、気温のことに など気にしてもいなかった。


今日は思いつくままにミニチュア・バード・ハウスを作っていた。パターンを作らず、直接板に線を引き、感覚で大きさを決めながら作っていったが、こうやって作るのはけっこう面白い。
がさついた板を鉋でスムースに均すことから始め、45度のカットも、角を丸くするのも全て鉋。
小さなホビー用鉋は、以前息子からお土産にもらったもので、日本製だ。替刃も何枚か買って来てくれたが、まだ切れ味がよく、研いで使えばかなり長持ちするだろう。

バードハウスの屋根の継ぎ目が見えない程度に綺麗にできた。テーブル・ソーなどでカットしたらここまで正確に合わせることはできない。シャープに研いだ鉋の刃で薄皮を剥ぐように角度を合わせて行って、ようやく吸い付くような切断面ができるのだ。

鉋がけは決して簡単ではないが、平らな面が出来上がって来る時の喜びは何にも代え難い。




さて、明日はペイントだ。


30.10.14

CANAAN

何故なのか理解に苦しむのだが、facebook に投稿した CANAAN の製作過程を信じられないほど多くの人が読んでくれている。CANAAN の単語の意味を知っている人ばかりではないと思うのだが、何が興味をそそっているのか…

私は、ただ一人がそれを見て何かを感じてくれたら満足だった。そして、確かにその人は私の投稿を見てくれて、私が伝えたかったことを理解してくれたということがわかった。私は売る為にそれを作ったのではなく、ただ一つの事を伝えたくて作ったのだ。ただ一つのこと… お互いがこの世から居なくなる時に思い出せますように...


私の作る物は大量生産品ではないから、万人受けしなくてもいい。たった一人の人の心に残るものであればいい。けれども、いつ現れるかもわからないたった一人の人に巡り会うのを待ち続けるこの生活が、いつまで続くかわからないという恐怖に時折襲われながら、踏ん張り続けることが果たしていつまでできるだろうか。

『世に流されない』生活なんて、所詮夢物語でしかなかったと、最期に神に愛想を尽かせたら、CANAAN は永久に私には無縁のものとなる。




27.10.14

これ、誰が買うのだろうか? 第二弾


 文字を切り出し、サンドペーパーで一度目のサンディングを施した後、下地としてクリアーシェラックを二度塗り。その後#250のサンドペーパーで表面を均す程度にサンディング。そして更にクリアーシェラックを重ね塗り。それが乾いたところでもう一度シェラックを重ね塗り。そして、シェラックが完全に乾くまで待ち、その後#0000のスチールウールで丁寧に磨く。余分な粉を取り払い、スチールウールにビーズワックスを含ませた物で更に磨く。
最後に、清潔な木綿のボロ切れでワックスを拭き取ると、シルキースムースな輝く仕上がりの作品が出来上がる。




仕上がりまでに最低3日を要するなんてことを、通常消費者は考えたりしない。


26.10.14

ALEGRIA (CEBU)


モノクロ写真ではないのがわかるだろうか…

木工を本職としている人からは、もしかしたら邪道だと言われるかも知れないが、私は濃いガーネット色のシェラックを下塗りした上に黒のペイントをむらに重ね塗りして、独自の色を作った。


仕事用にスタジオのお気に入りの撮影場所で逆光で写真を撮ったら、一瞬モノクロかと感じる写真になったが、私はモノクロ写真よりもこの少し茶色がかったカラー写真の方が好みである。


明日 CEBU という文字を切り出そうかと思っている。


16.10.14

癒える悲しみ、癒せない悲しみ

昨日、facebook上の友達を一人削除した。そしてその旨を相手にメッセージで伝えた。
その人はとても良い人だった。とても良い人だったので、私は友達でいない方がいいと思ったのだ。友達でいたら、この先もその人が善意でしていることにケチを付けてまわることになりかねなかった。

私は、聖書の伝道の書7章16節に『義に過ぎる者となってはならない』と書かれていることを知っていながら、言わないではいられないことが幾つかあった。その人を非難する為ではなく、その人が世に流されないようにとの思いでしたことであったが、その人を気落ちさせるのには充分な引き金となったに違いない。
そうこうしている内に、次第にその人がのびのびと自由に発言することを控えるようになり、善良さがくすんで行くように感じるようになってしまった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの — 肉の欲望と目の欲望、そして自分の資力を見せびらかすこと — は父から出るのではなく、世から出るからです。さらに、世は過ぎ去りつつあり、その欲望も同じです。しかし、神のご意志を行う者は永久にとどまります。 (ヨハネ第一2:15-17)

この世に生きながら、この世のものに染まるなというこの聖句に完全に自分を当てはめられる人は、おそろしく強靭な精神力を持った人だ。あのモーセでさえ完璧ではなかったのに、どうして一庶民がそのようにできようか… しかし、そう思いつつも、私はその人にそうあるべきではないかと暗に伝え続けていたのだ。もし仮にその人が敬虔なクリスチャンだと知らなかったなら、おそらく(他の人と同じ程度に希薄な)友達関係は続いていただろうが、その人とはどうでもいい希薄な友人関係を保つ気は無かった。


私は一体何をしているんだ…

本当はとても大切な人だったかも知れないのに、自分から退けてしまった。
いや、大切な人だと思ったから退けたんじゃないのか…  私はその人に取っては羊の皮を被ったオオカミでしかないのじゃなかろうかと、そんなことが頭の片隅にいつもちらついていて、それでも尚、羊の皮を被り続けることに良心の呵責を覚えたから身を引いたんじゃなかったのか…

その人はこんなことになって悲しいけれども、私の希望通りにするとメッセージを送ってよこした。
私自身、悲しくないなんて口が裂けても言えない。でも、この悲しみはおそらく一時のもので、お互いにとって一生尾を引く悲しみではないとはっきりわかる。
これは死ぬまで癒えない悲しみではない。

死ぬまで癒えない悲しみというものは、誰に何を諭されようとも、更には神がどんな慰めを与えてくれていようとも、何の助けにもならないほど深く心に刻み込まれてしまっていて、正にキルケゴールの言うところの『死に至る病』に他ならないのだ。






14.10.14

これ、誰が買うのだろうか...


今朝、「これ、誰か買う人居るのかな?」と首を傾げたくなるほどレアなワードアートを切り出した。:) 作りながら、大量生産品にはおそらくならないと思われる希少価値のあるワードアートを作って売るのも面白いかもなと、そんなことも考えた。

私の頭の中で ALEGRIA / ALGERIA がず〜〜っとず〜〜っと燻っていて、まぁこれは売れなくても自分のアトリエに飾っておけばいいからと、クラフトマーケットを直後に控えているのにも関わらず、マーケットそっちのけで自分の世界に入り込んでしまっていたが、この写真を撮ってfacebookにアップするとすぐにLikeしてくれた人もいて、こんなマイナーなものでも良いと思ってくれる人がいるんだと改めて思った次第である。

ちなみに、ALEGRIA(アレグリア)はポルトガル語で、歓喜とか幸福とかいうとてもポジティブな意味を持つ単語なので、JOY とか HAPPINESS とかいう平凡なワードアートを部屋に飾る気持ちの無い(私のようにちょっとひねくれた)人には、もしかしたらウケるかも知れない。

これを切り出した後、サンドペーパーで角を取り、ざらついた切り口を均し、シェラックを二度塗りして自然乾燥… 明日また表面を目の細かいサンドペーパーで丁寧に磨き、明日の気分でシェラックを更に重ね塗りするか、はたまた黒のペイントを上に塗るか… 出来上がりがイメージしているものと違わないといいなと、ペイントで度々失敗している私はちょっと心配になっている。






7.10.14

嫌悪

私はこの世にある"宗教団体"というものにつくづく愛想が尽きた。

ある知人は寡婦で、聖書を一度も読んだことがないのに、キリスト教会に属していれば皆が無償で助けてくれ、おかげでビジネスがトントン拍子に上手くいっていることをとても有り難いと言い、生活に困窮しつつある私も助けを得られるよう、教会の信者になるようにと強く勧めてくれた。
私は断った。そんなふうに善意(憐れみ)を"利用"して楽をするくらいなら、のたれ死んだ方がマシだ。

あるキリスト教会の牧師たちは、信者を増やす為に、教会の施設を使って一般向けにステンドグラス講座を開催しようと試みた。
私に講師を引き受けることができるかと話があったので、内容を聞きに行くと、教会としては講師料は払うつもりはないが、生徒が支払う受講料の一部からほんの少し謝礼(ガソリン代の足しにもならない程度)は出せるかも知れないとのこと。私が、教室で教えるとなるとある程度の工具やら研磨機を用意しないとならず、元手がかかり過ぎると伝えると、その掛かった費用は生徒に負担させればいいと平然と言うので、生徒が受講料(教会の収入であって、私の収入にはならない)を支払った上に、工具やら器具の金額を上乗せされた高額な材料費を支払わされるのは誠に気の毒であるし、私はそのようなことを平然と行うことができないと、その話は断った。
教会側はびた一文損をすることなく、他人には薄給を強いて、万事上手くいくと信じて疑わない傲慢さに吐き気のする思いであった。

私が知る仏教の僧侶は、信者からのお布施をあてにして生活している。生活の全てがお布施/寄付金で賄われるのを当然のこととして、何処に行っても無料で宿泊し、無料で食事を与えられ、欲しい物は全て無料で手に入れる。
私のところに仏像の後ろに掲げる蓮の花のステンドグラスのパネルの依頼が来た時には、ある信者が全額負担するというので、「金額は気にせず、できるだけ大きな立派なものを作ってください」と僧侶から私に直接希望が入り、本当にそれでいいのかと信者に確認をとると、「そんなにはお金は出せない」と青くなっていた。

高校時代、同級生に寺の住職の息子がいた。
時々その子のお兄さんが学校に迎えに来ていたが、お兄さんは既に僧侶になっていて、私用で出掛ける時にはカツラを被って出掛けるとのことだった。お布施はカツラの費用を賄ってもいるなんてことを、考える人がいるだろうか?(笑)
何の為にお布施をしているのか、よくよく考えた方がいい。

ここオークランドの或る地域では、宗派の違うイスラム教徒同士の小競り合いが絶えないらしく、暴力沙汰にまでなってしまっていると報道されたことがあった。

キリスト教会の牧師が戦闘機に乗り込む兵士に祈りを捧げている戦争時代の写真を見たことがある。一体何を祈っていたんだ。人を殺しに行くなと止めるのが本来の仕事じゃなかったのか?


なぜ私がこんなことを書いているかと言えば、世の中にはまだ誠実で善良な人々が少なからずいるのに、その善意に満ちた人たちを欺いて、真実を闇の中に葬っているとしか思えないような、偽りの教理を真しやかに教えている宗教団体が溢れかえっているからだ。

無性に腹立たしくてならない。





日本に荷物を送る準備

YouTube で犬のコートの製図を教えてくれているのを見つけ、早速製図し、まずは試作品を作り、その後超個性的な生地を使って本番に臨んだ。 製図はいたって簡単だったが、最初に使用した布は手持ちのやや厚手のフリースだったため(緑色の布は、以前作ったもののほとんど着用しなかった自分用...