1.6.15

『教わる』or『学ぶ』

雲の上のお師匠さんはとても優しい人で、自分が長年苦労して築き上げてきた木工に関するノウハウを、懇切丁寧に世界中の人々に教えてあげている。

彼が時間をかけて作ったビデオやら本やらブログやらを見て、多くの人はいとも簡単に職人の技を習得できるようになるのだが、彼のフォロワーの内の幾らかの人は彼の生活の糧になる購読料/受講料などを支払って技術を買ってはいるものの、数多の人はそれらを無料で入手することを望み、また要求していたりもする。欲深さというのか、虫の良さというのか、そういうものを雲の上のお師匠さんは感じたりしないものなのかなと、度々思うことがある。

彼は善良な人なので、質問を受ければ極めて真摯に一つ一つに回答し、人々にわかり易いように図解したり、写真を撮ったり、わざわざビデオを撮り、編集したりし、できうる限りの努力を惜しまない。
では、質問した側はどうかというと、彼以上に頭を使って考え、試行錯誤している人が多いようには、私にはどうしても思えない。『おんぶに抱っこ』状態とでも言おうか、お師匠さんがアップしている写真を見れば、どのような作りになっているのか察しがつくだろうにというようなものまで、やれサイズを教えてくれだの、作り方を丁寧に教えてくれだのと、何の努力もしないで要求だけをコメントして来る輩まで居る始末だ。

『教わる』ことに馴れっこになっている人というのは、創造性に欠けるのか、はたまた自分で時間をかけて考えるのが面倒なのか、速攻で『聞く』という体勢に入るのが習わしになっているように感じる。

私がステンドグラスを勉強し始めた頃、私の周りの教室生たちはこぞってティファニーのレプリカランプを作っていた。5年以上教室に通っていた人も多く、さすがに高級なガラスをふんだんに使い、見た目は立派なものが出来上がっていたが、それらは所詮 "コピー" でしかない。どのようにして作るのかと言えば、既製のパターンを使い、既製のモールドを使い...、考えるのはどのガラスを使うかということだけ。色彩感覚の良い人は選ぶガラスで個性を発揮しようとするが、たとえ色彩が調和がとれたものであったとしても、ガラスの質感が薄っぺらなものでは安っぽくし上がってしまうのを免れない。結局、どれだけ高級なガラスを使うかということだけに焦点が行ってしまうのだ。

私にステンドグラスを教えてくれた先生が、「多くの生徒は自分でデザインしたがらないのよ。本当はデザインすることが最も大切で、最も楽しい作業なのにね...」とぼやいていたのをよく覚えている。
長年教室に通っていた生徒が、独立して自分の教室を持ちたいと先生に相談したところ、先生は良い返事を返さなかったこともあった。そんな先生が、たった半年しか教室に通わなかった私に、自分で教室を開きなさいと言ってくれたのは異例中の異例だったらしく、何故ティファニーのレプリカを一つも作らず、それらを作る事に興味も示さなかった私が教室を開けるのだと憤慨した人も多かったに違いない。

私はたんなる『お稽古事』としてステンドグラスを学び始めたわけではなかったので、取り組み方は明らかに優雅な奥方たちの楽しみとは違っていたし、また、何年もかけて教室で習うことでもないと思っていたのも事実だ。一人の先生に教えられた事だけをやっていたわけでもなかった。何件ものステンドグラスショップに出向き、ガラスやらその他の必要材料を購入しながら、様々な人の色々なテクニックを見聞きし、自分が納得できる方法を選別し、更には自分なりのやり方に変えて行った。

貧乏な家で生まれ育った背景がある人は、何とかして自力で習得し、事を成し遂げようと試みることが多い。私の家族のほとんどはそのような人たちで、雲の上のお師匠さんもまたそのような人であることがよくわかる。

彼が、『おんぶに抱っこ』の人たちを今後どのように扱うようになるのか、楽しみながら見ていることにしよう。


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