28.10.15

無用の長物

YouTube で木工のビデオをよく見るのだが、少し前からあるCNCマシンを売るメーカーが、人気のあるチャンネルをターゲットにして、機械を使ったビデオを公開することを条件にお高い機械を無料で提供するという、"いかにも"な販売戦略を立てているのをよく目にするようになった。

雲の上のお師匠さんはもちろんそんなのに飛びついたりしない人だという揺るぎない確信があるが、電動工具類で木工をしている人はもとより、これまでハンドツールを器用に使いこなし、きれいな仕事をしていた人までもが、CNCマシンでチープにしか見えない物を作るようになってしまっているのを見ると、あぁ、この人も"欲"に勝てなかったんだな… とついつい思ってしまう。

そのような人の中には、己の欲との葛藤が見て取れる人もいて、いわゆる金銭至上主義に必死で抵抗しようとしているのが垣間見えたりすることがある。そのような人を見ると、「負けるな!」とついつい心の中でつぶやいてしまうが、「負けない」でいられるには相当な確信と覚悟が必要で、この物質主義の世にあって、それらは容易に身につけられるものではないことを私はよく知っている。


つい最近、夕食時に、私がここで触れているメーカーのCNCマシンについて同居人が話し出した。同居人は特に木工に興味があるというわけではないのに、そういう人にまでそのメーカーのマシンは広まっているんだと、ちょっと驚いた。
私の同居人は今流行のドローンを逸早く購入し、細かい部品を組み立てて行くのを楽しみ、更にはコンピューターでプログラムして飛ばすまでの工程を毎週末集中してやっていたような人なので、結構時間がかかるだろうCNCマシンの組み立ては面白そうだなと言っていた。ただし、それで特別何かを作りたいかというと、別に作る物には興味が無いようで、最初のうちは機械を上手くコントロールしたいが為に色々作ってみるだろうけれども、その内に飽きてしまって粗大ゴミ化するに違いないことを、使う前からよくわかっている。

要するに、それがあれば助かるなと思いつつも手が出せず、仕方なく効率の悪い方法を取らざるを得ないことにかなりなストレスを感じていたという場合を除いては、所詮それらは無用の長物なのである。

大量生産品と何ら変わりの無い物を、一個人が作る意味があるのか? 『この世』に馴染んでいない私にはわからない。

一個人が高額な機械を揃えて、時間をかけてプログラムして、同じ物を絶え間なく作り続けたところで、コスト面で大量生産品に勝てようはずも無いのはわかりきったことだ。
なぜなら、製作にかかる材料費がまず桁違いに違うからだ。
一個人がどう頑張ったって、大規模工場が仕入れる価格で材料を仕入れられるわけがない。しかも、大量生産品を売って財産を築く人というのは、著作権など何のそので、売れそうだとなれば、コピーであろうが何であろうがおかまい無しに作って売ってしまうという芸当ができる。責任感など無いに等しい。

それでも生活できるだけの収入が得られる見込みがあると判断できれば、取りあえずやってみるという人も多くいるに違いない。

それで一儲けしようという野望のある人、特に、自分の手で作り出すということに別段こだわりが無く、とにかく少しでも楽をして金儲けをしようと考える輩には、その取っ掛かりとして、この機械は魅力的に映るかも知れない。ゆくゆくは徐々に機械の数を増やし、職人ではなくオペレーターをできるだけ安価に雇い、同じ物を大量に作らせ、大規模工場は無理でも、中小規模工場くらいは持つようになる可能性がゼロだとは誰も言えないのだから… 上手くいけばの話だが。
だが、一つ忘れてはいけないのは、上記のCNCマシンメーカーは、YouTubeで既に人気を得ている人々に自社製品を散蒔き、多くの顧客をゲットしようと画策しているということ。
すなわち、自分がそのマシンをゲットしたとしても、それを使って物作りをする人が他に山ほど居るということである。
今度はその中で生き残れるかどうかの戦いとなる。ある人はフリーのパターンを使って大量生産に励み、ある人は自分のデザインしたデジタルパターンを売るようになり、またある人は、それを使ってYouTubeでお金を稼ぐことを考えるようになる… そういう世の中になってしまっているのだ。

では、商売のためではなく、単なる個人の楽しみのためにだったら?
私は個人の楽しみに関してどうこういうつもりは毛頭無い。誰がどんなものを作って楽しもうが、その人の自由だ。


クラフト マーケットで、同じ物を大量に作って売っている人をよく見る。
同じように作ったつもりでも簿妙に違ってしまう正真正銘の "手作り品" には味があるが、コンピューター制御のマシンで作られた物は皆同じ。正真正銘の手作り品のような "味" を出せないと、以前CNCを使って仕事をしている人が私に言った。

確かに綺麗にできてはいるが、ただ単に綺麗なだけで、そこに深みを感じることはない。
だが、そこまでじっくり見てそれを感じる人がどれほど居るのだろうか?
この世の中はそのような味気ないもので溢れかえっていて、その中で育った人は大量生産品に何の違和感も感じていない。大量生産されたものを、ただ "ブランド名" の好みだけで選別しているに過ぎないのだ。そして、そのような物しか見ていない人にとっては、手作り品も何ら変わりの無い物でしかなく、そこに何の価値も見出すことはないのではないか… 以前、クラフトマーケットに出店していた時に、通り過ぎる人々を見てそう思ったことがある。


この間、久しぶりにアトリエに来客があった。
彼女はここでできた知り合いの中で最も信頼の於ける人で、くだらない世間話に花を咲かせる必要も無く、また、上辺だけ取り繕った話などしたこともなく、約4時間、お互いにずっと喋り続けていた。

彼女は切れの悪くなった包丁を数本持参し、私は研ぎ方を教えながら研ぎ、研いでいる間に刃物の良し悪しが如実にわかる実演もしたりした。

鉋がけなどしたことの無い彼女に、幾つかの鉋を使って板を削ってみてもらった。
彼女の目の前ででシャープに研いだばかりの品質の悪いブレードと、使ってからまだ研ぎ直していなかったかなりマシなブレードで同じ板を削ってもらうと、彼女はすぐに切れ味の違いを感じ取り、「わっ、全然違う!こんなにも違うものなんですね!」と非常に驚いていた。

また、私がスタンレーの鉋で削った板と、父から譲り受けた日本の鉋で削った板を見せると、私が説明を始める前に、彼女は表面の光沢がまるで違うことを指摘した。
光沢が違えば、もちろん表面の感触も違うわけで、その時初めて、彼女は日本の手打ちの刃物の良さを知ったかのように見えた。そして言った。「まだこういう手仕事をする人って居るんですかね?」と。

まだ居るとは思うけれども、数は少ないだろうし、もう既に高齢になっているだろうし、例え弟子を取ったとしても、その仕事で生活していけるだけの十分な収入を弟子たちが得られる保障など全く無いことを、親方として不憫に思ってしまうかも知れない。実際、長年その専門職に携わってきた達人の親方たちでさえ、ほとんどが満足に生活できる収入など得られない状態だろうと思うよと、私は話した。

この世は金銭至上主義の人々が生産し続けている "上等で無い物" で溢れかえり、職人魂を持った人々は "金銭的に負けて" 外に追いやられる結果となってしまった。
一旦このような状態になってしまったら、例え一部の人が懸命に復古を提唱したとしても、もう昔の状態に戻ることなど不可能だろう。

そんな、根っからの職人には夢も希望も無いような話をしていた私達だが、私達は職人を哀れんではいなかった。
彼女は『このサタンの(支配下にある)世』が、間もなく終わりを告げ、『この世』が過ぎ去ったら、次には神の支配による楽園でのストレスフリーな生活が待っていることを信じて疑わず、私は、………

何と書いたらよいのか、言葉が見つからない…
いつか、言葉が見つかったら、またこの続きを書くとしよう。


『こんな世の中、早く終わるといいですね』
信仰心の厚い彼女との会話は、その言葉で締め括られた。

The world is passing away and so is its desire, but the one who does the will of God remains forever.
- 1 John 2:17



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