24.12.14

『いささか先生』的存在

11年ほど前、こちらの語学学校で一緒になった日本人の青年から、私はサザエさんで例えるといささか先生の存在のようだと言われたことがある。

その青年は『○○○ファミリー』と呼ばれているグループに属していて、そこには日本、タイ、台湾、韓国などから来た留学生が入っており、その人たちは常に行動を共にし、積極的に連絡を取りあい、頻繁に旅行にも出掛けていたというのを知ったのは、たまたま呼ばれた食事会でだった。(それまで、そんなグループがあったことすら私は知らなかった)
私はそのグループの何人かとよく話もし、仲も良かったので、食事に 呼ばれても何の違和感も無く、ごく普通のことのように認識していたが、その人たちの話す内輪話には入り込む気持ちは無く、ただの『部外者』として同席していたに過ぎないとの思いは、最後まで消えることは無かった。

『いささか先生』は、サザエさん一家の生活に入り込むことは無く、かといって存在感がないわけではなく、常に近くにはいるし、親しみがないというわけでもないのに、やはりグループの外に存在する人という認識であると、その青年は言っていた。
私は正にそのような存在で、私が何処かのグループに属する姿など想像できないと言うので、あぁ、言われてみればそうだよなと、妙に納得してしまったのを今でもはっきりと覚えている。

今日、ある人のフェイスブック・ページに、「私達は他の人を自分たちのサークルの外に配置しておきながら、自分は他の人のサークルの外に絶対に居たくないと思っている。私達は他の人の個性を変革し、自分達と一帯になるよう圧力をかけ、ただそのようにした人だけを受け入れるということをしばしばすることがある」と書かれていたのを読んで、私はこれまでの長い人生で、一度も他の人のサークルに入りたいと思ったことなど無かったな、もっと言えば、どこにも属したくないという思いの方が強かったなと、上記の『いささか先生』的存在を指摘した青年の言葉を思い出していた。
私はどこにも属していないので、誰かにプレッシャーをかけて自分たちの意に沿うよう従わせることも、プレッシャーをかけられて誰かに従わされることも無く過ごして来たのだ。いわゆる一匹狼である。

それを書いた人が、『友達、友達』と、殊更に友達を持つことの重要性を強調していたことに対し、私はずっと違和感を感じていたが、今日はっきりと、その人との相容れることのない相違点を認識したように感じ、何だかとても寂しい気持ちになった。
私達がお互いをわかり合うことは、おそらく不可能に近いだろう。


また、今日買い物に行った先で、このクリスマス直前の忙しい時期だけ店主(トルコ人)の仕事を助けに来ているパートナー(キウィ)に出会った。
私が行くと、「コンニチハ」とそのパートナーも日本語で挨拶をしてくれ、とてもフレンドリーに話し掛けて来てくれたが、彼女に会ったのは初めてだったので、私をすぐに日本人だと何故わかったのだろうかと不思議でならなかった。
彼女に聞かれて、私の仕事の話(木工)を熱心にしていたら、興味を持ったのか、今度家に遊びに来てよと誘われ、電話番号と名前を聞かれたので、emailを送ってくれてもいいよと言うと、emailはしないから、電話をすると言っていた。
店主も、「それがいい、ぜひ家においでよ」と笑顔で彼女の誘いに拍車をかけていたが、私、その人たちの家に行って一体何を話すんだ???
家に呼ばれるほど、そんなに親しい存在ではないと思うのだが… 

思いがけない誘いに非常に戸惑っている "いささか先生" を想像したら、ちょっと笑えた。




21.12.14

2014年 仕事納め

私が出店しているクラフト・マーケットは、今日が今年最後の開催日だった。

もうクリスマスの買い物はほとんど終えただろうと見積もってか、出店者の数は非常に少なく、余裕で一会場に納まるほどこじんまりしたマーケット・デーだった。
しかも途中から雨が降り出し、これではお客もさして来ないだろうと思っていたが、予想に反してけっこう多くの人が見に来てくれて、気前よく買い物もして行ってくれた。

途中で、サンタの扮装をした青年がバスケットに山盛りの苺を無料で配りに来てくれ、また、ジャムの入った手作りのクッキー(タルトかな?)をお盆にのせて配りに来てくれたスタッフも居て、皆それらを頬張りながらの接客… もう既にクリスマス・ムード一色という感じだった。



終了時間になって、一人の男の子が私のストールにやって来た。
なんと嬉しいことに、その子は私の作品がすごく綺麗にできていて、こんなのを手で作れるんだとすごく感動したと私に伝える為にわざわざ来てくれたのだ。
なんて優しく可愛い子なんだと、一生懸命に話をしてくれている子を見てこちらの方が感動してしまった。

私はまだ木工に関しては駆け出しで、最近は見事な家具を見続けたせいか、自分のチンケな作品にガッカリし、気落ちしてばかりいたが、それでもどんな小さな物でも丁寧に丁寧に作っているのをわかってもらえ、認めてもらえたというのは、心から嬉しく、その子のその言葉だけで、ここしばらく考え続けていたことに決着をつけることができた。
来年もやはりこのマーケットに出店することにしよう。

「あなた、来年もここに来てくれる?」と聞いてくれた女性に、「そうすることにするよ」と答え、マーケットの主催者が振る舞ってくれたシャンペンを飲みながら誠に疲れる後片付けをしていたら、汗が噴き出して来て難儀をしたが、今年最後のマーケット・デーを気持ちよく終わることができて本当によかったなと、帰り道しみじみ思った。



18.12.14

ノミの刃を研ぐ


少し前、驚くほどハンサムなフランス人から譲ってもらった工具類の中に、ノミのセットが入っていた。
彼は「すごくシャープに研いであるから気をつけて」と言っていたが、電動グラインダーで研いだという刃は全然シャープではなく、おまけに裏側まで刃先を削ってしまってあった為に、おそろしく長い時間をかけて研ぎ直さなくてはならなかった。



買って来たばかりのノミの裏側は通常平らではないので、まず裏側を平らに均さないとならないなんてことは、おそらくほとんどの人は知らないだろう(私もお師匠さんのビデオを観るまで、そんなことは考えたこともなかった)。これらのノミもやはり裏面には手を付けてなかった。均すのには目の粗いサンドペーパーから極細かい目のサンドペーパーまで何段階かに分けて削っていくのだが、サンドペーパーはフラットなガラスの上に貼付けて使うのがお薦めである。
裏の均しは刃先から6ミリ程度内側までがピカピカになればOKで、裏面全体がピカピカになるまで磨く必要は無い。(写真を撮り忘れた)
この作業はたった一度するだけでよく、次から研ぎ直すときには、表だけを研ぐことになる。

次に表の刃を研ぐ。もちろんフリーハンドでだ。もう既に角度は感覚でわかるようになっているので、ホーニング・ガイドなるものは買わずに済んだ。
私はダイアモンド砥石を使っているが、何種類かのサンドペーパーを使っても充分シャープな刃を付けることができる。
最後にクロミウム・オキサイドを塗布した革張りの板の上で研いだ刃を更に磨き、スーパー・シャープなノミの出来上がり。

このシャープさが無ければ綺麗な仕事ができないというのが、今はよくわかる。



14.12.14

この世のものでない

先日(私にしては珍しく)頻繁に話をする日本人のご夫婦と話をしていた際、私は一般の人とかなり変わっていると思われていたことがわかった。

「○○さん(=私)ってかわってますよね。」と単刀直入に言われて、「この世のものでない?」と笑いながら聞いてみたら、いや、そんな… と一応は否定してくれてはいたが、一言で言えばやはりそんな感じなんだろうなと思って笑えた。

以前にも、やはりこちらに住む日本人の女性に、私は全く日本人っぽくないとはっきり言われたことがあったが、今日クラフト・マーケット会場に居た時周りを見回してみたら、私以外のアジア人と言ったらインド人くらいなもので、そんな中で何の違和感も感じていない自分は、おそらく、もっともっと雰囲気の違う国に行ってもやはり何の違和感も無く過ごせるんだろうなと、そんなことを考えていた。

もっともっと雰囲気の違う国… イスラム教国? イスラエル? 南米? 行って住んでみたい国がまだまだあるのに、この世に存在することにも全く執着が無いというのはおかしいことだろうか。


このシンプルな飾り板を作っている間、はてさて、来年は何をしたらいいのだろうかと、ラジオもつけず、音楽も鳴らさず、ただスクロール・ソーの動く音を聞きながら考えていた。

先週、オークションで激安で落札した仕事用工具類を受け取りに行った際、売主だった驚くほどハンサムなフランス人男性が、私のスタジオ名に興味を持ってくれて、URLを教えたわけでもなかったのに、再公開したばかりのfacebook pageを探してしっかり見てくれたようで、どこかの店で売っているのかと聞いてきた。
私はただインターネット・オークションに出品しているのと、たった一カ所のクラフト・マーケットで売っているだけだと答えると、そんな所で売るのではなく、どこかのギャラリーで展示した方がいいし、もっと高級な店で売るべきだとアドバイスしてくれたので、そういう所はお金がかかり過ぎて私にはそんな費用は賄えないと笑って答えたが、何故だかその人は、しばらくもっといい販売方法を考えてくれていた。

また、今回のクラフト・マーケットでも、私の商品はこんな所で売るようなものじゃないと、お客やら他のベンダーさんたちからも言われた。

私は有名になりたいとか、お金持ちになりたいとかいう欲望は無い。もっと言うなら、この仕事でなければならないという強い気持ちも無い。
ただ日々生活していけるだけの、同居人に迷惑がかからない程度の収入があるだけでいいので、他に何か決まった仕事をさせてくれる所があれば、流れ作業だろうが何だろうが、喜んでしたいと思っている。
けれども、そういう仕事は私でなくても誰でもできるわけで、仕事に溢れた人たちが五万といる中で、わざわざ歳食った移民の私など雇いたいと思う奇特な企業があるとも思えず、また、実際無く、光りの見えない洞窟の中で彷徨っている状態を抜け出すことができず、生活は困窮していくばかり…

何をどうしたらいいのか、さっぱりわからない。



12.12.14

コリアンダーの花


庭に植えたコリアンダーに花が咲き、満開になっている。
その香りと独特な味に全く似合っていない可憐な花である。

クラフト・マーケットでハーブ・ガーデン用の名札(土に刺して使うマーカー)を売っているが、数あるマーカーの中でコリアンダーの売れ行きがダントツ1位で 、西洋人もこのドクダミのような臭いのハーブが好きなんだ…と驚いた。
コリアンダーの次に売れ行きがいいのがバジル。次いでパセリかな…
タラゴンとかは人気がない。

さて、明日もマーケットが開かれるので、朝6時起きだ。
今年はあと2回でマーケット終了。頑張って出掛けなくては…





7.12.14

木工は男性の仕事?

「これらは旦那さんが作ってるの?」

前々回のクラフト・マーケットで、一人の女性が聞いてきた。
ここにあるものは全て私自身が作ったものですと答えると、その女性はとても驚いた表情で、並んでいる商品をもう一度じっくり見直し、「素晴らしい技術だわ」と褒めながら立ち去った。

ふと、こちらに来たばかりの頃入った語学学校での一コマが頭に浮かんだ。
ある女性講師が私に向って、「旦那さんは日本で働いていて、あなたに仕送りをしてくれているの?」と、含み笑いをしながら聞いてきた。『いいご身分ですこと』と彼女が心の中で言っているのが目に見えるようにわかった。

I'm a widow.

その一言が彼女の表情をこわばらせた。
彼女は自分の底意地の悪さを実感したのか、非常に丁寧に謝罪してくれたが、私はその時から、アジア人の女性というだけで『旦那の稼ぎでのうのうと暮らしている』と思われる可能性があるということが頭から離れなくなった。
その時居合わせたクラスメイトは、思慮に欠ける教師の、人を小馬鹿にしたような物言いに苛立を感じ、私により一層優しく接してくれるようになったが、周りを見回してみたら、正に『のうのうと暮らしている』部類に入る奥様方がアジア人の中にけっこういることもわかり、私もその人たちと同じようにしか見えなかったのかと心底落胆した。

冒頭の質問をしてきた女性はおそらく、木工は男性の仕事という認識のもとに質問をしてきたのだろうと思うが、「あなたが作ったの?」と聞くのではなく、明らかに私が作ったのではないと決めてかかって質問してきたことに、私は不意をつかれて驚いてしまったのだ。
何故不意をつかれたかと言えば、木工は私にとっては料理や洋裁や編み物やステンドグラスをこなすのと同類の作業で、何ら特別なことではなかったからだ。
私はごく小さい頃から父親や祖父の大工仕事を見て育ち、中学校の技術の授業では誰よりも上手にノコギリを使いこなせたし、教師に教わることは何も無かった。
子供が小さかった頃、洋服はもとより、布絵本、パッチワーク・キルトのバッグなどとともに、木製のドールハウスの家具まで手作りしていたが、裁縫と木工の間に境界線などなく、ごく自然な流れでそれらの作業を楽しんでいた。

まぁ、大工仕事のように体力或は腕力に自信が無ければできないようなものは、さすがにこの歳ではできないが、せめて20年若かったら 挑戦してみたかったなと思った。


昨日のクラフト・マーケットは楽しかった。
最近ずっと隣り合わせているベンダーさんは、シルクとウールを組み合わせた美しいマフラーを手作りして売っているのだが、そこにお客さんが来てどれがいいかとあれこれ試着し始めると、周りのベンダーさんたちが集まって来て、どれが似合っているか各自の意見を言い始める。私もちょこっと覗きに行ってみたら、どういうわけだかモデルになってしまって、色々なマフラーを取っ替え引っ替え首に巻かれるという、面白い経験をした。

ほとんどのクラフターは、コツコツ、コツコツ作り貯めたものを、時給にしたらほんのわずかな収入にしかならない金額で売りに来るのだ。
他のクラフターの仕事を見て、「あぁ、この人も大変だろうな…」と察することができる人たちの中に居ると、『金、金、金』の世界から少し隔離されているかのように感じるが、今月はクリスマスをひかえていることもあって、毎週末マーケットが開かれ、利潤を追求して止まないようにしか思えないベンダーもチラホラ現れるようになって来たため、早くこの時期が終わらないかなと、マーケット会場を眺めながら考えていた。




3.12.14

アロマ・ボックス/ポプリ・ケース出来上がり

夏になったというのに、最近冬に逆戻りしたかのように寒い日が続いていたが、今日はようやく夏らしい清々しい天気になった。それでもやはり気温は20℃を切っていた。

ここ数日間、アロマ・ボックス/ポプリ・ケースを作っていた。
スタジオにストックしてある板の厚みをノコギリで半分にすることから始め、厚みを鉋で削って揃え、表面をすべすべになるまで鉋がけ…。
それから6角形の箱の部分になる面を一枚一枚正確にカットし、シューティング・ボードを使って全ての角が直角になるよう鉋で丁寧に削って行く。更に、両サイドを鉋で60度に削る。何度も何度も角度をチェックし、6枚全てのサイズが同じになるように薄皮を剥ぐように鉋をかけて行く。

その後、蓋と底板をはめ込む為の溝をStanley No.45 Combination Plane で作り、ようやく組み立てに入る。箱の部分が出来上がったら、今度は蓋と底板のサイズを慎重にチェックしながら、ピッタリのサイズになるよう切り出す。まずは若干大きめに切り、ここでもやはり鉋を使ってサイズを合わせて行くのだが、この作業は箱の部分を作るよりも遥かに楽だった。

底板を木工用ボンドで接着し、蓋部分の透かし彫りに入る。
この透かし彫りに何時間かかっただろうか… 3時間経った後はもう時計を見るのもばかばかしくなってしまって、その後どれだけ時間を費やしたのか覚えていない。
切り出した直後の裏面はガサガサで、この後サンディングは必至である。



鋭い角を細かい目のサンドペーパーで滑らかにし、最終仕上げの鉋がけも終わり、オイル処理をした後乾燥。
あー、もうこれでお終いにしようかなと、写真を撮ってしばし考えていた。


が… これではプロっぽく見えないじゃないかと、更にもう一手間自ら増やすことに…。

Spline と英語では言うが、日本では何と言うのだろう?補強の為の板を6角形の角に上下2カ所ずつ入れることに決めた。
 補強の板厚は3ミリ。鉋で削って均一の厚さになるよう、雲の上のお師匠さんが教えてくれたジグを作って、厚みを確かめながら削る。これを切れ目を入れた本体にボンドで接着するのだが、補強がアクセントになるように、今回はNZ Rimu の端切れを使った。


昨日は補強をボンドで接着し終わってすぐに夕食の準備に取りかかったため、今日は朝からこの出っ張った補強板を綺麗にトリムすることから始まった。
まず薄刃のノコギリで余分な部分を慎重に切り落とし、次にシャープに研ぎ直したノミで丁寧に丁寧に出っ張っている補強板を平らに削いで行く。
その後目の細かいサンドペーパーで軽くサンディングし、オイル仕上げ。
ようやく出来上がったものは、自己評価で70/100点というところだろうか。

まだまだ父の足下にも及ばないなと実感した。





30.11.14

鉋がけの毎日


鉋がけの仕上げはシャープに研ぎ直した刃で極薄く削って行き、板の厚みがほぼ均一になるよう整える。(caliper で測って100%誤差がないように削れる人がこの世に存在するのだろうか?)表面は滑らか且つシャープで、サンダーで削って均した面とは明らかに輝きが違う。


スクロールソーの扱いにもすっかり慣れ、最近は透かし彫りを施した箱ものを作るようになった。箱ものは時間ばかりかかって売れるかどうかわからないという難点はあるものの、売ることだけを考えているとチンケなオーナメントのようなものばかりを作ることになり、自分がまるで進歩していないように思えて落ち込んでしまうため、もうどうでもいいやと開き直って、自分の技術を向上させるものを作ることに決めたのだ。

これは卓上ペンケースとして作った。蓋の透かし彫りの裏には色ガラスが入っている。光に照らして見るものではないので、透明性の低い色ガラスを使った。
他のどこにも売っていない、私だけが作る物である。



27.11.14

リンゴの実とブルームーン



最近ようやく夏らしい気候になってきて、裏庭のリンゴが実を結び始めた。
そして、この夏初めてのベランダのブルームーンも美しく、また香しく姿を現し、清々しい夏の初まりを告げてくれている。



こんな気持ちのいい日に、私はスタジオに隠って一日中鉋がけ。
合間に今週始めから作り始めたペンケースにシェラックを何度か塗ったが、数日前 facebook page を非公開に設定したため、作業途中の写真は撮らなかった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。(ヨハネ第一2:15) 

facebook は正に『世にあるもの』そのものにほかならないよなと、しみじみ思った。


14.11.14

妖精の住む森...


注文しておいたLED ライトが届き、ようやく出来上がったステンドグラスのバードハウス。家中を歩き回って撮影場所を探し、撮った写真の中でこれが一番好きだった。
まるで妖精が出てきそうな感じのする灯りとでも言おうか…

下の写真の棒ハンダ1本の値段はNZ$9.90(今日現在、日本円にして904円強)。これを3本使ったため、ハンダだけで2,700円以上の経費がかかっている。LEDライトはNZ$6.00 (約548円)... ガラス、銅のテープ、電気代を含めて、いったい幾らで売れるのだ…

こんな高いもの、NZではまず売れないだろうななどと思いながら、やや面倒な組み立て作業をしていたら、無性に投げて割ってしまいたくなった。私がもしまだ若かったら、きっとコンクリートに打ち付けて粉々に割っていただろうが、もうそんな気力も無くなってしまい、おそらくNZではこの仕事で食べていける人はいないだろうと考えながら、家計の足しにもならないだろう作業を続けていた。空しさで胸が詰まった。

さて、明日は何をしたらいいのだろうか...


5.11.14

2014年の林檎の花



昨年は10月半ばには満開だった庭の林檎の木だが、今年は約一ヶ月遅れで花が開いてきた。
今年の冬は寒かったということかな? 何だか色々あり過ぎて、気温のことに など気にしてもいなかった。


今日は思いつくままにミニチュア・バード・ハウスを作っていた。パターンを作らず、直接板に線を引き、感覚で大きさを決めながら作っていったが、こうやって作るのはけっこう面白い。
がさついた板を鉋でスムースに均すことから始め、45度のカットも、角を丸くするのも全て鉋。
小さなホビー用鉋は、以前息子からお土産にもらったもので、日本製だ。替刃も何枚か買って来てくれたが、まだ切れ味がよく、研いで使えばかなり長持ちするだろう。

バードハウスの屋根の継ぎ目が見えない程度に綺麗にできた。テーブル・ソーなどでカットしたらここまで正確に合わせることはできない。シャープに研いだ鉋の刃で薄皮を剥ぐように角度を合わせて行って、ようやく吸い付くような切断面ができるのだ。

鉋がけは決して簡単ではないが、平らな面が出来上がって来る時の喜びは何にも代え難い。




さて、明日はペイントだ。


30.10.14

CANAAN

何故なのか理解に苦しむのだが、facebook に投稿した CANAAN の製作過程を信じられないほど多くの人が読んでくれている。CANAAN の単語の意味を知っている人ばかりではないと思うのだが、何が興味をそそっているのか…

私は、ただ一人がそれを見て何かを感じてくれたら満足だった。そして、確かにその人は私の投稿を見てくれて、私が伝えたかったことを理解してくれたということがわかった。私は売る為にそれを作ったのではなく、ただ一つの事を伝えたくて作ったのだ。ただ一つのこと… お互いがこの世から居なくなる時に思い出せますように...


私の作る物は大量生産品ではないから、万人受けしなくてもいい。たった一人の人の心に残るものであればいい。けれども、いつ現れるかもわからないたった一人の人に巡り会うのを待ち続けるこの生活が、いつまで続くかわからないという恐怖に時折襲われながら、踏ん張り続けることが果たしていつまでできるだろうか。

『世に流されない』生活なんて、所詮夢物語でしかなかったと、最期に神に愛想を尽かせたら、CANAAN は永久に私には無縁のものとなる。




27.10.14

これ、誰が買うのだろうか? 第二弾


 文字を切り出し、サンドペーパーで一度目のサンディングを施した後、下地としてクリアーシェラックを二度塗り。その後#250のサンドペーパーで表面を均す程度にサンディング。そして更にクリアーシェラックを重ね塗り。それが乾いたところでもう一度シェラックを重ね塗り。そして、シェラックが完全に乾くまで待ち、その後#0000のスチールウールで丁寧に磨く。余分な粉を取り払い、スチールウールにビーズワックスを含ませた物で更に磨く。
最後に、清潔な木綿のボロ切れでワックスを拭き取ると、シルキースムースな輝く仕上がりの作品が出来上がる。




仕上がりまでに最低3日を要するなんてことを、通常消費者は考えたりしない。


26.10.14

ALEGRIA (CEBU)


モノクロ写真ではないのがわかるだろうか…

木工を本職としている人からは、もしかしたら邪道だと言われるかも知れないが、私は濃いガーネット色のシェラックを下塗りした上に黒のペイントをむらに重ね塗りして、独自の色を作った。


仕事用にスタジオのお気に入りの撮影場所で逆光で写真を撮ったら、一瞬モノクロかと感じる写真になったが、私はモノクロ写真よりもこの少し茶色がかったカラー写真の方が好みである。


明日 CEBU という文字を切り出そうかと思っている。


16.10.14

癒える悲しみ、癒せない悲しみ

昨日、facebook上の友達を一人削除した。そしてその旨を相手にメッセージで伝えた。
その人はとても良い人だった。とても良い人だったので、私は友達でいない方がいいと思ったのだ。友達でいたら、この先もその人が善意でしていることにケチを付けてまわることになりかねなかった。

私は、聖書の伝道の書7章16節に『義に過ぎる者となってはならない』と書かれていることを知っていながら、言わないではいられないことが幾つかあった。その人を非難する為ではなく、その人が世に流されないようにとの思いでしたことであったが、その人を気落ちさせるのには充分な引き金となったに違いない。
そうこうしている内に、次第にその人がのびのびと自由に発言することを控えるようになり、善良さがくすんで行くように感じるようになってしまった。

世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば、父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの — 肉の欲望と目の欲望、そして自分の資力を見せびらかすこと — は父から出るのではなく、世から出るからです。さらに、世は過ぎ去りつつあり、その欲望も同じです。しかし、神のご意志を行う者は永久にとどまります。 (ヨハネ第一2:15-17)

この世に生きながら、この世のものに染まるなというこの聖句に完全に自分を当てはめられる人は、おそろしく強靭な精神力を持った人だ。あのモーセでさえ完璧ではなかったのに、どうして一庶民がそのようにできようか… しかし、そう思いつつも、私はその人にそうあるべきではないかと暗に伝え続けていたのだ。もし仮にその人が敬虔なクリスチャンだと知らなかったなら、おそらく(他の人と同じ程度に希薄な)友達関係は続いていただろうが、その人とはどうでもいい希薄な友人関係を保つ気は無かった。


私は一体何をしているんだ…

本当はとても大切な人だったかも知れないのに、自分から退けてしまった。
いや、大切な人だと思ったから退けたんじゃないのか…  私はその人に取っては羊の皮を被ったオオカミでしかないのじゃなかろうかと、そんなことが頭の片隅にいつもちらついていて、それでも尚、羊の皮を被り続けることに良心の呵責を覚えたから身を引いたんじゃなかったのか…

その人はこんなことになって悲しいけれども、私の希望通りにするとメッセージを送ってよこした。
私自身、悲しくないなんて口が裂けても言えない。でも、この悲しみはおそらく一時のもので、お互いにとって一生尾を引く悲しみではないとはっきりわかる。
これは死ぬまで癒えない悲しみではない。

死ぬまで癒えない悲しみというものは、誰に何を諭されようとも、更には神がどんな慰めを与えてくれていようとも、何の助けにもならないほど深く心に刻み込まれてしまっていて、正にキルケゴールの言うところの『死に至る病』に他ならないのだ。






14.10.14

これ、誰が買うのだろうか...


今朝、「これ、誰か買う人居るのかな?」と首を傾げたくなるほどレアなワードアートを切り出した。:) 作りながら、大量生産品にはおそらくならないと思われる希少価値のあるワードアートを作って売るのも面白いかもなと、そんなことも考えた。

私の頭の中で ALEGRIA / ALGERIA がず〜〜っとず〜〜っと燻っていて、まぁこれは売れなくても自分のアトリエに飾っておけばいいからと、クラフトマーケットを直後に控えているのにも関わらず、マーケットそっちのけで自分の世界に入り込んでしまっていたが、この写真を撮ってfacebookにアップするとすぐにLikeしてくれた人もいて、こんなマイナーなものでも良いと思ってくれる人がいるんだと改めて思った次第である。

ちなみに、ALEGRIA(アレグリア)はポルトガル語で、歓喜とか幸福とかいうとてもポジティブな意味を持つ単語なので、JOY とか HAPPINESS とかいう平凡なワードアートを部屋に飾る気持ちの無い(私のようにちょっとひねくれた)人には、もしかしたらウケるかも知れない。

これを切り出した後、サンドペーパーで角を取り、ざらついた切り口を均し、シェラックを二度塗りして自然乾燥… 明日また表面を目の細かいサンドペーパーで丁寧に磨き、明日の気分でシェラックを更に重ね塗りするか、はたまた黒のペイントを上に塗るか… 出来上がりがイメージしているものと違わないといいなと、ペイントで度々失敗している私はちょっと心配になっている。






7.10.14

嫌悪

私はこの世にある"宗教団体"というものにつくづく愛想が尽きた。

ある知人は寡婦で、聖書を一度も読んだことがないのに、キリスト教会に属していれば皆が無償で助けてくれ、おかげでビジネスがトントン拍子に上手くいっていることをとても有り難いと言い、生活に困窮しつつある私も助けを得られるよう、教会の信者になるようにと強く勧めてくれた。
私は断った。そんなふうに善意(憐れみ)を"利用"して楽をするくらいなら、のたれ死んだ方がマシだ。

あるキリスト教会の牧師たちは、信者を増やす為に、教会の施設を使って一般向けにステンドグラス講座を開催しようと試みた。
私に講師を引き受けることができるかと話があったので、内容を聞きに行くと、教会としては講師料は払うつもりはないが、生徒が支払う受講料の一部からほんの少し謝礼(ガソリン代の足しにもならない程度)は出せるかも知れないとのこと。私が、教室で教えるとなるとある程度の工具やら研磨機を用意しないとならず、元手がかかり過ぎると伝えると、その掛かった費用は生徒に負担させればいいと平然と言うので、生徒が受講料(教会の収入であって、私の収入にはならない)を支払った上に、工具やら器具の金額を上乗せされた高額な材料費を支払わされるのは誠に気の毒であるし、私はそのようなことを平然と行うことができないと、その話は断った。
教会側はびた一文損をすることなく、他人には薄給を強いて、万事上手くいくと信じて疑わない傲慢さに吐き気のする思いであった。

私が知る仏教の僧侶は、信者からのお布施をあてにして生活している。生活の全てがお布施/寄付金で賄われるのを当然のこととして、何処に行っても無料で宿泊し、無料で食事を与えられ、欲しい物は全て無料で手に入れる。
私のところに仏像の後ろに掲げる蓮の花のステンドグラスのパネルの依頼が来た時には、ある信者が全額負担するというので、「金額は気にせず、できるだけ大きな立派なものを作ってください」と僧侶から私に直接希望が入り、本当にそれでいいのかと信者に確認をとると、「そんなにはお金は出せない」と青くなっていた。

高校時代、同級生に寺の住職の息子がいた。
時々その子のお兄さんが学校に迎えに来ていたが、お兄さんは既に僧侶になっていて、私用で出掛ける時にはカツラを被って出掛けるとのことだった。お布施はカツラの費用を賄ってもいるなんてことを、考える人がいるだろうか?(笑)
何の為にお布施をしているのか、よくよく考えた方がいい。

ここオークランドの或る地域では、宗派の違うイスラム教徒同士の小競り合いが絶えないらしく、暴力沙汰にまでなってしまっていると報道されたことがあった。

キリスト教会の牧師が戦闘機に乗り込む兵士に祈りを捧げている戦争時代の写真を見たことがある。一体何を祈っていたんだ。人を殺しに行くなと止めるのが本来の仕事じゃなかったのか?


なぜ私がこんなことを書いているかと言えば、世の中にはまだ誠実で善良な人々が少なからずいるのに、その善意に満ちた人たちを欺いて、真実を闇の中に葬っているとしか思えないような、偽りの教理を真しやかに教えている宗教団体が溢れかえっているからだ。

無性に腹立たしくてならない。





29.9.14

コリント人への第一の手紙 10章

以前使っていたブログにこう書いたことがある。

ネットで知り合ったと言うと、「そんな、会った事もない人を信じられるものか!」というように、とても否定的なコメントをして来る人がけっこういるのだが、私はそういう人に向っていつもこう聞いてみる。「じゃ、実際に会った事のある人は皆信じられる(或は、信じられた)のか?」と・・・

これまでに、直接会ったことのある人で(もっと言うと、実際に会って話をしたことが数えきれないほどある人で)、この人なら信じられると確信を持てた人が自分の周りにどれだけ居たかと考えてみれば、『実際に会うこと』が信憑性を決定するとは言えないことは明らかではないか。

大切なのは誠実に向き合うことだ。顔が見える、見えないに関わらず、いつでも誰に対しても誠実に接することが最も大切なことだと、私はそう思っている。


「会った事もない人を信じられるものか!」と言った友人たちを、私は信じられなかった。彼/彼女らの言動は信じるに値しないほど金銭に支配されたものだったからだ。
いつでも損得勘定をしている。或は自分の所有物を自慢して歩くような、そんな『友人を名乗る人』があまりにも多く、私は次第にその人たちと距離を置くようになった。

私の生涯で、いったい何人が『自分のことを差し置いても他人のことを気遣う』ような友人だったんだろうか?
日本に一人、文句の付けようが無いほど素晴らしい女性の友達が居る。彼女は正義感が強く、裏表が無く、何に対しても物怖じせず、尚かつ信じられないほど穏やかで、謙虚で、温かく、向上心に溢れた、これ以上できた人物はいないと断言できるほどの人である。私の人生における最高の友達はおそらく過去にも未来にも彼女が筆頭であろう。

そして、ごく最近友達になった『雲の上のお師匠さん/友達』は、おそらく彼女と並ぶほど信頼の於ける人に違いないと思うようになった。実際に会い長い年月関わりのある彼女とは違い、雲の上のお師匠さん/友達とはオンラインでの、まだほんのわずかな関わりしかないが、その人がどんなことを考え、どんな人生を送ってきたかは、詳しく聞くまでもなく、会話の端々に現れる人柄をしっかり見ていれば容易に想像がつく。何故容易に想像がつくのか...、それは私達は表面だけを取り繕うような会話をしていないからだ。
人々が好んでする、何の意味もない上辺だけの褒め言葉やら、何の奥行きも感じられない食べ物の写真やらといったものをやり取りすることなく、相手は超有名人であるのにも関わらず、私のつたない英語での表現の奥底にある意味を理解しようとしっかりと、しっかりと考えてくれ、私の人間としての弱さをいつでもプラスに受け止め、引き上げようとしてくれている。反対に私がしていることといえば、彼が汗水垂らして築き上げた名声をたたき壊しているだけかも知れない… 

昨日私が自分のfacebook上に、民数記 20 : 1-12、コリント第一 10 : 12 とただ単に書いて投稿すると、彼は瞬時にメッセージを送ってよこし、「あれらの聖句は僕へなの?」と言ってきた。私は「そういつも自分自身に言い聞かせているんだよ」とメッセージを送り返したが、彼は「あなたの言葉はとても深い意味があるように思う。神はあなたを本当に愛しているよ」と返事をくれた。私はクリスチャンではないから(愛されているとは思わない)と言うと、そんなことはないと、神の愛を一生懸命に私に伝えてくれていた。
そんな敬虔なクリスチャンである彼に向って、私は、「全ての教会が真実を伝えているわけではないから、どうか注意深くしていて」とあえて伝え、彼が尚続けて、神の愛がどんなに素晴らしいかを書いてよこしたのに対して、私は「どうか偶像を崇拝する人たちから遠く離れていてください」と書いて送ったのだ。

偶像を崇拝する人たち… 教会でイエスやマリアの像やら十字架に向って祈りを捧げるよう指導している(聖書を本当に勉強してきたのか?と問いただしたくなる)司教たちはもとより、雲の上のお師匠さん自身を偶像化して崇め立てている何千というフォロワーたちのために、彼自身が犠牲にならないようにという願いも込めて書いたのだが… そうでないと、彼が信じて疑わない『楽園』に行けなくなるかも知れないのだから… 

あのモーセでさえ、最後の最後に神への敬畏を欠いた行動を取ってしまったことが聖書にはしっかりと明記されていること。また『立っていると思う人は、倒れることがないように気をつけなさい』という聖句を読んで、「それらの聖句は僕へなの?」と咄嗟に考えた彼の誠実さが、この先も邪悪な霊によって汚されることがないようにと、心から祈っている。

純粋な彼とは正反対に、心が荒んでいる私はこれで友達関係が破綻したとしても構わないと思っているし、楽園に行きたいという願いも無く、ただただ自分の人生ができるだけ早く終わってくれるようにと祈る日々を送っている。



28.9.14

Keep up your good work!

昨日のクラフトマーケットは出店者数が驚くほど少なく、朝8時から10時近くまでは非常に閑散として寂れた感が漂っていた。

10時を回った頃から会場に入って来る人の数も増え、隣りでクッションカバーを売る人の所にはひっきりなしにお客が集まってきていた。私は何故その人のデザインが飛ぶように売れるのかを考えながら過ごしていた。人の好みというのは本当に様々で、自分には想像もつかないような物が飛ぶように売れるのだ。

私のブースに立ち寄ってくれた人のほとんどが、「これらはNZで作られたの?」と聞いて来る。「ここにあるのは全部私が作ったものですよ。ガラス製品も木製品も全てハンドカットして作っています。」と答えると、皆とても驚いた顔をして、しげしげと眺め、とても美しいと絶賛してくれる。

昨日は自分でもスクロールソーを使って仕事をしていたという男性が来て、しばらく話をしながら私の作った物を見てくれていた。その人はステンドグラスも経験があるらしかったので、ステンドグラス材料は本当に高いよねという話から、何でハンダやケイムはあんなに高くなっちゃったの?と、そんな専門的な話に花を咲かせていた。
話をしていてとても楽しかった。彼はステンドグラスと木工の作品を幾つか購入してくれ、総額$100以上もの支払いになってしまったので、こちらの方が何だか申しわけない気持ちになってしまった。彼は Keep up your good work! と大きな声で言いながら去って行った。私はお礼を言いながら、心から有り難いなと感謝した。

私の仕事はステンドグラスと木工なので、仕事自体に興味を示してくれるのは男性の方が圧倒的に多い。

以前一人の年配の男性が来て、「これらの透かし彫りはどうやって作ってるの?」と聞いてきたので、スクロール ソーでカットしてるんだよと答えると、「僕はCNCルーター(コンピューター制御のカッティングマシン)を使って仕事をしているけれども、スクロールソーでここまで繊細なものを作ることができるなんて信じられないよ。素晴らしい技術だ。」と絶賛してくれたことがあった。
私が「機械のように完璧なものはできないけどね。」と笑って言うと、「同じようなものを作っても、機械じゃこの温かみは出せない。丁寧な手仕事に勝るものは無いよな… 素晴らしい。僕はあなたの仕事に非常に感銘を受けたよ。妻にあなたの作品を見せなてあげなくちゃ。」と言って去って行ったのだ。
まぁ、言わば同業者のような人からそのように褒めちぎられて、まだまだ完璧に満足する仕事ができていない私は、少々こそばゆい気持ちになりながらお礼を言った。

昨日来てくれた中国人の男性は、自分は自国で木工を教えていたから、あなたが確かな木工の技術を持っていて、しかもとても丁寧に作っているのがよくわかると言ってくれた。
「スクロールソーでカットした部分は、カットしたままの状態ではこんなにはスムーズにならない。機械でサンディングしているの?」と聞くので、「竹串や爪楊枝にサンディングペーパーを巻いて、手で磨いているんです。機械だと削り過ぎてしまう恐れがあるし、繊細な透かし彫りを折っては困るので。」と返事をすると、更に驚いた顔をして、「あなたの根気の良さと、作品のクオリティの高さにはただただ敬服するばかりだ。」と最高の褒め言葉を頂いた。
ステンドグラスはどうやって作るのか。ガラスとガラスをどうやってハンダでくっ付けるんだ?と、彼の興味は尽きなかったようで、けっこうな時間私のブースに留まっていてくれ、この次のマーケットの日にも来るかと確認をしてから去って行った。

終了時間になって、周りのベンダーさんたちが手際良く片付け始めたので、私も一つ一つ丁寧に小袋に入れ、傷がつかないように注意を払いながらコンテナに戻し始めると、一人の女性が来て、『最後の晩餐』を切り出したプレートをマジマジと眺めながら、「友達が引っ越しをするので、そのお祝いを探しているの。彼女はクリスチャンだから、これ、きっとすごく気に入ってくれるわ。彼女、私の親友なのよ。」と話し始めた。
終了時間をとうにオーバーし、イベント マネージャーが少し離れた所で苛つき気味に私がそこを片付け終わるのを待っていたのがわかったが、その女性が一生懸命に話してくれているのをよそに片付け続けるのも気が引けて、私は彼女が立ち去るまで話し続けた。
そのイベント会場を次に使用することになっているのはクリスチャンの会衆だ。自称クリスチャンの人々が片付けを手間取っている私に向って怪訝な顔をするとは思いたくなかったし、そうあって欲しくもなかったが、会場をセットアップしているクリスチャンたちの誰一人として、私に対して声を掛けても来ず、ニコリともしなかった。冷たい空気の漂うクリスチャン会衆を、私は初めて見たような気がした。



26.9.14

Bird Feeder

次のクラフト マーケット用に Bird Feeder を作った。安い板と安い外用ペンキで仕上げたので、販売価格も安い。


せっかくスクロールソーを持っているのだからと、上にドングリの型を抜いたのだが、何だかドングリに見えず、『吉』という字に見えて仕方がないのは私だけか… まぁ、『凶』じゃなくて『吉』だったらいいか… 

『吉』で思い出したが、昔近所に小吉さんというお爺ちゃんが住んでいた。ちょっとだけ運がいい人になりますようにとの願いを込めて命名されたのか? (大吉さんでも中吉さんでも何か私には違和感があるが)とても控え目な名前で、ご両親のその当時の生活振りが目に見えるようだなとつい思ってしまった。どうでもいい話だが…

この超素朴な写真を(「こんな写真」と言った方がいいくらいだ)、今日雲の上のお師匠さん兼友達とチャットしていた時に見せたら、「ラブリーだね。よくやった」と褒めてくれた。
彼は私が最近仕事に集中できていないことを心配し、また誰とも関わらない生活を選択しようとしていた私を放ってもおけず、海底に沈んだままの私の魂を引っ張り上げ、凍り付いた心を解かす努力をし続けてくれていたのだ。多忙な超有名人にも関わらず。

会った事も無く、見たことも無い私を気遣ってくれる人が地球の何処かにいるなんて、信じられない人も多いだろうが、実際にそんな人がいるのだ。
ひょんなことから知り合いになり、お互いに相手を気遣い合う友達になって行く。この世も捨てたものじゃないかもなと、凍り付いた心が涙を流した日であった。






14.9.14

さぁ、明日からまた仕事だ


先週作ったものといえば、この手前のナプキンホルダーだけだ。

今週から雲の上のお師匠さんがアドバイスしてくれたBird Feeder を作り始めようと、今日安い板数枚と安いペイントを仕入れてきた。

全てが良い方向に向かいますように。



11.9.14

Hasta pronto

彼の人が出掛ける時、私はいつも「気をつけてね」と言いながら車が見えなくなるまで見送っていた。仕事で出掛ける時にも、遊びに行く時にも、いつもそうやって見送っていた。

昨夜、英国に住む友人と宗教について語り合っていたのだが、半日遅い彼の一日はチャットの後10時間に及ぶ車の運転を課せられているらしく、無事に帰って来れるよう神に祈っていて欲しいというので、「もちろん祈っているよ。気をつけて。」と言って見送った。
彼が「Bye」と打ってよこしたので、頼むからByeと言わないでくれと頼んだ。


ずっと以前、スペイン語に興味を持っていた頃、スペイン人は Adios と別れ際に言わず、Hasta pronto とか Hasta mañana (実際に明日会うことになっていなくても)或は Hasta luego と言うことの方が多いと聞いたことがある。真偽のほどは定かではない。実際私のバルセロナの友達は Adios と言うこともあったし、こちらに住んでいるワイン屋のミゲルもそう言うことが何度かあった。マドリッドに住む友人にその話をしたら、彼はやはりHasta … と言う場合の方が圧倒的に多いということだったので、まぁ人によるということなんだろうと思う。私はHasta… の方が心地良いなと感じて、マドリッドの友人とのemailのやりとりの最後にはそう書いていたのだが、その友人とも今は疎遠になっている。


ごくありふれた言葉をわざわざ辞書で調べたりはしなかった私だが、数年前ふと「何故そう言うようになったんだろう?」という疑問が湧き、調べてみた言葉があった。
Goodbye  その語源は、God be with you. ((別れた後も)神があなたのそばにいますように)が短縮されて god-b-ye となり、Good morning などからの類推で語頭がgood に変化したと書かれていた。

誰でも別れた後双方に何が起こるかわからない。外に出かけて行った人ではなく、家にいる人に不幸が訪れる可能性が無いとは誰も言い切れない。そう考えてみると、別れ際の挨拶は Goodbye が最も相応しいと言えるのかも知れない。まぁ、相手に信仰心があればの話だが。

昨夜、彼にはGoodbyeと言ってあげるべきだったかなとふと思った。でも私はその言葉がどうもしっくりこず、See you soon.と言って見送ってしまった。

どうか彼の神が彼を守り続けてくれますように。
またすぐに、あの完全にイギリス訛りの英語が聞けるようになりますように。

心の中でそう祈ると同時に、あぁ、何故また人と関わることになってしまったんだろう… 何故フレンドリクエストを受信した時に拒否しておかなかったんだろう、何故メッセージを受信した時に無視しておかなかったんだろうと、強い後悔の念に駆られてしまった。

私もこの映画に出て来る女性のように悲しみを繰り返しそうで、本当はとても怯えている。



たった今(英国時間の午前2時過ぎ)、無事に家に戻ったよと彼は律儀に連絡をくれた。
なんていいヤツなんだ…

おやすみ…. and Goodbye.

8.9.14

Night night.

雲の上の友達の携帯電話にもfacebookのアプリが入っているらしく、私がメッセージの返事を送ると速攻で返事をくれる。そうして数分、或は数十分会話することになる。

木工の話だけではなく、色んな話が飛び出す。
この数日の間に数えきれないほどのチャットの履歴を残した。一日一回どころではなく、何度もメッセージが送られて来るようになり、まるで同僚のようだなと笑えてきたが、約半日の時差というのは厄介なもので、昨日の朝はまだ陽が昇らないうち(4時を少し回った頃)に携帯電話の着信音で起こされた(笑) 相手は私が眠っているだろうからと気遣いながら、すぐに返事をくれなくてもいいよと前置きをした上で、少し打っては送り、少し打っては送りを繰り返していたため、着信音が枕元で鳴り続け、その日なかなか眠れなくて深夜3時半近くになってようやく眠りに落ちた私は、意識朦朧としながら、「夢の中で私を呼ぶ音が聞こえたよ。:)   私、まだ夢の中に居るからすぐに返事できないかもしれないけど、よかったらそのまま喋っててくれる?」とだけ打って送っておいた。
ボ〜〜ッとしながら送られて来るメッセージに時々答えてはいたが、相手が数行書いて送ってくれても私の返事は一行のみ… 途中で我ながら笑えてきた。

そんなこんなで、これまで『雲の上』の存在だった人がしだいに画面のすぐ向こうに居る人のように思えてきて、何の気負いもなく不完全な英語で返事ができるようになっていく。面白いものである。


同居人に「ねぇ、facebookの友達の中に会った事も無い人がいる?」と聞くと、同居人は居ないと言っていた。しかも、facebookなんてもうほとんど使っていないとも言っていた。もしかしたら同居人の方が地に足のついた生き方をしているかも知れないなと、ふと思った。



クラフト マーケットのディスプレイ用に作った一面だけの壁。
色ガラスを通した光りが暖かくて、ちょっと気に入っている。



4.9.14

雲の上の友達とのチャット

今朝、出掛けなければならない用事があったので支度をしていると、ポロンと何やら聞き慣れない音が携帯電話から聞こえてきた。何だろうと見てみると、facebookにメッセージが届いているよという通知だった。そのメッセージの送り主がfacebook上の友達(雲の上のお師匠さん)からで、「僕達、まだ一度も話してないね」という、予想だにしていないものだったため、取りあえず用事を済ませてから、ゆっくり返事を書くことにしたのだが、はてさて、一体何から書き始めましょうとしばし悩んでしまった。

相手は世界的に非常に有名な人なので、こちらは彼がどんな人物かだいたいわかっているのだが、彼の方は私の素性など全く知る由もなく、私個人のfacebookにも個人の情報はほとんど何も載せていないので、一体どんな人物なのだろうかと、私のこれまでの作品を見て想像するしかない。そこで、私は簡単に自己紹介を書いて送ることにし、午後遅くになって書いたものを送信した。

彼はイングランドに住んでいるので、こちらとの時差はおおよそ半日… 送信した時間はまだ夜明け前の、し〜んと寝静まっている時間のはずだったのだが、何と即座に返事が来た。チャット機能をオフにしているのにも関わらず、私が返事できる状態にあるのはバレバレなので、そのままチャットすることに…
「私、あなたを起こしちゃった?ごめんなさい」と言うと、「ちょうど起きてたんだ。時々こうやって皆が寝静まっている時間に目を覚まして、何かを深く考えるのが好きなんだよ」と言っていた。
向こうが真っ暗な時間から始まったチャットは、私が夕食の支度を始めなければならない時間になると、鳥のさえずりとともに窓の外の木々がシルエットを映し出すほどに白み始めたようで、彼はまた少し眠ることにするよと言ってチャットを終了した。

初めて話す相手なのに、ドキドキもハラハラもすることなく、落ち着いた会話をしていた。

何故かわからないが、時々こうやって世界の何処かに住む誰かと繋がることがある。毎日私の周辺で実際にすれ違っている誰かと親しくなるのではなく、ひょんなことから見ず知らずの人と会話をするようになる...
人生はこの歳になっても予想のつかないことだらけだ。


20.8.14

ネズミとクラフト マーケット


先月クラフト マーケットに出店した際、私のブースにとても可愛い男の子が一人でやって来て、チーズの上に乗ったネズミの置物を優しく触りながら、「僕、ネズミが大好きなんだ」と、ペットのネズミの話をしてくれた。以前は二匹飼っていたんだけど、一匹白い色のネズミが死んでしまったので、今は茶色のが一匹だけ居るのだと、穏やかな口調で話していた。とても物静かな男の子だった。

しばらく話をした後、「他にネズミ持ってる?」と聞かれ、残念ながら今はそれ一つだけしかないのだと言うと、本当に残念そうな顔をして私のブースを離れて行った。


今週はその子の為にだけネズミを作っていた。
手元にある板で使えそうな物は合板の板だけだったので、作った後色を塗ろうかと思っていたのだが、ベニアをはぎ合わせた継ぎ目も、手足をとめた棒の痕が見えるのも、何だか味があって面白いなと、着色はせずオイル&ビーズワックス仕上げをして良しとした。
ヒゲは針金を使いたくなかったので、jute(ジュート:黄麻)の紐をボロボロになってしまわないようにグルーで固めて作った。

この板から生まれたネズミ… 今度のクラフト マーケットの宣伝用に写真を撮っていたら、更に可愛いなと思えてきた。

今度のマーケット デイにもその子は来てくれるだろうか…










11.8.14

美しい NZ Rimu


NZ の木の中で最も人気の高いRimuを使ってdesk caddyを作っている。このデザインは Steve Good氏によるもので、私はこのデザインで以前2つcaddyを作った。

購入した板の幅が広くはなかったので、底板は2枚を接いで、その後鉋をかけて仕上げた。
透かし彫り部分にも丁寧にシェラックを塗り、慎重に慎重にワックス(Beeswax)もかけた。

Rimuは図書館から借りてきた Maori Healing And Herbal の本によるとhardwood と区分されているが、インターネットで調べてみるとhardwoodだったり全く逆のsoftwoodと表記されていることもあり、どちらが本当なのか私にはわからない。ただ使ってみて、とても密度の高い美しい木材で、鉋をかけた感じではsoftwood の pine(マツ材)などとは比べ物にならないほど鉋がけがし易く、独特の香りを持ち、また、容易に傷がついてしまうという難点もあることを知った。

フレンチ ポリッシュを施したこのdesk caddy を見て、同居人が「ゴージャスだね」と言っていた。



7.8.14

日本ではシルバーカーと言うらしいが...

先月クラフト マーケット用に購入した新品のショッピング カートは、マーケット初日にはまぁなんとか使えたものの、満足であると言い切れるほど使い勝手が良いわけでもなかったので、引き続きカートを探していた。

国内のインターネット オークションで見つけたものは、walker / shopping cart と書かれていて、いわゆる買い物籠付き歩行器だったが、サイズが適度に大きく、クラフト マーケットに荷物を運ぶのに便利そうだなと思い入札したら、驚くほど安い金額(NZ $11.00 日本円にして約950円)で落札してしまった。


出品者の家(高速で30分ほどの距離)まで受け取りに行かなくてはならなかったため、昨日、同居人が昼休みを潰して、目的地まで運転して連れて行ってくれた。
すんなりいけば昼休みをそんなにオーバーしないで帰って来れるはずだったのだが、約束した時間に家のベルを何度鳴らしても誰も出て来ず、相手の携帯電話に連絡しても「今出られないからメッセージを残しておいて」というばかり…
おそらく出掛けていて今家に向っているのだろうと、家の外で待つこと30分。携帯電話に「待っているからすぐに連絡して欲しい」とメッセージを残し、その上テキストメッセージまで送っておいたのに、なしのつぶてで、なんてヤツだと怒り心頭に達し、昼休みを大幅にオーバーしてしまった同居人に申しわけない気持ちでいっぱいになりながら、もうそれ以上待つこともできずに帰って来た。

家に戻ってからemailで「車と助っ人を調達して約束の時間にそこに行ったのに、あなたの家には誰も居らず、携帯電話に何度連絡しても何の返事も返って来なかったのでやむなく帰って来た。頼むから、断りもなく約束をすっぽかすことはしないでいただきたい。どうやってこのトレードを完了させたら良いのか、できるだけ早く返事をもらえることを期待している」と送ったところ、すぐに返事が来て、「携帯電話はあいにくバッテリー切れで出られず申しわけなかった。けれども、自分は約束の時間の1時間半前から家に居たが、ドアベルは一度も鳴らなかったよ。きっと家を間違えたんだろう」と書いてきたので、私はすぐに、訪問した家をgoogle mapでキャプチャーしたものを添付して、おまけにその人の家に行った人でなければわからないはずの特徴のあるドアベルについても言及した上で、「私達が訪れた家はあなたの家ではなかったのですか?」と返事を送った。もし家を間違えていたとしたら、ずっと待ちぼうけを食わせてしまったのは私の方だ… (でも、もし間違っていたとしたら、どうやって正しい家を見つけられるというのだ???? ストリート名も番地も確認して行ったはずだぞ…)

その家はその人の家で間違いなかった。彼はなぜドアベルが鳴らなかったのか、なぜ気付かなかったのかわからないと言いつつも、真摯に自分の非を認め、今日こちらまでカートを届けに来てくれるというので、「あんなに安い金額で更にデリバーしたのではガソリン代の方が高くついてしまうから、あなたの都合の良い時間を教えてくれたら私が(今度はバスで)取りに行くことにするよ」と返事を送っておいたのだが、今朝、「こんな所まで2回も来る必要は無いよ。私の過失だから責任を取らせてくれ。今日の午前中に届けに行きたいと思ってるから、都合の良い時間と場所を教えて」とemailが届き、有り難く届けてもらうこととなった次第である。

会ってみるととても誠実そうな良い人だった。
私が落札したショッピング カートは彼のお母さんが使っていたもので、お母さんは3ヶ月前に亡くなったと話してくれた。彼は介護の必要があった母親を何年もずっと面倒見てきた人だったのだ。お母さんも長年辛かっただろうし、彼もさぞかし大変だっただろうと想像できると言うと、彼はお母さんがどんな状態でいたのかを丁寧に話してくれた。
私はもう若くはないし、時々腰を痛めて難儀をするので、彼から買ったカートは私の助けになるに違いないとお礼を言い、無事取引を成立させて笑顔で別れた。
彼は直接会えて話ができたことを本当によかったと言っていた。

ほんの些細な行き違いが人と人とを大きく隔ててしまうことがある。相手に対し敵意を抱いたまま、苦々しい気持ちでこの先過ごさなければならないというのは何とも悲しいことだ。
誠意を持って行動し、話し合えばわかり合うことができるということを実感した今日は、昨日の怒りもすっかり消え、オークションのフィードバックにはお互いに「喜ばしい取引だった」と感想を残すことができた。

今日は良い一日だった。



4.8.14

寒梅の咲く頃


まだ冬なのに、梅がもうすぐ満開になるよと同居人が驚いていた。
この木は寒梅だったんだと、今年になってわかった。

この冬は例年よりも暖かいと感じるのは、電気毛布の使用回数がまだ1,2回ほどしかなく、日中ストーブ無しでも大丈夫な日が多いせいだろうが、雨降りの日は多く、ほとんど毎日のように雨が降っている。


数日前、インターネット オークションで売れたドレッサー トレイを送りに郵便局まで歩いて行った。
郵便局は歩いて25分ほどの所にあり、さほど遠くはないのだが、繁華街の端と言うに相応しい、ちょうど活気の失せかけた場所に位置するため、いつもそこまで歩くと何だか疲れた感じがしてしまうのだ。

帰り道にはアジアン マーケットも幾つかあるので、食材を調達して帰ることにした。

帰り道、「私はいったいここで何をしているんだろう?」「何故ここに来て、ここに居続けているんだろう?」と考えながら歩いていた。

この国が嫌になってきたわけではない。それどころか、日本よりも遥かに住み易いと思っている。
家族はといえば、地元の大手企業に就職し、日本との繋がりなど全く無い生活を送っている。

移住し、11年が経って、もうここの暮らしが何の変哲も無い日常となっているというのに、時々ふと「私は何故ここに居るんだろう」という思いが頭をよぎる。


私の居るべき場所は本当にここだったんだろうか...

何故あの人は居なくなってしまったんだろう





23.7.14

クラフト マーケット 出店準備中

少し前、これまで持っていた物よりも一段大きい plane(鉋)を国内のインターネット オークションで(日本円にして2600円ほどで)落札した。
数カ所錆び始めていたものの、ほとんど使われなかっただろうことがブレードの状態を見てわかった。

ブレードは研いだ形跡がなくシャープそうに見えたため、試しにそのままの状態で削ってみたのだが、いくら調節しても板に深く刃がくい込んで前に滑って行かない…
微調節ができないと言った方がいいほど、本当にどうしようもなく使えない状態だった。
これを使っていた人は、おそらくこんなに使い辛いのでは使い物にならないと匙を投げたに違いない。実際、刃を研ぎ直さなかったら使い物にならないシロモノだった。

買って来たばかりなのに刃を研がなくてはならない作りになっているのはどうしてなんだろう? 買ってすぐに使える状態にしてないのにはまぁそれなりに訳があるのだろうが、不親切この上ないではないか… 
私は初めから新品を買う気は無く、中古を買えば当然真っ先に刃を研ぐ必要があるなとYouTubeで刃の研ぎ方を予め勉強してあったため、「こんなもの使えないじゃないか!」と腹を立てずに済んだのはひじょうにラッキーだったと思った。
plane(鉋)に限らず、chisel(ノミ)もやはり買ったままの状態で使い始めるのではなく、研いでから使うべしというのは木工の世界では常識となっているらしい。

今回買ったplaneは全長がこれまで持っていた物よりもはるかに長く、重量もあり、研いだブレードを付けて削ってみると、安定していてとても使い易い。
板の表面を均すのにはすこぶる都合が良く、前回買った#4の planeの出番があまり無くなっている今日この頃である。

さっそく表面を均したデッキ用の板を使って、今月から出店が決まったクラフト マーケットに掲げる看板を作り始めた。
売る物はステンドグラスと木工の作品なので、それを意識した『木+ガラス』の看板だ。

『ステンドグラス+木』という組み合わせはよく目にするが、そのほとんどが木枠とか、ランプ或はキャンドルの台座とかという程度で、木が主体でガラスが脇役というのはこれまであまり見たことが無く、これはけっこう面白いなと楽しんで作っている次第である。

スタジオに残っていた安い合板を使ってディスプレイ スタンドも作り始めた。
サイズもデザインも、製図を引くことなく板に直接印を付けて切るという大雑把なやり方ではあるが、これまでYouTubeで木工関係の沢山のビデオを見てきたおかげで、組み立てに戸惑うこともなく、スムーズに仕事ができるのは有り難い限り。

先週は、初めて Dovetail joint (日本では何と呼ぶのかわからない)で箱も組み立てた。私にしては珍しく可愛いハート形をくり抜いた木の箱。これは『ほんのわずか難あり』の、『私にとって若干気に食わない仕上がり品』を入れる箱にする予定だったが、スペースの都合で箱を置けるかどうか微妙になってきた。本当は Free と書いて欲しい人に持って行ってもらおうと考えていたのだが、そのようなことをすると周りで店を出している人たちから顰蹙を買うよと知人から忠告され、不本意ながら顰蹙を買わない程度の値段を付けて売ろうと思った次第である。その知人曰く、そんな細かい傷を気にするのは私くらいなものだと… 
ハート ボックスから買ってくれた人が「得をしたな」と思ってくれて、私が「あぁ、捨てなくてよかった」と買ってくれたことに感謝する… そんな具合に商売が成立すれば言うことはないのだが。


父が仕上げに使っていたかどうかはわからないが、『雲の上のお師匠さん』お薦めのポリッシング・コンパウンドをebay uk で購入し、届いたその日にノミを研ぎ直し、コンパウンドで仕上げたところ、おそろしく切れ味の良い刃になり、ちょっと触れただけでスッと指にくい込み、全く痛みを感じないまま、一瞬の内に傷を作ってしまった。
俊敏さが目に見えて衰えてきた私は、人一倍気をつけないと指が傷だらけになってしまいそうだ。


さてさて、
クラフト マーケットを3日後に控え、ディスプレイに必要な小道具作りは明日のペイントを残すのみとなり、どうにかこうにか間に合いそうなので、明日は釣銭の小銭をいくらか用意する為に銀行に行かなくてはならない。

連日朝から晩まで働き通しで疲れがピークに達している。
イベントが終わったら少しのんびりしよう。






22.7.14

冬のある日



NZの冬は雨ばかり。毎日々雨が降る。
けれども、日本のように一日中降り続くということは滅多に無く、降っては晴れ、降っては晴れを繰り返して一日が終わるということの方が多い。

ある日、珍しくバスに乗って単発の仕事に出かけた。
行きには雨が降っていたが、帰る頃には晴れ間が見え始め、バス停でいっこうに来ないバスを待つ間、排水溝の無い道路に溜まった水に映った景色を眺めながら、ぼおっと物思いに耽っていたが、物思いから覚めると、すっかり葉の落ちた枝々と水に浮いた落ち葉の様子が美しく思え、ポケットからiPhoneを出して写真を撮り始めた。

排水設備の整っていない大通り。
たまには美しい景色を見せてくれたりもするんだね。


15.6.14

何で?

人の一生でただ一つ確かなことは、皆いつかは死ぬということだけだ。

この世を去る時までにどんな事が起こり、どんな目に遭い、どんなことで喜び、どんなことで悲嘆し、誰を喜ばせ、誰を悲しませるようになるか、自分の人生なのに、誰も何もわからない。

今年4月、とても親しかった人のご主人が突然亡くなった。彼はとても穏やかな人で、家族を愛し、家族の為に家庭でも職場でもよく働いていた。週末になるとサイクリングに出掛け、facebookに彼のサイクリングコースの風景をよくupしていた。
亡くなる2日前にもfacebookに投稿し、何も変わったところなどなかったので、友達から送られてきた訃報を見た時には咄嗟に理解できず、「えっ?何で?」と、現実に起こっていることだという感覚がまるで無かった。
彼女も気が動転していて、何が起こったの?と私が送ったメッセージには、「あまりに突然で、何をどう話していいかわからない」という返事が来ただけで、いまだに何が原因で命を落としたのか私にはわからないままなのだ。
確かなことは、彼がもうこの世にはいないということだけ。facebookには彼の遺影と共に、友達からの嘆き悲しむ声がしばらくの間寄せられていたが、しばらくするとそれも途絶え、私達はまたいつものように生活を続けている。


先週、私はしばらく振りに友達に会いに行った。
友達の働いている店に行けばいつでも会えると信じて疑わなかった私は、その店に入り、オーナーから話を聞くまで、彼女がたまたま休みを取っているか、店の奥に居るのだろうと思って疑わなかった。
店のオーナーが沈んだ声で言った。彼女は今年3月末に癌が見つかり、化学療法を受けながら、摘出手術の日を待っているところだと。
私はまたもや、「何で?」と心の中で繰り返していた。
何でそんなにも急に彼女の人生が変わってしまうのだと、悲しいというよりも悔しい気持ちでいっぱいになってしまった。


明日自分や自分の身内、或はよく知る人がどうなるかなんて、誰にもわからない。
それなのに、生きて行く為に職を探し、お金を稼ぎ、蓄え、将来に備えていなければならないという強迫観念に晒されながら、ほとんどが好きでもない仕事をし続けている。

私達は一体何の為に生まれてきたんだ?

汗水垂らして働き続け、毎月政府に多額の税金をふんだくられ、困窮しても充分な保障など得られず、自分が亡くなったら家族はまるでハイエナのような政府から「相続税を支払え」と脅迫される。それまで散々人の稼ぎをふんだくっておきながら、悲しみのどん底にある人々によくもそんなひどい仕打ちができるものだと呆れるばかりである。

こんな世の中に、もうとっくに愛想を尽かしている私の身に、なぜまだ最後の日が来ないんだ…





6.6.14

料理屋と電子レンジ

ある寿司がメインの料理店の厨房を覗いてみる機会があった。

朝一番で残り物の酢飯(硬くなるという理由で冷蔵庫には入れず、室温に置いたままだったもの)を電子レンジで温め直し(火傷するほど高温になる)、硬くなった部分を捨てながら寿司を巻く。酢は飛んでしまっているが、酢を足すということはしなかった。
残り物の酢飯を温め直す作業は正午過ぎまで続き、午後になって当日炊いたご飯に合わせ酢を混ぜ、そのまま長いこと放置… 当然酢飯は硬くなっているが、シェフ曰く、硬くない酢飯は酢飯ではないと… 私には硬過ぎた。


私が生まれ育った県には大きな漁港が2つもある為、そこで不味い寿司にお目にかかることはまず無かった。

以前東京で働いていた伯母が実家に帰った際、駅ビルに入っていたチェーン店の寿司(近海握り)を食べ、「こんなに美味しいお寿司をこんな所(高級料亭ではなく駅ビルの中)で食べられるなんて! しかもこんな良心的な値段で!!」とえらく驚いていたのを今でも思い出す。
伯母は長く住んでいる東京或は千葉近郊では『超高級寿司屋』にしか行かない人で、安い寿司が美味しいわけは無いとその時まで信じていたのだが、伯母の実家(=私の生まれ故郷)の辺りでは、都会の超高級寿司屋に遥かに勝る素晴らしく美味しい寿司が、普通にスーパーマーケットのお惣菜売り場でも手に入るのである。

残念ながら、私はNZで寿司を食べて美味しいと思ったことは今日まで一度もない。
どんな料亭で出されるものも、取り立てて評価する気にもなれないものばかりで、刺身も(サーモンだけは美味しいのだが)マグロに至っては色でマグロかな?と想像がつくものの、味は無いに等しく、ただの水を含んだ赤っぽいスポンジのような感じで、恐ろしく不味い。

前述の寿司がメインの料理店のシェフは年期の入った日本人という風貌はしているが、実際に料理の工程を見ていると、電子レンジ無しでは営業できないだろうと思えるほど、ピーピー、ピーピー一日中電子レンジ音が厨房に鳴り響いていて、それだけで何だかゲンナリしてしまい、シェフがどんなに御託を並べても、ちっとも凄いなとは思わなかった。

前日作り置きしておいたものを翌日電子レンジで温め直して出すという方法でなければ数をさばくことはできず、収益に影響が出るというのは、まぁビジネス畑にいる人には当然のことなのだろうが、せめて、料理の蘊蓄を述べたいのであれば、電子レンジを多用するのだけは止めていただきたいと強く思った次第である。

そこの寿司は、私にとってはどれもお金を出して買うほどの味ではなく、更に、頂いた寿司の揚げ物(巻き寿司に天ぷら粉をつけて揚げたもの)は、表現するとしたら、『油の味しかしないのり巻き』で、周囲はカチコチに硬く、これまでの人生で食べた最も不味い寿司であった。

まぁ、あれを『寿司』と呼ぶのであればの話だが。


おっと、書き忘れてしまった。
自分を超一流の板前だと自負して止まないシェフの働く店のメニューには『インスタントラーメン』というのがあって、それが一番収益率が高いと笑っていた。

インスタントラーメンだよ… しかも、スーパーマーケットで買える一番安いのだ。



何にでもケチを付けないと気が済まない人

久しぶりに遭遇した一昔前の典型的な日本人ボス(今もそういう人が多いのかもしれないが、10年以上前に日本を離れているので、現状が如何なものかわからない)は、目下の者がすること成すことにケチを付け、それが教育だと思い込んでいるフシがあって、あぁ、これでは誰もそこで長く仕事を続けようとは思わないだろうなと、彼が頻繁に求人広告を打たなくてはならない理由がよくわかった。

スタッフが頻繁に変わっている職場というのは、多くの場合、上に立つ者の技量の無さが原因であると断言できる。
各従業員の長所を最大限に引き出し、更に向上させるような環境を作るどころか、欠点を殊更強調し、気力を萎えさせ、終いには反発を覚えさせるほどに他人を扱き下ろすことを喜びとしている上司に、誰が好感を持ち、時給以上の働きをして喜ばせようと思うだろうか。そんな奇特な人は滅多に居ない。お金のためと割り切ってしばらく働いたとしても、バカにされ続けながら働き続ける忍耐力のある人はそうは居ないと、誰でも想像がつくだろう。

日本は『けなして教え込む』文化であるのに対し、西洋諸国の多くが『褒めて教える』文化であると聞いたことがある。なるほど、NZでは些細な事柄でもまず褒め、努力を要する場合には、「こうすれば更に良くなる」と付け加え、その人のやる気を引き出すという教育の仕方をよく目にする。
これは教育されている当人のみならず、周囲に居合わせる者たちにとっても気分の悪くならない方法で、無用な争い事を作らないという点でも優れているように私は思うのだが、どうもそのやり方は、権力を笠に着た日本人には好まれないらしい。
一旦権力を握ったボスが、愚かにも『威張り散らすのが権力者たる証』と、他の人の気持ちを微塵も推し量ることなく、言いたい放題、したい放題を働き、犠牲者をどんどん増やし続けているのである。
何と愚かなことよ…

同居人たちがそのような技量の狭い上司の下で働かないでいられることを、改めて心から嬉しいと思った一日であった。





26.5.14

CIRQUE DU SOLEIL - ALEGRIA Full HD




Alegria

ひょんなことから見つけたこのビデオ… 

実は国内のインターネット・オークションで Algeria (アルジェリア)関連の物を探していた時に、Cirque Du Soleil のミュージック・アルバムが出てきて、リストアップされた曲の中に『Alegria(アレグリア)』ではなく『Algeria(アルジェリア)』とミスタイプ(?)されて載っていたため、『Algeria(アルジェリア)』って一体どんな曲なんだろうと興味津々で探したのだが…  そのような名前の曲は見つからず、似通った名前のこの曲ばかりが出てきたのだ。

この曲を聴いた時から、何故か"Alegria"の存在が気になって仕方がなく、今度は『アレグリア』って私にとって何か意味があるものなのか?と、googleで検索し始めた。


そして、フィリピン  セブ島にその名前を持つ場所を見つけた。

(典拠 : Wikipedia)




Cirque du Soleil - Alegria

25.5.14

秋生まれ


自分が秋生まれだなんて思ってもみなかった。

NZは今が秋真っ盛り。朝晩は10℃前後になり、日中はもう20℃を切っている。
肌寒い日には電気ストーブをつけたり、電気毛布で短時間ベッドを温めたりなどして、やせ我慢をしない生活を送るようになったのは、やはり歳のせいなのだろうか?

写真は、数ヶ月前にスクロール ソー アーティストから購入したパターンでトレイを作り、渋めの着色をしたまま放っておいたもの。

もうすぐ辺りはこんな色の葉っぱでいっぱいになる。



11.5.14

Happy Mother's Day

私の母は、どんなに膝が痛くてもいつものように全ての家事をこなし、買い物にも行き、年老いた父を病院に連れても行き、どんなに歯が痛くても(自分はお粥しか食べられなくても)家族の為に三度の食事の支度をし、朝から晩までずっとずっと働き続けている。

我慢強さでは、私は到底母には適わない。

母は今年82歳になる。
あの歳で車を運転し、パソコンを使って写真を添付したメールを送って来れるようになるなんて、一昔前には考えてもみなかっただろう。
実の親ながら、たいしたものだと感心するばかりである。


私は母の為に何をしてあげただろう?
何の役にも立っていないばかりではなく、今でも世話になりっ放しじゃないか。
あぁ、何と情けないことよ...


どうか、大きな病気をせず、まだまだ元気でいてくれますように。




7.5.14

新しい家に行った作品

今日、お気に入りの一つだったステンドグラス作品を手放した。


これは多くの人に「リフレクションが素晴らしく美しい」と言ってもらった写真だが、購入してくれた方はこの写真を見たことはなく、スタジオを訪れてくれた際に一目惚れし、海辺の家に引っ越された後に引き取りに来られたのである。

私は、この作品はステンドグラスを施した側からではなく、このように波打ったガラスを通して見た方が美しいと思うと助言した。彼女もまた同意見で、「本当に綺麗だわ」とずっと反射した部分に見入っていた。

ステンドグラスっていいなと、今日改めて思った。


5.5.14

商品写真の撮り方

もちろん「買わなくちゃ!」と思わせるような魅力的な写真でなくてはならないが、かといって、本物を手に取った人が「な〜んだ、こんな物だったのか」とガッカリするほど実物よりもはるかに素晴らしい物に見えてはいけないのだ。その兼ね合いがけっこう難しい。

先週、国内のインターネット・オークションに出品していた Trivet (鍋敷き)が売れた。
落札者は遠く離れた場所に住んでいるため、もちろん私の手作り品を実際に目にしたことはなく、オークションに掲載されている一作品たった一枚だけの写真を見て購入を決断してくれたのだが、なんと同時に3点も購入してくれ、商品が手元に届くのを楽しみにしているとメッセージを送ってくれた。

私は鍋敷きには無垢の板ではなく合板を使っていて、それはしっかり商品説明の欄に書かれており、更に、中には合板とは何ぞや??という人もいるだろうと思い、合板についての説明文をwikipedia から抜粋し載せてもいるのだが、特にステインしてある商品については板の断面までは写真に鮮明に写らない場合の方が多く、どれだけの人が仕上がりに納得してくれるか、非常に気になっていた。

そこで、落札者へのお礼のemailには、使用材料と工程の大まかな説明を付け加えておいた。
合板は無垢の板と比べて熱にも水にも強く、鍋敷きとして使用するのに向いているのだが、断面が幾層にもなっているのが見えてしまうのが難点だということ。それでも自分が納得できるまでサンディングと着色を繰り返し、表面はかなり滑らかに仕上げてあること。また、デリケートな透かし彫り部分については、表面と同じように充分な処理を施すと果てしなく時間がかかってしまい、商品の価格がとんでもなく跳ね上がってしまうので、2〜3度の処理で良しとしていること。そして、もし商品が手元に届いて気になる部分があったら、どんなことでも構わないので、連絡をいただけると有り難いとも書き添えた。

通常は1〜3日で配達されるのだが、3日目がちょうど週末となってしまうので、もしかしたら配達は週明けかなと思っていたのだが、土曜日の午前中に届いたようで、オークションサイトに素晴らしいフィードバックを送ってくれてあった。
そして更に、ご丁寧にemailも送ってくれ、「写真で見てはいたけれども、実物は写真よりももっと素敵で、嬉しくて、emailでお礼の気持ちを伝えたかった」と書かれていた。

有り難く、またこの上なく嬉しい取引であった。


私が撮って載せた写真はきちんと役割を果たし、実物をほんの少し引き立てるのに成功したようだ。:)






4.5.14

イスラミック ランプ 再び

イスラム教徒でもなんでもないのに、時々思い出したようにイスラミック パターンで作品を作っている。

前回作ったランプは完全に『ステンドグラス屋』のランプで、おそらく木工に携わる人はこうは作らないだろうと思える作りだったが、今回作ったランプは、木工を少しかじった人が作りそうな組み立てになっていて、自分で言うのも何だが、少しは木工の技術が進歩したなと感じてもらえる作りになっている。

木枠の透かし彫り模様が命のランプであるが、それでも、やはり『ステンドグラス屋』として、ガラスの選択には細心の注意を払い、用意した装飾木枠の色柄にしっくりくるかどうかを熟慮し、光らせても光らせなくても違和感が無いようにと考える。

今回透かし彫り部分のバックに使ったガラスは、何故あんなに高価だったのかいまだにわからない磨りガラスで、中の電球がはっきりと見えないように考慮しての選択だったのだが、両サイド(四方)にはやや黄色みをおびた琥珀色の、凹凸のある透明ガラスを入れている。
チラッと見ただけだと、ただ透かし彫りを施したランプにしか見えないのだが、灯りを点して壁に映った光を見ると、注意深い人は「あれっ?」と思うことだろう。

このランプは上下の台が外れるようになっていて、下の台を外すと電球を交換でき、上の台を外すとガラスを交換できる仕組みになっている。
何故ガラスを交換するのに下を外すだけではダメなのか… それは、中に仕切り板を取り付けてあり、ガラスはその板の上に乗っている状態であるためで、その仕切り板はこのボックス型をしっかり固定しておくための支えとして機能しているのと同時に、電球の光りの漏れを少しだけ防いでもいるのである。

そのように、細部にこだわって作ったランプであるが、「完成度は?」と同居人に聞かれて、「60%かな」と答えた。あるいはそれ以下かもしれない。

まだまだ父親の技術の足下にも及ばないなと思った。
「もうちょっとだな」と言う父の声が聞こえるようだ。



24.4.14

義援金 & 寄付金

総額幾らの義援金/寄付金が、誰それの元に届けられたという記事は珍しくはないが、その『総額幾ら』かを数える人は何を思いながら数えているのだろうと、ふと思った。

果たして数える必要があるのだろうか? 数えて『義援金が足りない』と更に募金活動に専心するための資料とするのか? 反対に『多過ぎた』と感じる場合は無いのだろうか?

そもそも寄付というものは見返りを期待しない善意でなされるはずのものであるのに、善意でなされたものについてわざわざ集計を取り、「幾ら幾らのお金が集まりました」と世間に公表することに、何ら違和感を感じないものなのだろうか?

以前勉強していた聖書にはこうあった。

人に注目されようとして自分の義を人の前で行うことがないようによく注意しなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに、憐れみの施しをするときには、偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように、自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなた方に真実に言いますが、彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかしあなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかに[なされる]ためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイによる書 6:1-4 )

自分の前にラッパを吹く人(或は団体)を、日常生活であまりにも多く目にし過ぎているせいで、それを『偽善』と呼ぶ方がかえって悪人扱いをされそうな気がするが、少し前、こんなにも沢山のお金が集まったと得意げに公表し、笑顔で会見している(或は写真に納まっている)人々をインターネットを介して観た時、私にはどうしてもその人たちが常日頃素晴らしく善良である人のようには見えず、ただ『お祭り騒ぎが好きというだけの人』にしか見えなかったのである。

その人たちは誰に対しても優しい態度を取ることができるのか… おそらくできないであろう。誰にも知られないように善意を行うことができない、或はそうしようとしない人の本性がそこにはっきりと現れているように思えてならないのだ。
そのような人たちの多くは、おそらく一人では何も行動できないに違いない。

世の中は、自分の前にラッパを吹くことをしない人々をあまりにも安易に冷酷な人だと決めつけるきらいがある。そして、羊の皮を被った得体の知れないものが大腕を振って闊歩し、真の羊はひっそりと隠れるように暮らすしか術が無くなっているのではないか...

あぁ、嘆かわしいことよ…

"人に注目されようとして自分の義を人の前で行う"人々よ、どうか、そのようにしない人々を非難だけはしてくれるな。



15.4.14

盆栽事始め


ボサボサに伸びてしまっている庭の梅の木があまりに凄まじかったので、自己流で枝を切ったのは先月だっただろうか?(定かでない)

はらった枝の曲がり具合が面白くて、「これ、ネックレスとかを引っ掛けておくのに使えるかもね」と捨てずに取っておいた1本だったのだが、たまたま新しく買ったノミをシャープに研いだ直後だったので、切れ味を試すべく枝の切り口を斜めにカットしてみると、小気味いいほどスパッと切れて、それを見た瞬間、昔庭に植えたブルームーン(薄紫の薔薇)を剪定した際に挿し木を試みた時の記憶が蘇ってきた。

挿し木をする際には、切れ味のいいナイフで切り口を斜めにカットすること。

それから数週間、手元にあったサルサソースの空き瓶に水を張り、そこに無造作に枝を突っ込んだまま、光りが差し込まないスタジオのキッチンの窓際に置き、時々水を換えては「全然根っこが出て来ないなぁ」と、私は切り口ばかりを見て過ごした。

先々週末、庭のベジガーデンを手入れしようと同居人と一緒に裏庭に下りて行き、作業を終え私がスタジオのキッチンで手を洗っていると、同居人が入ってきて「お〜、何か刺してある」と声を掛けてきた。
私は、「あぁこれね… ほれ、ちょっと前に梅の枝を剪定した時にジュエリーを引っ掛けておくのに使えそうだねって言って取っておいた枝、水に浸けておいたら根っこが出て来るかなぁって思って浸けておいたんだけど、全然出て来ないよ」と返事をした。

「葉っぱ出てるよ」と言われて、「えっ??」と見上げると、可愛い葉っぱが数カ所から出ていてビックリした始末である。
薄暗かったせいもあるのだが、葉っぱが出るということを全く想定していなかった私はそれには気付かず、水の中ばかりを気にしていたのだ。

この可愛い枝振りを見た同居人は、その時盆栽に目覚めてしまい、しっかり根付いたら会社の机の上に置くんだと言って、インターネットで盆栽の心得を調べ始めていた。
思いもかけないところから趣味というものは始まるものなんだね。

24歳女性、盆栽にハマるの巻。


23.3.14

鉋との格闘の日々


国内のインターネット・オークションで落札した古いStanley #4 Plane 。
日本でよく使われている木製の鉋(カンナ)とは違い、こちらは主に押して削ぐタイプである。(時には引いて使うこともあるが)

送られて来た鉋の刃を研ぐことから始めた。例によって雲の上のfacebook friendであり、インターネット上のお師匠さんでもある人の懇切丁寧な刃の研ぎ方を倣って、でき得る限りシャープに研いだ。
そして次に鉋の底を平らにするために、#120と#240のサンドペーパーで磨いた。この鉋は中央が必要以上に凹んでいて、かなり長いこと磨かないと平らにならなかった。
私のお師匠さんは、底を一旦平らにした後、両サイドを5〜6ミリほど更に削って、板を削っている最中に両サイドのエッジで板を傷つけるのを回避するよう奨めていた。
また、前方の数ミリも若干削り、後方の縁もスムースにしておくようにとのことだったので、その通りに仕上げをした。40年以上も家具職人として非常に美しい仕事をして来た人の言うことだ、間違いはないに決まっている。

準備は整ったものの、これまでの人生で一度も鉋掛けをしたことなどない私は、見よう見まねで(しかもインターネットのビデオでだ)始めてみるしかなく、少し削っては平らになっているか調べ、また、板の側面と直角になっているかにも注意を払いつつ、削る深さを微妙に変えたりなどして、ようやく少しコツをつかんで来たところである。

納得いくまでやり続けないと気が済まない性格に生れついてしまったため、他のことには集中できず、ずっと、どうしたらうまく鉋を操れるようになるのだろうかと、この3日間考えっ放し… 幸いなことに、雲の上の友達/お師匠さんは数多くのとても役立つビデオを一般に公開してくれている為、夕食が済むと毎晩ビデオを見て勉強しているのだが、頭で覚えたことを、言うならば『感覚で覚える』までに身につけるのには、まだもう少し鍛錬が必要で、この程度ではまだ良しとできないなと、今日も練習を終える時にそう思った次第である。

日頃使わない腕の筋肉を使うため、腕がダルくてたまらない。
しかも、鉋を握っている右手の人差し指が微妙に鉋本体と当たる部分があって、そこが水ぶくれになりつつあり、少々腫れてもいる。

でも、鉋掛けは思った以上に楽しい。



11.3.14

新しい友達?

仕事に使わなかったら全く必要なかった Facebook のアカウントだが、それでも数少ない知り合いといまだにささやかながら繋がっているため、時には語学学校時代の友達やブログで知り合った友達(と言っても、皆はるかに年下だが)からemailではなくFacebookを介してメッセージが来たり、私は気が向けばこんなものを作ったよと、焼きたてのパンとかクッキー、ケーキやピザの写真、はたまた仕事の写真やらをアップしてみたりもして、年に数回はソーシャル・ネットワークというものを使っているかなという状態である。

その程度しか使っていない個人の Facebook に、先頃珍しくフレンド・リクエストが来ていた。
全く会った事のない、言うならば雲の上の存在の人からだった。
その、雲の上の存在の人からフレンド・リクエストがくることなど、全くもって予想外で、本当に本人からか?と、一瞬疑ってしまったほどである。

彼は木工の世界では抜きん出て有名な人なのだが、長くガラス関係の仕事をしていた私は木工の世界のことなど知る由もなく、ある日偶然 You Tube で彼の卓越した技術を見た時、私はまるで父を見ているかのような郷愁にかられ、それからというもの、彼の技術を何度も何度も繰り返し見ては、知識として頭に詰め込み始めたのである。
彼の仕事用の Facebook page では、作業風景に加え、彼の人となりも垣間見えたりし、写真に加えて気取らない人柄が滲み出ている文章を読むのもまた楽しみになっていた。そう、ただの一般フォロワーとして、優れた技術に感服し、楽しんでいたのである。
私としてはそれで充分だったのだが…  
なぜフレンドリクエストが来たのかいまだにわからない。

木工については超初心者の私が持っている道具といえば、リョービの格安テーブル・ソーと、中古の Excalibur スクロール・ソー、マキタの小型電動ドリルとリョービの卓上ボール盤(卓上穴あけ機)、それにボッシュのサンダー件マルチツールセット(?)くらいなもので、サンディングのほとんどはサンダーを使わず、サンドペーパーで腕がダルくなるまで磨き続けることの方が多い。カンナもノミも持っていないので、シャープ且つ吸い付くような滑らかな表面に仕上げることなどは到底期待できない。
木工を仕事としている人の中には、板をカットする段階でさほど厳密に正確である必要はないという人が多くいるが、そのような人々は、強力なサンディングマシンで図面通りになるまで削って形を整えるのだ。しかし、サンディングで吸い付くようなシャープな面を作るのは不可能に近いように思えて、私はどうにも納得できる仕上がりにならないことに苛立ち始め、どうにかならないものかと考えあぐねていた。

雲の上の人は、公開しているビデオの中で、仕上げをカンナで軽く削ってピッタリになるように、コンマ何ミリという誤差を残してノコギリで板をカットしていた。(またはシャープに研がれたノミで誤差を削ぎ落としていたりもしていた)
「そうだ、そうしなければならなかったんだ」と、テーブルソーで切っただけのざらついた断面をピッタリつなげようとして長い間苛立たしい思いをしていた私は悟った。

実家の近くに住んでいたら、迷わず父に聞きに行っただろうが、そうもいかない今は彼のビデオとウェブサイトに載せられている説明だけが頼りだ。

ビデオで作業を見ることのできる You Tube には電動工具を使いこなす人の方がはるかに多く、中にはジグまで数多く手作りし、そんな方法があったのかと目からウロコの木工技術を披露してくれる人も何人かいるのだが、かつてアンティーク修復工房でほぼ誤差のない仕事ができるよう訓練を受けた私には、どの方法も満足できるものではなかった。
日本の伝統工芸師、或は宮大工のようなとびきり繊細な仕事をする人のビデオもYou Tubeにアップされてはいるが、そのような人はただひたすら作業をしている姿のほんの一瞬しか映されることは無く、そこから技術を学ぶことは非常に難しい。

雲の上の人は惜しげも無く昔からの工法を一般大衆に教えている。しかも教え方がとても上手だ。年期の入っていない人々がどのようにしたら完璧に綺麗なものを作ることができるかを、これ以上無いと思えるほどに丁寧に教えてくれている。
穏やかな口調と、超有名人なのに何もひけらかすことの無い真摯な態度は、見ていてとても気持ちがいい。




30.1.14

インターネット・オークションでの一齣

ステンドグラスで製作するのは無理があると諦めていたデザインがあった。

そのデザインを透かし彫りで作り、大好きなアンバーの色ガラスを合わせてみると、ずっと作りたかったものの形が見えてきた。

透かし彫り部分は先週出来上がっていたのだが、その他の部分をどのように組み立てようかと考えながらの作業で、なかなか仕事が進まない。


昨日、インターネット・オークションに長い間出していたイスラミック幾何学模様の装飾兼鍋敷きに質問が来た。
$40で出品していたものだが、$20で売らないか?というオファーだった。
$35だったら「う〜ん、どうしようかな…」と思っただろうし、$38だったら多分売っただろうが、半額は論外である。
どこの国の人だろうとプロファイルを見ると、典型的なイスラム教徒の名前だった。そこで、オファーを受けようかどうしようかとしばし考えた。難民としてこの国に来た人かも知れないと思ったからだ。

オークション・サイトには個人の取引記録(feedback)が載っている。相手が安全な取引相手かどうかを見る為には大変有効なもので、それを見てでき得る限り用心深くしていれば、売るにしても買うにしても、思わぬ落とし穴にハマらないで済むことも多い。
例えネガティブな(マイナス)評価が付いていたとしても、双方の『言い分』とフィードバックの履歴を見れば、大概の場合どちらの言い分が正しいかがわかってくるものだ。

その半額に値切ってきた人の評価は、100%ポジティブだったので、どうしようもない人では無さそうだと思った。どうしようもないと一括りで表現したが、その表現の中には「約束を守らない」とか、「行動が極めて遅い」とか、「(売り主の場合)平然と偽りの記述をしている」とか、色々な要素が入っている。

これまですんなり取引が行われた人については、ざっとfeedbackに付いている評価のマークを見る程度だったが、今回はその人がどんな物を購入しているのかを少し見てみることにした。私のように、安いものばかりを買っている人だったら、$20でいいにしようかなという思いもあったのだ。

購買履歴から、その人は私よりもずっと生活に困っていないように思えた。
そこで、その人のオファーへの返事をどのように書こうかおおよそ決まった。

返事にはこう書いた。

「残念ながら、オファーを受けることはできません。なぜなら、私はこの作品の透かし彫りと最初のサンディングに4時間かけ、それに色を付け、乾かし、サンディングし、重ね塗りし、磨き上げるまでに数日間に渡り更に多くの時間をかけたからです。これは手間のかかる仕事で、私は全ての作品を丹誠込めて作っていますので、いくら頑張っても政府の決めた最低賃金を稼ぐなどということは夢のまた夢でしかありません。ですから、どうぞ私に対して値引き交渉などしないでください。何はともあれ、興味を持ってくださってありがとう。」

昨夜、同じ人から今度はBuy Now価格は幾らかという質問が来ていた。
すぐに出品価格と同じ金額をBuy Now価格としてセットし、Buy Nowを付けた旨を返事しておいたところ、今朝、email boxにその人が落札してくれたという通知が来ていた。

きっと良い人なんだろうなと思った。




26.1.14

初めてのチーズ・フォンデュ

ネット・オークションで激安で落札したチーズ・フォンデュ・セット。

食べ初めてすぐに、何を食べても同じ味なのに飽きてしまい、もう食べなくていいなと、満場一致で、たった一回きりのチーズ・フォンデュの夕べは終わった。

チーズだらけでも、ピザだったら何度も食べたいと思うし、スパニッシュ・オムレツ風卵焼きにもチーズを乗せてこんがりさせて食べたりもしているのに、チーズ・フォンデュだけは短時間で飽きた。
どうも我家はそのテの料理には向いていないようだ。


はてさて、この鍋、他に何に使えるだろうか…


21.1.14

GO LEFT


Steve's Proverb (デザインしたのは Steve Good)


これと同じデザインで、ペイントしてない物をインターネット・オークションに出した。
$1 リザーブで。

カットするのにけっこう時間はかかったが、これを欲しいと思う人はおそらく順風満帆とは言えない状態にあるに違いないし、そんな人から高いお金など取れないよな… それに、別に何も困っていない人にはこんな言葉など必要ないし、ただのコレクションとして買ってもらっても嬉しくないし… との思いがあっての $1 リザーブだった。

出品して早々にbidがあった。そしてオークション終了5分前まで$1のままだったが、この作品をwatch list に入れる人の数はうなぎ上りに増えて、閲覧数も驚くほど増えていたので、そんなに多くの人が最後の最後に入札しようとしているのか???と信じられない思いでオークション終了を待っていた。

競り落としてくれたのは北島のまん中辺りに住む女性で、競り落とした金額は$10に満たなかったが、私は金額が異常に上がらなかったことを心から嬉しいと思った。

何かに喘いでいる人からお金をせしめても何も嬉しくなんてないじゃないか。
上手くいかないことに苛立ち、落ち込み、苦悩している人が、もしかしたらこの言葉で奮起して、解決策を見出そうと別の道を模索し始めてくれたら、それだけで充分じゃないか…

彼女はオークション終了後すぐに入金してくれた旨をemailしてくれ、私は昨夜の内にしっかり梱包を済ませ、今朝郵便局まで荷物を出しに行った。彼女が実物を手にして喜んでくれることを心から願いながら。

Try to go left...

全てが上手くいかなかったら、進む方向を変えてみればいい。
もしかしたら、上手くいかない事柄は、上手くいかない方がいいということなのかも知れないよ。
ずっと後になって、方向を変えたことが正解だったと気付くかも知れない...
私のように。



3.1.14

教会に置く十字架を作ることになった

今日は、オークションに出品していた合板で作った Celtic 模様の Cross を落札してくれた人がいた。
支払いをクレジットカードで済ませてくれた上で、もう一つ欲しいんだけどというリクエストが来たので、ちょうど作ったものがあるけれども、材質は無垢のマツ材で、もしそれでよかったら同じ値段でいいですよと、無垢で作ったものの写真を付けて返事を送ると、教会の lectern (聖書朗読台、書見台)とalter の前(私は教会のクリスチャンではないので、どこだかわからない)に置くので、同じものがいいとのこと。

教会に置くのであれば、少々安っぽい感の漂う合板の十字架よりは無垢のマツ材の方が相応しいでしょうと、「無垢のものの方がよかろうと思いますので、2,3日いただければ、もう一つ無垢でお作りしますが、それでよろしいでしょうか?」とemailを送った。

何度かemailでやり取りをし、追加代金を既に振り込んでくれたことと、急がなくていいと付け加えられたemailが夜10時頃届き、今日のやりとりを無事終えることができた。

送り先はこれまで聞いたこともない地名だった為、どこだろうと地図で見てみると、オークランドよりもずっと北の、もう少しで北端に届きそうな場所であった。

私の作った物が、遥か遠くの見知らぬ町の教会に飾られるのか… どんな教会なんだろう? 願わくば、つい最近になって初めて足を踏み入れた Parnell の Holy Trinity のような立派過ぎる建物ではなく、こじんまりした教会であって欲しいなと思ってしまった。

モスクにしても、チャーチにしても、豪華絢爛なのは本来の趣旨にそぐわない気がしてならないのだ。
きっと、そのような所には超高級な装飾品(教会にはご立派な十字架)が飾られているに違いない(笑)
何の為に超高級なものが必要なのかさっぱりわからないが…

そんなわけで、明日、明後日は教会の十字架作りを主として、合間に昨日からの続きの作業をする予定。

今日は珍しく蒸し暑い一日だったが、夜までしっかり働いた(笑)

そうだ、私の作った直系1m越えの睡蓮のステンドグラス・パネルは、仏教徒の瞑想の間に飾られているんだった…

何でも屋だな…


追記:alter とは何ぞやと調べてみたら、祭壇のことだった。



パン型 蓋改良

おそらく 10 年以上前に買った長い USA Pan のPullman Loaf 型は、そのサイズ故、これまで備え付けのオーブンでしか使えなかったが、昨年末に購入した Ninja Foodi XL Air Fry Oven は結構な大きさがあるため、使えないかとサイズを測ると、本...